後編
彼と出逢った、一番初めの時を私は鮮明に覚えている。
当時、私たちはまだ幼かった。
天邪鬼な彼の言葉を、素直な私は素直に受け取った。後々から彼の母親に本当に言いたかったことは違うのだと言われたけれど、当時の私には彼がそんな風に思っているとは到底思えなかった。
それからはずっと苦手だった。
でも、それよりも前に、出逢った瞬間から私は彼に惹かれていた。ただそれが良いものか悪いものか、私には区別することができなかった。
大きな波に一瞬で飲み込まれるような感覚、彼だけが世界に存在しているような錯覚、ずっと一生一緒にいるかもしれないと確信にも近いような思いを、彼が目の前から消えてしまうまでずっと抱いていた。
苦手だ嫌だなと思いながら気になっていて、反抗しようと思えば反抗はできたけれど、それでも私は彼の言うことをずっと聞いていた。
小学校、中学校、高校と同じ学校に通う私たちは毎朝一緒に登校する。きちんと約束したわけではないのに、彼はとろい私を待っている。帰りも、私が委員会で遅くなる日も帰宅部の彼は待っている。
コミュニケーション能力の低い私の唯一の友達は、靴箱の前で待っている彼の姿を見てはいつも呆れたように笑ってさよならをする。時々、三人で一緒に帰ることもある。けれど、彼が時々一緒に待っている彼の友達と帰ることは無かった。
同じクラス、隣の席なのに、彼はいつも玄関で待っている。ホームルームが終わって掃除をして靴箱に行く間、私は友人とゆっくり話している。
ある時、どこかで誰かが話しているのを聞いた。
ある空き教室で彼と私の友人が仲良さそうに話しているところを見た、と。
実は付き合ってるんじゃないかとか私を隠れ蓑にしてるんじゃないかとか、名前も知らない誰かが面白おかしそうに話していた。
彼と私は常にセットで考えられていた。彼はよく私に命令し、あたかもご主人様のように振る舞う。出逢った時から子分の私は、ご主人様の命令に唯々諾々と従う。誰かが主人と奴隷みたいだねと話しているのを聞いて、確かにそうだなと思った。
そんな私には友達がいない。唯一の友人以外の女の子と話すことすら少なく、ましてや彼以外の異性と話すなんてことは無いに等しい。
彼もまた、私以外の異性と関わることが少ない。話しかけられたら話すし、話しかけることもある。ただ必要以上に関わろうとしない。
ただ、彼は私の友人とはよく話す。そのことに関して友人が同級生に何か言われていることは知っていた。それは私の友人だからだと友人は言っていて、その繋がりさえなければ有象無象の一人に過ぎないとも。
それを信じる振りをしながら、私はどこかで疑っていた。
どうしてあの日、噂の空き教室に行ったのか。
予定だった委員会が急になくなって、帰ろうとした。帰ろうとしたけれど、教室に戻ってみると彼はいなかった。玄関に行って彼の靴箱を見ると、まだ靴があった。そこで携帯を取り出して連絡を取ろうとして、学校で携帯を使用するのはいけないと鞄にしまった。
そこで、私は帰っておけばよかった。
何を思ったのか空き教室に足を向けて、そろりそろりと近づいて、そっと扉を開いたつもりだった。
ガラッと開いた扉から見えたのは、楽しそうに笑い合う彼と友人の姿。
別に何もおかしい場面じゃない。こんな場面はそれまでにも何度か見たことはある。決しておかしい姿じゃない。例え彼と友人が付き合っていても、私には何も口を出す権利などないのだから。
けれど一瞬にして心に広がったのは悲しみで、思わず罵ろうとしてしまった自分を恥じて背を向けて走って逃げ出した。
どこかでカチャリと、音が響いた。
名前を呼ばれたような気がして、立ち止まって振り向くと誰もいなかった。
空き教室で一人待っていた友人が、何も言わずに出ていった私を不思議そうに追いかけてきて聞いた。
どうして帰るの?待ち合わせしてたじゃない。
友人に手を引かれて、どこか違和感を感じる私はその正体に思い当たらぬまま空き教室へと戻った。
窓際の、友人が座っていた隣に座るとどうしてか温もりを感じる。さっきまで誰かいたのか聞くと、掃除が終わってからずっと一人で待っていたと友人は言った。
だって、せっかく好きな人を存分に見れる場所だもの。
どこかでカチリと、音が鳴った。
家に帰ると、ちょうどお隣のおばさんと会った。
子どもがいないお隣のおばさんとおじさんは、幼い時からずっと私を実の子どものようにかわいがってくれている。私の両親が忙しいから、時々お隣で一緒にご飯を食べさせてもらっている。
今日もその予定だった。
買い忘れたものがあるからと、おばさんは残りの支度を私に任せて出掛けてしまった。
まるで自分の家のように入り、リビングに向かおうとしたところでふと階段の先にある二階へと目が向いた。二階には、部屋がある。小さな頃なら何度か入ったことがあるけれど、ある程度の年齢になってからは勝手にうろうろすることに気が引けてご飯だけお世話になっていた。
けれど、糸のような幻影が、二階の更に奥へと消えていく。導かれるように階段を上がり、記憶の中には無かった奥の角部屋の前に立つ。ドアノブに手をかけて回す。
どこかでカチリと、音が鳴った。
その部屋は見たことがないようで、けれど見たことのある部屋だった。
まるで誰かの部屋のようにベッド、勉強机と椅子、箪笥には男物の服がしまってあり、クローゼットにも同様に男物の服がかかっている。机には紅茶の本が置いてあって、私と使っているものと同じパスケースが床に落ちていた。ぐちゃぐちゃなベッドの上には、妙に古めかしい壊れた懐中時計がある。
既視感がそこら中に散らばっているのに、違和感の正体に確信めいたものが浮かばない。
部屋が見えた瞬間から、心臓が痛い。
でもどうして痛いのかわからない。
何かが足りない気がする。何か・・・誰かがいない。でも誰かわからない。忘れている。何か忘れていることを覚えているのに、記憶に齟齬は生じない。何もおかしいところなんてない、はずだ。
いつまで部屋の入り口で立ち竦んでいたのか。
玄関から音がして、私を呼ぶおばさんの声が聞こえた。はっとして扉を閉め、おばさんに聞いてみようと階段を駆け下りた。
そして、今まで何を考えていたのかどこにいたのか忘れてしまった。どうして二階から下りてきたのかすらわからなかった。
なんだかぼーっとしちゃって、とおばさんに謝ってから一緒に夕食の支度を始めた。
翌日。
身支度をして家を出たところで、私はふとお隣の家を見上げた。見上げて、今度は自分の家の玄関を見る。
どこかでカチリと、音が鳴った。
学校に行き、きょろきょろと何かを探しながら廊下を歩いていると教室に着いた。
空席の隣の席を見ながら自分の席に座ると、早速友人がやって来て話し始める。
それをいつものように聞きながら、ずっと空席の隣の席をちらちら見ていると、友人はこんな話を話し始めた。
世の中には、神様に定められた"運命の二人"がいるらしい。
"運命の二人"は互いに出逢った瞬間に一目惚れをし、惹かれ合う。二人は運命的な出逢いをする。例えば幼なじみ、学校で隣同士の席、旅先での出逢いからの再会、落とし物の持ち主と拾った人、お気に入りの味を作ってくれていた、どこかでよくすれ違いながらも互いを気にしている。
生まれながらに結ばれる運命が決まっている二人。
けれど、出逢った瞬間にすれ違いが起こってしまったら、すれ違う運命までも決まってしまう。そのすれ違いをすぐに直せる人もいれば、直せない人もいる。
そういう人は不器用で言葉足らずで自己完結しがちで、誰よりも愛情深くて相手のことを一途にとても大切にしている。
だから、すれ違ってしまう。
持っていた合鍵でお隣の家に入り、二階を駆け上がる。ぶつかるようにして奥の部屋を開けて中に入ると、どこかでカチリと音が鳴った。
その音が鳴った場所、寝台の上に投げ出されている古めかしい懐中時計を手にして蓋を開けた。
その時計の盤には0から11までの数字が並んでいて、長針は6の数字を、短針は4の数字を指していた。
どこか遠くで、カチャリと音が鳴った。
鳴ったと同時に、長針が7の数字を指した。
私はいつの間にか自宅の自室に戻っていた。
お隣の家に入ったことなど忘れてしまっていた。
そして、彼の部屋から紅茶の本が消えた。
カチリと、短針が長針を追いかける音がするたびに、私の脳には走馬灯のように彼との時間を最初から最後まで思い浮かぶ。そして、音が鳴り終わる一瞬後にはその全てを忘れて今日を生きている。
この世界から、彼は消えてしまった。
家族からも友達からも彼は消えてしまい、彼の部屋は残っているけれど誰にも認識されることはない。
その"誰か"の部屋に思い出したように入っては、今はもう何も残っていない中で忘れられたように置いてある古めかしい懐中時計を日がな一日眺めている。
今日、バイト先からの帰り道で呼び止められ、たいして交流の無い先輩から告白をされた。
必死で笑顔を張り付けて丁重に断り、強張った表情で足早に雑踏の中に紛れ込んだ。
どこかで、カチリと音が鳴った。
"すれ違いの時計"の長針と短針は同時に進む。
世界線を移動する彼を、今日も彼女は探している。
君の心とすれ違うたび、僕の世界線がずれていく。 都築 はる @fdln007
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