祖父と木の洞

天人

祖父と木の洞





  「祖父と木の洞」




                 序編


 蝉の声が過ぎていく一瞬に色をつけては消えていく。道路端の半分以上破けてしまって読めなくなった政党の広告は風ではがれ、天高く見える筋雲も少しづつではあるが、確実に運ばれていく。8月の終わりは近い。

 誰もが何かを夏の中に置き忘れる。

 夕暮れはその置き忘れたものを教えてくれる。






                 本編



 汚れた白い軽トラックがあどけない少年と得意げな老人を乗せ、かすれた白線に沿って対向車のいない道路を走っていた。

「爺、もう暗くなってきたよ。帰って花火で遊びたい」

「そうだな。でも涼介に見せたいものがあるんだ。都会じゃ絶対見れないもんだぞ。あと少しで着くからな。もう少しの辛抱だ」

 涼介はおじいちゃんのことを爺(じじ)と呼んでいた。爺もそう呼ばれる自分が好きだった。

 爺の運転する軽トラックは、翳りゆく地球の流れを逆走するように勢いよく走り、田んぼと田んぼの間を通る農道へと進んだ。大地を覆う緑は風に揺れ、波打っていた。そのすべてを太陽が赤く照らした。

 チャリンチャリン。

 数秒ごとに窪みや石や屈強な雑草の上を通る軽トラックは激しく揺れ、安全運転祈願の鈴の音が車内に響く。今朝母から渡された児童向け携帯電話の首紐と爺からもらった大きすぎる麦わら帽子の首紐が絡み合って煩わしい。

 涼介は麦わら帽子をしっかりと押さえ、生まれて初めて握る助手席の吊り革に、少しの優越感を覚えながら、まるで自分がアクションシーンを演じる俳優であるかのように仰々しい態度で座っていた。

 時々、窓の外で黒い点のように見えたのは田んぼの上を飛ぶアキアカネの影だった。そんな小さなことであれ、涼介にとってはすべて新鮮だった。

 涼介は夏休みに田舎の爺の家で過ごす日々が好きだった。都会では見られない大きなクワガタや野鳥、季節の流れを感じさせる生物たちの鳴き声。そういった都会の喧騒に邪魔されずに体感できた爺の家での思い出をノートにまとめ、友達に話すことも涼介は好きだったし、小学校のクラスメイト達も楽しみにしていた。ご多分に漏れず、この日の出来事も涼介にとっては新たなページの幕開けであった。

 デジタル表示の時刻は何故か9時間程前を示し、車内の空調は壊れているのか機能を果たしていなかった。

「爺、あっついよ」

「大丈夫。もう少しだから」

 答えになっていない会話が続く。

 涼介は爺に背を向けて遠くに見える小さな県道を走る車を目で追った。外の世界は赤黒く染まっていたが、田んぼに水を引く用水路の水面はきらめいていた。少しの間だけ見ることのできるそのきらめきは、命の尊さを体現するかのように偶然に満ちたものだった。

「そこにジュース入ってるから飲んでいいよ」

 爺は涼介の機嫌を取り戻したいのか、顎で引き出しを指しながら言った。涼介は素直に自分の欲求を爺に見せることに、若干の抵抗を覚えたが、喉の乾きには勝てず、引き出しを開けた。引き出しの中には、乾いた泥の着いた軍手や鉈、爺の免許証などが入っていた。涼介には一見した所、そこにジュースが保管されているとは到底思えなかった。

「ないじゃん。爺」涼介はぶっきらぼうにそう言った。

「違う違う。これだよ、これ」

 爺は乾いた泥が目立つ引き出しに手を突っ込み、銅褐色に光る瓶を取り出した。その瓶のラベルには、タウリンというよく分からない片仮名と3000という数字がでかでかとプリントされていた。得体のしれないものに若干の警戒を覚えたが、涼介はそれを飲んだ。すると心地良さとははるかに遠いしびれが涼介を襲った。それでも体が本能的に水分を欲していたため、何回かに分けて飲んでいると、体が前に揺れ、シートベルトに押し付けられた。


「よし、涼介。着いたぞ」

 そこは田んぼなどの人間の手が加わった場所ではなく、全ての生き物が自然の摂理に従い生きている森の中だった。

「ここはちょっと危ないからな。爺が帰ってくるまで少し待ってろよ」

 爺はそう言って、車から降りて葉の重なりの中に消えていった。涼介は1人軽トラックの中にいた。木漏れ日が薄くなり始めていた。時間が経つうちに周りの世界に対する恐怖と人気のない寂しさを感じた。昼間にあんなにも憎たらしく感じていた太陽の光が、急に恋しくなるほどに涼介は一人で待つことに耐えれなくなっていた。

 本能的に母へと電話しようとしたが、涼介のの見栄っ張りな性格はそれを許さなかった。

 涼介は閉ざされた森の暗い世界から抜け出したいと思い、空を探した。しかし、照射される太陽の光を我先にと集める多くの木の葉によって、空は隠されていた。闇は深まるばかりだった。頭に次々と浮かぶ荒唐無稽な考えによって、森への恐怖は無尽蔵に膨らみ続ける。ついに涼介は刻一刻と迫ってくる闇の恐怖に耐えかねて、爺の言いつけを破り車の外へ出たのであった。助手席のシートには飲みかけた胴褐色の瓶と児童向け携帯電話だけがぽつんと残っていた。

 ドアを締める音に驚いたのか、鳥の鳴き声がどこからか聞こえた。車の中よりも冷涼としたこの暗い森は涼介を歓迎してくれそうになかった。断続的に現れては消えるひぐらしの声は儚さを帯びていた。

 涼介は大きすぎる麦わら帽子の首紐を少しだけきつく締め、慣れない長靴で歩きだした。少し歩くとなぜかぽっかりと空が見える場所を見つけた。そこは何か大きなものがあった場所なのか、足元の草花の背が低く、涼介は少しだけ安堵した。

 葉によってできた天井が丸くくりぬかれた空には雲ひとつなく、まるで赤い海のようだった。涼介はその自然の作り出す美しい芸術に見蕩れていた。だが、涼介を邪魔するかのようにその赤い世界に黒いものが混入してきた。それは何十匹かのカラスの群れだった。綺麗な情景には似合わない彼らは同一の目標へ向かっているようで、やがて丸く縁どられた世界から消えた。涼介はもう赤い景色の美しさなんかは忘れて、見切れてしまった彼らのその先を見てみたいと思い、その先を追ったのだった。

 彼らの鳴き声だけを頼りにそのあとを追っていると、鉄格子が見えてきた。そこは大きな鉄塔の付け根であった。彼らは屈強にそびえ立つ鉄塔の電線にしがみつき、けたたましく鳴いていた。遠くから見たカラスはもはや点に近いものになり、その黒い電線の上に黒い点が多くある景色は、音楽の授業で見た楽譜そっくりで、涼介はこの絵をノートに描こうと思ったのであった。しかし彼らの行動の目的が鉄塔の電線であったのを認めると、カラスなんかどうでもよくなって、辺りを見渡す余裕が生まれた。

 その余裕はある意味次の不安を煽るものとなった。


 ここはどこなんだろう。

 その時涼介の背中に心地良さとは程遠い冷たさを持った何かが発生した。ついさっきまで聞こえていたひぐらしの声は森にはなかった。冷気を帯びた風が葉を揺らし、頭上では涼介を蔑むようなけたたましい声が聞こえる。突然、森の中に1人だけぽつんといる自分を自分で見ている感覚が脳裏によぎる。それは軽トラックの中での恐怖から逃れるために行った行動が、次の恐怖を生み出す引き金となったことを笑う、シニカルな視線に似ていた。涼介はここにきて初めて自分が一人でいることに気づいたのであった。

「爺。爺。どこにいるの。僕はここだよ。早く来てよ。ほら早く」

 あどけない少年のソプラノが森に響く。

 しかし返事はない。あるのは風に揺れる葉のひしめきと、野性味溢れる鳥達の囀りだった。涼介は初めて爺がいないことの寂しさと自分の頼りなさを思い知った。

 涼介は走り出していた。あの場所にずっといることが怖くなったということには気付かないふりをしながら。その臆病な少年の自尊心が少年自身によって、浮き彫りにされていることに気づきながら。ただ何かから逃れるように懸命に走っていた。

 揺れる視線の端に何かが見えた。それは、意識していたから見えたというよりも、森の中の雰囲気とは全くと異なるものを醸し出していたからであった。それは黒い穴のようなものだった。後から調べてみると、その穴が洞と呼ばれているものだということが分かったが、この時の涼介には禍々しいものに感じたのであった。その黒さは何か地獄のようなものを涼介に意識させ、同時になぜか目が離せないような蠱惑的な魅力も持ち合わせていた。

 涼介は手招きされたようにその穴へ近づいた。穴は縦20センチ、横5センチほどの小さなものであったが、奥の見えない黒さに涼介は魅了されていた。その穴に何かをしたいと思う好奇心にのまれ、近くにあった木の棒をその穴の中に何度か突き刺した。

 数秒の沈黙の後、穴の中から大きな羽を震わせたスズメバチが獲物を捉える獣のような所作で出現した。涼介はスズメバチの大きさと黄色と黒の本能的な圧力に怯え、後ずさりしたが、なれない長靴のせいで転んでしまった。雀蜂はゆっくりと敵を見定め、耳障りな羽音を周囲に発生させて洞から飛んだ。

 涼介には足の小指を流れる汗の一滴の場所にいたるまで、すべての肌の感触が手に取るように分かった。生命の危機を認識した脳が、緊急事態に陥ったため感覚神経の上限を決壊させ、涼介にヒトとしての真の力を呼び起こしたのだ。だが、羽の振動する音は同時多発的に増え始め、気づけば数十匹の大群となっていた。

 その集合体は学校のマラソン中に通過した人の口の中に蚊を忍ばせてくる不愉快な蚊柱が、可愛く見えてくるほどに殺気に満ち溢れていた。涼介は自分がスズメバチに刺されてしまうことを直感的に理解し、自然に手をかけた自分の安直な愚かさを呪った。

 群れは涼介へと羽音を一斉に鳴らしながら向かって来た。涼介には麦わら帽子のつばで自分を隠す程度の努力しかできなかった。羽音が近づいてくる。涼介は森の中で小さくなった。親から叱られる少年のように。しかし、その叱咤には愛はない。あるのは自然の法則と本能の咆哮だった。涼介は予想される痛みを受け入れようと体を強張らせた。

「涼介!大丈夫か!」

 しゃがれた声が冷涼な空気を切り裂くように響く。少年はどこかでその声を期待していた。

 爺は腰に下げていた鉈を抜きスズメバチの群れへと向けて振り下ろした。だが、群れはよく訓練された空軍のそれのように、流動的な動きで爺の一閃をいなす。そして再びより一層の羽音を響かせながら涼介たちに迫った。

 爺の行動は素早かった。涼介の胴に手をまわして腰に担ぎ、軽トラックの止めてある場所に向かって走り出したのだ。

 さっきまでいた場所がどんどんと小さくなって来る。

 涼介は胴に触れる爺の腕の温かさを思い知り、泣きそうになった。自分の愚かな行動が原因で爺に迷惑をかけてしまったから。爺の言いつけを守っていれば何も起こらなかったのにと後悔したから。

 少年は無償の愛を知った。

 突然、淡い夕陽を反射する透明なビンが涼介の濡れた眼に映った。

「あっ」

 爺が短い間投詞をもらす。そして、何かの所在を確認するかのようにポケットを探る。その間、爺の歩みが少しだけ緩慢になった。だが、彼らの羽音は執拗にもここまで聞こえてきた。爺は再び走り出した。

 ビンの中には、蛍光色の光を盛衰させるホタルが3匹いた。涼介はもうさっきの後悔なんかは忘れて、

「爺。あれもっとみたい」少年はやはり無邪気であった。

「ごめんな涼介。蜂さんがカンカンに怒っとるからな。今日は諦めよう」

 爺の言葉を聞いた時、涼介はもうわがままを言わなかった。その代わりに、涼介はこの瞬間にしか感じることのできない光を味わった。爺の肌の温度も同様に。

 爺の冷静な対処の後、無事に軽トラックに戻ると、涼介の持っている児童向け携帯電話は、母からの着信履歴でいっぱいだった。爺はそれを見て、

「お母ちゃんもカンカンみたいだな。こりゃ早く帰らないと」いたずらっぽい顔でそう言った。


 爺はアクセルを踏み混み、涼介たちは帰路についた。

 3つの光は普遍的な温度を持ち、いつまでも涼介の瞼の裏に宿っていた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「涼介。最後におじいさんに挨拶していきなさい。あんたも就活で忙しくなって、次いつ来れるか分かんないんだから」

 母は玄関先で白いキャリーバックを片手に言った。

「うん」

 その声にはあのあどけなさはない。少年ではなく、青年であることがはっきりと分かる低い声である。涼介は和室へ向かった。ふいに目を向けた窓の外には、雲ひとつない空を夕日が赤く染め、鳥が鳴いていた。そこにはあたりまえの日没があった。

 涼介は使い古されてへたり込んでしまった座布団に座り、マッチを擦った。だが、湿気っているのか火はなかなかつかない。

「涼介。マッチってのはびびってたらダメなんだ。勢いよくやらないと火がつかないんだ。男なら何でも勢いよくってな」

 得意げにそう言っていたあの爺は、今はもう黒い縁の中に入って涼介をただ見ている。

 涼介は勢いよくマッチを擦った。先端の赤いリンは、微量の煙を噴出し、はやし立てられたように火をつける。誰かが笑った気がした。

 ロウソクに火をつけ、線香を1本だけ抜き取り、じっくりと先を熱した。あまりにもじっくりと熱したせいか線香の先は赤くなるだけではなく、炎を纏った。涼介はその炎を自分の吐息で消した。すると白い煙が、ふわりと柔らかな軌道を宙に描き、何処か涼介の知らない世界へと上っていった。

 涼介はただずっとその煙を見ていた。







 

あとがき


初投稿です。今ある日常はいずれ過去のものとなり、過去のものとなったまさにその時に、初めて価値がわかるのだということを示唆するような作品を書きたいと思い、執筆しました。稚拙な文章ではありますが、レビューや感想などお待ちしております。

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