第3話 シャカシャカと音を立てて

  ▽


「栄太、可奈子。今年は大会にでるぞ」


 待ちに待った先生からの言葉。

 二人にとって、特に栄太にとっては胸にくるものがあった。

『井戸そろばん教室』で選抜された生徒だけが出場できる府のそろばん大会。

 本当の意味で実力を試される舞台。


 一年生のうちは会場まで電車にのせる不安と危惧がつきまとうため見送られることが多い。

 その慣例によって出場を認められなかった去年の栄太は忸怩じくじたる思いだった。

 一年越しに雪辱を晴らせる機会。

 初経験の大会でいささかの緊張はあれど、可奈子が一緒なら百人力だ。


 上級生のクラスで揉まれるうちに二人はライバル関係を抜け、分かちがたいほどの戦友と呼べる仲にまでなっていた。

 自分がわからなかった問題を可奈子が正答してくれると胸がすく。

 逆に栄太だけが答えられたとき、彼女が、ありがと、と声をかけてくれることが奮い立つほどに嬉しかった。

 ありていの妬ましさや劣等感が入りこむ余地はなく、「このまま二人で乗り越えていく」という使命感のような感情がどこまでも二人を強く、たくましくしてくれた。


 指折り数えるほどに待ち遠しい、月曜日と木曜日。

 テープから流れるかすれた音声を積み上げていった膨大な『和』は、目には見えることのない二人の友情そのものに思えた。



  ▽



「うち、見直すのがやっぱり苦手なんかな」


 その日、可奈子には珍しく、教室で間違えた問題用紙をひらひらとさせて自己嫌悪していた。

 いつものテーブルには炬燵こたつがしかれ、二人は互いの足がぶつからないように斜め合って座る。麦茶がホットレモンになり、数十本あった読み上げテープが実力とはもう遠くかけ離れてしまった季節。

 そろばん大会を週末に控えた、いつもの木曜日。


 とりたてて反省を要するほどでもないケアレスミスに可奈子はナーバスになる。


 この部屋でぽつぽつとそろばん以外のことも話すうちに、栄太は可奈子にお父さんがいないことを知った。

 お母さんは朝早くから夜遅くまで働いている。

 だから、ひとりぼっちの時間をこうしてそろばんの練習に充てていると彼女は気丈に教えてくれた。 


「うちは、おとんが居ても遊ぶことないからおらんのと同じやよ」

「そろばん教えてくれへんの?」

「ないない。二桁の足し算もようせーへんわ」


 栄太はおおげさに腕を振って、いつもお酒ばっかり飲んどる、と付け加える。

 身内の恥をさらす話に可奈子はたまらず笑みを漏らす。栄太も彼女の赤い唇を眺めたまま、もっと大きな声で笑い返した。


 練習の合間に差し込まれるそんな気遣いが、知らず知らずのうちに可奈子の心のひずみに埋まり、二人の絆を確かなものにしていくようだった。



 可奈子のらしくない態度に、ついつい栄太まで落ち込みそうになる。

 彼は思いつくすべての息苦しさを振り払うように語気を強めた。


「気にしてたらあかんよ。大会では一位、二位独占するつもりでいこや。逆に、ぼくの方で気になることある?」


 誰かに口やかましく言われると反感を抱く栄太だったが、不思議と可奈子の言い分には耳を貸す気になれた。

 とがめられている感覚はまったくなくて、そこまで見抜いてくれているのかと感謝すら覚えるほどだった。


「そやねぇ。栄太くんは答えを書き写すときが……」


 ガチャッ――


 可奈子の口をふさぐようにして玄関の扉がひらいた。


 指摘の続きは想像がつく。

 正解を書き写すときに何度も手元のそろばんを見返してしまう癖。そのせいで計算時間を大幅にロスしてしまう。栄太自身も自覚している短所だ。


「ただいまぁ」

「お母さん、今日は早かったんやね」


 可奈子はさっと立ち上がって買い物袋を預かる。いつもの陽気な彼女に比べて、よそよそしさが見られた。


 リビングをまたいで奥の部屋をめざした可奈子のお母さんは栄太の姿を確認すると「あぁ、きみが栄太くんか。そろばんご苦労さまやね」と空々しさを感じさせる語調で述べた。

 栄太は背筋を伸ばしたものの、すでに視線が切られていた彼女の背中に対して、いえ、こちらこそ……と尻すぼみな挨拶になってしまう。


 自分の母親とは違う。お母さんというよりお姉さんのようだった。

 細くてキレイで、切れ長の目は可奈子とは似つかないけど、赤く染まる唇に紛れもなく二人が母娘であるという印象を受けた。


「ごめんけど、今日はもう終わりにしよ」


 そそくさとプリントをしまう可奈子。せっつかれるように栄太もそろばん道具を鞄に直した。


「ありがとね。可奈子がお世話になったみたいで」


 お母さんは本当にありがとうと思っているのかどうか、レジ袋から取り出した缶ビールを開けるとグビグビとあおった。

 それから椅子に腰をおろして長い両脚を組んだ。


 可奈子は母親のそんな姿を恥じるように、これまでに見たことのないつらそうな顔をしていた。


 そのまま口数もなく、重苦しい様子で玄関まで見送ってくれる。

 飲みかけのホットレモンが残るコップを台所まで運ぶ余裕さえなかった。


「いつも家にあがってごめんな。大会がんばろな」


 栄太は自分で発しておきながら、吐き出した声が虹色に輝いた気がした。

 言いすぎではなく、その色には可奈子と出会ってからの想い出のすべてが詰まっていると思えた。


 そろばんケースの中で無数の珠がシャカシャカと音を立てる。

 それぞれの持ち場で追い越すことも追い抜かれることもなく、互いが互いを支え合うようにシャカシャカと。


 可奈子は淋しそうにうなずくだけで何も答えなかった。

 代わりにアルコールの混じる、くたびれた声色がリビングから届けられた。


「もうすぐ大会やったか。可奈子の分まで頑張ったってや」


 読み上げ算の、先生のあの澄みきった声に比べると耳には何も残らなかった。

 だけど、「さよなら」や「気をつけて」の代わりに発せられたであろう別れのあいさつは栄太の心臓を鷲掴みにした。


「……えっ? 可奈子、大会、出やんの?」


 まさかという栄太の慌てように、可奈子はバツが悪そうに視線を逸らした。

 赤い唇を強く結ぶように噛んだまま……。


「何か用事あるの?」


 ざわざわと立ちこめる胸騒ぎを押し返すように栄太は早口になった。

 初めて目にする可奈子のモジモジとした様子に不安が群れとなって駆け上がってきて、斜めがけの鞄の持ち手をぎゅっと握りしめる。


「……お母さんと出かけるん?」


 今度はゆっくりと柔らかく。どんな返事でも構わないと言い添えるように。

 虹色の声は降りかえす雨に打ち消され、白と黒の間の色に変わり果てている気がした。


 震える唇がぼんやりと浮かぶ。可奈子の赤い唇。

 問いかけが彼女を追い詰めているとは思いたくなくて、栄太はぎこちなくこめかみを揉んで精一杯の笑顔を披露する。


「ぼくらが出んかったら井戸そろばんはボロボロや」


 たまらずこぼれそうになった涙を肩でさっとぬぐった。

 もしかすると可奈子を初めて見た日も自分はこんな顔をしていたのかもしれないと不安になる。

 恐れ、嫌い、いらだち、躍起になって、きつい眼差しを彼女に向けていた。


 でも今は、可奈子を見つめる気持ちはそうじゃない。


「かなこ……」


 せがむように絞り出した最後のひと言にも返答はなかった。


 立ちすくむ彼女を苦しめているのが自分だとわかると、栄太は急に怖くなって逃げるように玄関を飛び出していった。

 ドアが閉まるより先に嗚咽があふれだしてきて……階段をつんのめるようにして走って降りた。


 可奈子の赤い唇が『ごめん』と動いた気がして……。


 頭の中に、先生や読み上げテープだけでなく、可奈子や彼女のお母さんの声まで一緒くたに響いてきて、とてもじゃないけど栄太の暗算では追えそうになかった。


 大粒の涙が、枠やはりを失ったそろばんの珠のように――がむしゃらにこぎ続けた自転車の上からバラバラと散っていった。

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