青いサファイアと赤いルビー
成井露丸
青いサファイアと赤いルビー
「これ可愛いね」
そう言って
「青い色かぁ。僕は好きだけど、女の子って、みんなピンクとかそういう色の宝石が好きなのかと思っていたよ」
「え〜、
青いサファイアは白いケースに並ぶ指輪の中でも一際上品で落ち着いた存在として慎ましやかにそこにあった。
それは、欠席者が多い大講義室に一人で座る君の姿を、どこか思い出させた。チャイムが鳴る前からノートを開いて一人で静謐に座る香奈子の姿は、僕の目を引いたのだ。
僕たちがショーケースを覗き込んでいると、販売員さんが「そちらのサファイアの指輪、綺麗でしょう? 人気なんです。お出ししましょうか?」などと声を掛けてきた。一瞬ビックっとして、急いで指輪の値段に視線を移したら、四八〇〇〇円。
チラリとこちらを伺う香奈子と目が合う。僕は思わず肩を竦めた。
大学三年生には高い買い物だ。誕生日プレゼントでも手が届かないかもしれない。
買ってあげようとするなら、アルバイトでメチャメチャ頑張らないといけない。
そりゃあ、こんな素敵な宝石を香奈子に買ってあげられたら、男冥利に尽きるんだろうけどさ。
「あ、いえ、大丈夫です。今日は見て回っているだけなので」
香奈子がガラスの上で小さく手を振って答えると、販売員さんは清潔な営業スマイルを浮かべて、「そうですか。お手に取って見られたい時は、何時でも仰って下さいね」とケースの奥からその手を外した。
デートの途中で立ち寄った、繁華街のデパート一階での出来事。
映画を見て、ランチを食べてから、香奈子のウィンドウショッピングに付き合うっていうお決まりのデートコース。そんな日常的で穏やかな時間での一幕だった。
「綺麗な指輪だったね――青いサファイア」
エスカレーターに乗りながら、一段前で手すりを持つ君に聞こえるように、僕は呟いた。
「うん、可愛かったね」
「買ってあげられなくてごめんね」
僕がそう言うと、香奈子は驚いたように振り返って、しばらく僕の顔を覗き込むと、目を細めた。
「え? もしかして気にしてるの?」
「う〜ん、気にしているってほどじゃないけれど、何だかあのサファイアがとても素敵でさ。香奈子にもとても似合いそうだったから」
「ありがとう。私もちょっと惚れちゃったかな? じゃあ、いつか買ってよ」
「――いつかって?」
香奈子は少し首を傾げると、悪戯っぽく唇を開いた。
「じゃあ、婚約指輪。婚約指輪にはあんな透明な青いサファイアの指輪を買ってよ」
君の思い切った冗談に、僕はドキリとした。
大学三年生の僕たちにとって結婚や婚約という現実はまだあまりにも遠かった。それは現実感の無い背伸びのようにも思えたし、その未来に思い切って手を伸ばそうとしてもそれ自体が投機的な行動のようにも思えた。
だから僕はそんな君の言葉に照れ笑いを返すことしか出来なかった。
でも、幸せだった。
僕と香奈子は三年生になって履修した一般教養科目の講義で出会った。
専門の実験や演習なんかの授業も本格化する中、一年生や二年生の時に一般教養科目の単位を取りこぼしていた僕は、三年生ながら、その講義の履修を余儀なくされていた。
多くの学生は一般教養科目の単位を最初の二年で揃えてしまう。だから受講生の殆どは一年生か二年生。広い講義室の多くはお互い顔なじみの後輩たちに占拠されていて、三年生は少数派だった。
同じ科目を履修している友人も居らず、僕は若者たちから距離をとって講義室の右脇の方に座っていた。
そんな講義室で、香奈子はいつも一人で座っていた。講義室の真ん中でチャイムが鳴る前からノートを開いて一人で座る香奈子の静謐な姿は、僕の目を引いた。
その講義は出席を取らない授業だったので、始まって一ヶ月ほど経つと、受講生のほとんどが来なくなってしまった。
ゴールデンウィークが明けたころにはガランと空いた講義室で、それでも一人凛として座る君の姿を見つけることが、知らない間に僕の楽しみに変わっていた。
僕は一年生のときも同じ授業をとっていて、その時には五月を過ぎると出席しなくなり、その結果、単位を落としたのだけれど、今年は違った。動機は不純だったかもしれないけれど、毎週その曜日は一般教養科目の講義楽しみに家を出た。彼女の姿を見つけるために。
「一緒にさせて貰っても良いかな?」
「――え? えぇ、よろしく」
そう言って声を掛けたのが始まりだった。
講義の中のちょっとしたグループワーク。後輩達が群れてグループを作る中、一人ぼっちで受講していた僕たちは、相手を見つけられずにいた。
だから、それが、僕にとって何よりも都合の良い切っ掛けになったのだ。
ずっと話してみたかった君に話しかける切っ掛けに。
それから二人で話すようになって、お茶をするようになって、ご飯を食べるようになって、映画を見に行くようになって、――三年生の夏に僕らは男女のお付き合いを始めることになった。
お互いに初めて出来た恋人同士というわけではなかったけど、僕達の波長はどこか重なりあって、共振しあった。有り体に言えば、二人一緒に居て、とても落ち着いたのだ。興奮に体が震える類の恋愛ではなかったけれど、確かに「君と一緒に居たい」と、――そう思える恋だった。
付き合って半年が経ち、僕たちは週末は映画を見に出かけたり、買い物に出かけたり、そんな気楽なデートを重ねていた。繁華街のデパートに立ち寄って、青いサファイアの指輪に出会ったのは、そんな日常的な週末のワンシーンだった。
何の変哲もない日常だけど、それは記憶に残るワンシーン。
君はどう思っていたのか知らないけれど、僕はその青いサファイアの指輪をいつか君に買うのだと、強く心に決めていた。
「今週の週末どうする?」
「東京に遠征よ。リクルータの人とかに会わなくちゃいけないから」
「そっかぁ、残念。業界によっていろいろ違うよね」
「そうだね――」
冬が過ぎて春が来て、三年生から四年生にかけて行う就職活動は二人を忙しくした。そのせいで二人共会えない日が続いた。人生の岐路や隘路は、相談しあって、励まし合って乗り越えていくのが恋人――パートナーというものだと思っていたし、思っていたかったけれど、現実はそんな綺麗事ではなかった。
学部の違う僕たちは進路も違う。僕は地元の有力メーカーを第一希望にして、君は東京の企業を志した。そんな業界の違いが生む二人の未来の断絶に、僕は不安になったりもした。でも、それぞれが学んできたこと、それぞれが考えてきた人生に水を差して、お互いが歩む未来の
だから、そんな疑念を、僕は不安の生唾と共に飲み込んだ。
幸運にも僕たちはそれぞれ第一希望の企業の内定を勝ち取ることが出来、残りの大学生活を平和裏に過ごす権利を得た。
だから、僕は君とまた穏やかな日々を過ごすことが出来ると楽観的に思っていたのだ。それでも、歯車は少しずつ外れていった。
「今夜は?」
「ごめん、実験の追い込みがあってさ。来週ゼミで発表なんだ」
「そう……」
「週末は?」
「ごめんなさい。今週は東京で内定者の集まりがあるの」
「そっか」
四年生は大学の卒業研究で俄然忙しくなる理系の僕に対して、香奈子の学部には卒論が無かった。そして、それを前提としたような、内定先企業からの就職前セミナーや、内定者の集まり。香奈子が週末に一人で東京に向かったり、僕の知らない大学外の社会人との付き合いも増えていった。
春が過ぎ、夏が来て、僕が研究室で教授から出る課題や、実験機器と戦っている間に、君は少しずつ変わっていった。研究室に篭りがちで服装に無頓着になっていく僕に対して、都会に出かけて人と会うことが増えていった君はどんどん垢抜けて服装も派手になっていった。
そして、君が纏う色彩は変わっていった。
もともと、どちらかというと物静かで落ち着いたタイプの香奈子は、服装も少しシンプルでそんなにブランドを感じさせないものを身につけていた。それが少しずつ社交的に明るく、そして服装もファッション雑誌に載っていそうなものへと変わっていった。
口紅は赤くなって、それが塗られた唇は光沢を放つようになっていった。
それは、どんどん魅力的な唇になっていった。
「ねぇ、和樹くんはどうして東京に就職しようとしなかったの?」
「ん〜、特に拘らなかったからかなぁ」
「和樹くんの業界だと、東京の方が大きなビジネスがあるっていう訳じゃないの?」
「ビジネスかぁ……、どうだろうね。僕は自分の技術でしっかりと働ければそれでいいかなぁ」
「ふ〜ん。無欲なのね」
「そうかなぁ……」
「分からないけど」
「うん、わからないね」
この頃から、僕には少しずつ不安が堆積していった。
半年後には東京に旅立ってしまう香奈子。その後も、一緒に付き合っていけるのか、僕にはわからなかったし、香奈子もどう考えているのか分からなかった。
人生の岐路や隘路は、相談しあって、励まし合って乗り越えていくのが恋人同士だと、そう頭では分かっていても、じゃあ、何から話せば良いのかとなると、正直なところ分からなかった。
自分の
それは、香奈子にとっても一緒だったんじゃないかな。
半年後に約束されていた別れは、違う形をとって秋口に現れた。
「ごめんなさい。他に好きな人が出来たの」
そう言う君の唇は紅色に輝いていたし、髪の毛が掛けられた耳たぶには見たことのないイヤリングがぶら下がっていた。その宝石は赤い色だった。
大講義室に一人で座る青いサファイアみたいな君は、その色彩を変えてしまった。
その色を変えてしまったのが東京という街なのか、新しく好きになった男なのか、それとも、際限なく広がる未来なのか、僕に原因は分からなかったのだけれど。
もちろん別れたくなんて無かったけれど、遺留が意味を成さないことは君の耳元で揺れるイヤリングの赤いルビーが雄弁に語っていた。
「分かったよ……。別れよう」
「ごめんね」
眉を寄せる君に、僕はゆっくりと首を振った。
「どちらにしろ、来年には離れ離れ。分かれゆく人生だったのかもしれない。それに最近、色々とすれ違い気味だったしね」
会えない時間は心の距離を広げていく。心は少しだけどこか物理学的だ。
僕のその言葉に、香奈子はどこかホッとしたような、それでいて少し寂しそうな表情を浮かべた。
「その、新しい相手の人は、東京の人?」
僕が尋ねると、香奈子はコクリと頷いた。
「そう。内定先の会社の先輩。いろいろ教えてくれてね。……気付いたら好きになっていたの。――ごめんなさい」
「そっか。……もしかして、数日間、東京に行っていた時とかって、その人の家に泊まっていたりしたの?」
「え……、あ……」
その戸惑ったような表情が、何よりもの答えだった。
僕の知らない間に事態は進行していたのだ。
僕が研究室で実験機器と格闘して化学反応を引き起こそうとしている間に、君の東京での格闘は新しい人間関係の化学反応を起こしていたんだね。
そんな『上手い』表現を頭の中で思い浮かべて、僕はどうしようもない溜息をついた。そして僕たちは四年生の秋口に別れた。
ただ、悲しかった。
卒業研究は大変だったけれど、なんとか年末を跨いで実験結果を出して、文章を書いて、僕は卒業論文を上梓した。そして、君も僕も卒業。
桜が満開の卒業式で、遠くに君を見つけた。
僕が右手を上げると、遠くで君も僕に気付いて手を振り返してきた。
そして、また、君は隣の友達と話しながら大学の街路樹の間を向こう側へと歩きだした。卒業式の日、僕たちは何一つ言葉を交わさなかった。
大学生活が終わり、僕たちは就職し、新しい人生を歩み出す。
就職した大企業のメーカーは新人教育の制度も整えられていて、入社してから半年は怒涛のような時間が過ぎた。だから、他のことをやる余裕も、東京の君のことを考える時間も無かった。当時の僕にはそれが逆にありがたかったのだ。
四年生の終わりに君からの別れの言葉を受け入れて、恋人同士ではなくなったわけだけれど、僕の中から君の存在が消えたわけではなかった。遠くにいる君のことを、また会うきっかけさえ完全に失った君のことを、僕は未練がましく心の中で追いかけ続けていたのだ。
別れから一年が経ち、二年が経ち、それでも僕の中で君のこと――香奈子のことは風化しなかった。
思い出すのは欠席者が多い大講義室に一人で座る君の姿。チャイムが鳴る前からノートを開いて一人で座る君の姿。透明で青いサファイアのような凛とした君の姿。
就職してから二年が経ったゴールデンウィーク明けのある日、香奈子と僕の共通の友人からスマートフォンにメッセージが入った。
――香奈子ちゃんが会社を退職して、こっちに戻ってきているらしいぞ。
東京に行ってからの携帯電話番号は知らなかったけれど、SNSで調べたら香奈子の連絡先はすぐに分かった。
自分でも「未練がましいなぁ」と思いながら、香奈子にメッセージを送ったら、三〇分もしない内に既読マークが付いて返事が返ってきた。
それは以前と変わらない短文気味なメッセージで。「会えるかな?」と訪ねたら「いいわよ」と返ってきたので、僕らは二年ぶりに繁華街のカフェで会うことにした。
「あ、和樹くん」
「久し振り。元気だった?」
現れたのは、大人びた服装に身を包んだ、東京帰りの女性だった。
「うん、まぁね。そっちは? 元気だった?」
「う〜ん。……まぁまぁ、かな?」
そう言う香奈子の瞳はどこか虚ろで、余り元気そうではなかった。そもそも、そんなに元気だったら、仕事を辞めてこっちに戻っても来ないのだろうが。
「会社辞めたんだってね? ――東京の」
カフェで僕がアイスコーヒーを片手にそう尋ねると、香奈子はハーブティーのカップに手を添えながらコクリと頷いた。
「うん、ちょっと体を壊してね」
「そっか。東京、……大変そうだもんね」
僕が努めて他意を含めないようにあっさり言うと、君は少し苦笑いを浮かべた。
「ちょっと、私には水が合わなかったかな?」
「そっか。香奈子で無理なら、僕は始めっから無理そうだね」
冗談っぽく言うと、香奈子は頬を緩めた。
「そんなこと無いよ、和樹くんはしっかりしてるもん。――それに、男性だしね。なんだかんだで、なんとかなるもんだよ」
東京から帰ってきた君の、一つ一つの言葉には汚れと染みが滲んでいた。
そこに大学時代、君が持っていた凛とした佇まいは無かった。
「今はどうしてるの?」
「私? う〜ん、しばらくは療養期間かなぁ。今は実家にいる感じ」
「家事手伝い?」
「え、和樹くん、ちょっとその言い方は悪意無い? 普通に療養と、次に向けた準備だよ。ちょっと資格試験の勉強とかも考えてる」
「そっか。じゃあ、しばらくはこっちに居るんだ」
「うん、そうだね。居るよ?」
「……じゃあ、――また、会えるかな?」
一呼吸置いて、僕が思い切って吐き出した言葉に、君は少し間を置いてから、大きく頷いた。
「良いわよ。また、会いましょう?」
東京から帰ってきた君は、何だか疲れ果てていて、何かを知りすぎていて、何かに変わってしまっていた。そして、どこか心のバランスを失ってしまっているようだった。でも、――それでも、それは僕の好きな君だった。
二年半、結局忘れることの出来なかった、香奈子だった。
僕たちはそれから週末には時々、会うようになった。彼女は仕事に就いていなかったから、僕の休日に合わせて出てきてくれた。
最初のうちは近況報告と気分転換くらいのもので、カフェでお茶をしたり、ご飯を一緒に食べるくらいだったけれど、徐々にそれはデートと呼べる類のものに変わっていった。
そして、また、夏がやって来る頃に、僕らは正式に付き合いだした。
三年近い空白を挟んで、僕らは再び恋人同士になったのだ。
今度は結婚を前提として。
「これ可愛いね」
そう言って香奈子が覗き込んだショーケースに視線を落とす。
冬が近づいた頃、僕らはいつものように映画を見てから、繁華街のデパートに立ち寄っていた。
なんだか、同じようなことがあったなぁ、なんて昔の事を思い出す。
学生時代はお金が無くて、君に指輪を買ってあげることが出来なかった。だから婚約指輪にはきっと君に似合う宝石を買ってあげようと、ずっと思っていたのだ。
今の僕たちは結婚を前提に付き合っている。だから今日、君に婚約指輪を買ったとしても、それは何も不思議なことじゃないんだ。
僕たちがショーケースを覗き込んでいると、販売員さんが「そちらの指輪、綺麗でしょう? 人気なんですよ。お出ししましょうか?」などと声を掛けてくる。
隣の香奈子の方を見ると、嬉しそうな顔をしているので、僕は「お願いします」と販売員さんに返した。
販売員さんが「こちらでしょうか?」と確認し、香奈子が「あ、はいそれです」と応じる。販売員さんはショーケースの鍵を開けて一つの指輪を取り出して、香奈子の手を取った。そして、香奈子の左薬指へとその指輪が試みにはめられた。
「どう、和樹くん。似合うかしら?」
妖艶に笑う君の指の付け根には、赤いルビーの指輪が輝いていた。
情熱的で、華やかな色合い。
「うん。綺麗だよ」
僕がそう言うと、君は照れたように笑う。
「気に入った?」
「うん。これが良い」
君はそう言って、左手の指を開いて斜め上に翳して見せた。
僕と香奈子は赤いルビーの指輪を約束の証として、今日、婚約する。
大講義室に一人で座る姿を見たときから、僕は香奈子のことがずっと好きだった。
だから――、隣で嬉しそうに笑い、赤いルビーの婚約指輪を眺める君のことをこれからもずっと幸せにしたいと、心の底から思うのだ。
でも、本当のことを言えば、僕は君にあの青いサファイアの指輪を買ってあげたかった。三年生の時に、このデパートで見つけた思い出の指輪。
白いケースの中で一際上品で落ち着いた存在として慎ましやかに輝いていた青い煌めき。
でも、あの時の君はもう、どこにも居ない。
青いサファイアと赤いルビー 成井露丸 @tsuyumaru_n
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