第4話 「ねがいましては――」

  ▽


 覚悟はしていたのに、会場に可奈子の姿がないことに思った以上のショックを受けた。

 当初「家庭の事情」と聞かされたけど、首を縦に振らなかった栄太に根負けしたのか「引っ越して教室をやめるそうだ」と先生はちゃんと教えてくれた。

「何か聞いてたのか?」という問いに、栄太は身がよじれる思いで「はい」とだけ答えた。


 静寂に包まれる会場の雰囲気はいつもの教室とはまた別物だった。

 可奈子が座るはずだった席の右隣で、栄太は淡々とそろばん道具を準備する。


 そろばんを始めて以降、栄太が導き出してきた答えはそのほとんどが正解だった。

 だけど、可奈子と出会ってからは、可奈子の口から同じ『和』を聞いて、初めてそれは「正しさ」を持つ気がした。

 彼女の赤い唇はいつだって栄太を包み込むように、彼より一呼吸早い「正しさ」を手渡してくれていた。


 目をつむれば意識は手狭なあの部屋に移る。

 テープから流れ出る音声を二人で半分こにするようにして聞き合った。


 二人にとって暗黙の了解。

 栄太ができなかった問題は、可奈子が答える。

 可奈子ができなかった問題は、栄太が答える。

 

 今日ここに可奈子が来られないのであれば……


 栄太はゆっくりと目を見開くと、ライバルたちの背に向け、声にはならぬ声で誓いを立てた。


 それから、あの部屋で過ごした二人きりの時間にかれるように――


 頭の中に一面のそろばんを広げた。



  ▼



 その教室は今、ぼくの仕事場の隣にある。


 午後二時を過ぎると、まだ遊び足りたい子どもたちが元気よく駆け込んでくる。

 歩道にはみ出さないように自転車を並べ、くつを揃え、木札を確認してから席に着く。


 今の時代、子どもの数が少なくなったのか、それとも習い事にそろばんを選ぶことが珍しくなったのか。

 ぼくらの頃よりそろばん教室に通う生徒は格段に数を減らした。


 先生が教室のドアを開けると、ピリッとした緊張が走るのがわかった。

 息を飲んで静まり返る雰囲気は、あの頃のぼくらとそう大差ない。


 読み上げ算を前にした堅い空気感。

 ぐっと膝を曲げ、次の跳躍にそなえるような先生のかけ声。

 木机に指をのせた生徒たちの顔から笑みが失せる。


 彼女はこの瞬間の子どもたちの姿こそ自分の人生の誇りそのものだと胸を張る。



 可奈子はあの頃からひとつも褪せることのない赤い唇から、始まりの言葉を口にする。



「ねがいましては――」



(了)

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一珠の光来 真乃宮 @manomiya

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