第2話 赤い唇
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『井戸そろばん教室』は教育が個性や平等を優先させる社会にあっても実力主義を掲げていた。
所持する級や段によって教室の時間が異なり、氏名が彫られた木札はそれを如実に示すように優秀な者から順に玄関の壁にぶら下げられている。
栄太、可奈子の小学二年生コンビは、このクラスで最下に序列していた。
だけど、それは「才の欠如」ではなく、二人だけが同級生に先んじて上級生たちと張り合っていることを意味している。
「栄太、ほら。上がってる」
下駄箱にくつを収めながら、可奈子は声をひそめた。
周囲への配慮というよりは、秘密ごとを栄太と共有するような背徳感を漂わせる。
二人はつい先週このクラスにあがってきたばかりなのに、木札は早くも上級生たちを追い抜かし、最前列に名を連ねていた。
栄太が静かにうなずくと、彼女は
木札が指示する座席は背丈に劣る二年生コンビにとって上々の見晴らしだった。
もちろん栄太はここでも可奈子が誰より早く手をあげることを確信している。
幼稚園の年中組からそろばんに触れ始めた栄太。
小学校入学を機にそろばんを習いだした可奈子。
二人は市内でもっとも有名なそろばん塾である『井戸そろばん教室』でトップを走る低学年の有望株だった。
実力は拮抗しているが、正直なところ、栄太は可奈子の存在を認識してからは気が気でなかった。
小学生になるまでそろばんの「そ」の字も知らなかった女の子が飛び級を重ね、二年生で栄太だけが到達している「暗算三級」までやってきた。
可奈子の姿を目の当たりにした瞬間の衝撃。
同い年で女の子。彼女の
自分の歩んできた道のりの冗長さを
しかし、その焦りは予期せぬ形で解消されることになる。
「栄太くん、やんね。どんな風にそろばん練習しとるん? 今度一緒にしようよ」
彼女が初めて隣に座った日。
視界の端でしっかりと捉えていた女の子は臆することなく語りかけてきた。
決して挑戦的な口調ではなく、栄太の実力を認めてくれていることが一発でわかる清々しい笑顔だった。
肩のうえで跳ねるようにおどる髪。ゆうに栄太の倍はある瞳。
それから口紅を塗っているのかと思うほど、赤い唇――
こっちの小学校にはこんなにも可愛い女の子はいないと思った。
「え……別にええけど……」
「ほな今日でもいける? うちの家でいい? お母さんに連絡せんでもいける?」
一気にまくし立てられ、どの問いから答えればいいのかパニックになる。
木曜日は母親が帰ってくるのが遅いから毎日、鍵を預かっていた。
友達の家に行くときは朝に伝える決まりになっていたが、それを理由に断るのもかっこ悪いと思ったから強がった。
「うちは晩御飯までに帰れば何も言われん」
「ありがと。ほんなら二人で練習しよ」
あっという間に約束を取り付けられ、一周遅れでやってきた胸の高鳴りにポンポンと肩を叩かれた気持ちだった。
誰かと一緒に練習するのも、女の子と遊ぶのももちろん初めてのことだ。
その日の教室は気持ちがフワフワと身体から離れたりくっついたりしたせいで集中できなかった。
すぐ隣にいる可奈子に自分の息や心臓の音が聞こえているんじゃないかと心配で……。
先生から「そろばんの鬼の栄太でもこんな日があるんだな」と皮肉交じりに感心されたことが余計に恥ずかしかった。
同級生が集うクラスで二人が力を持て余していることは明らかだった。
読み上げ算で手を挙げることは禁止。誰も答えられなかった時だけ、先生からあてられた方が正答を口にする。
栄太は同学年、しかも女子である可奈子に並ばれてしまったことの悔しさを感じていたが、家にまで招いて一緒に練習をしたいという告白に感慨の想いだった。
自分のことをまだ上に見てくれている気がして、憑かれるように練習に明け暮れていたここ最近の疲れが吹き飛んで、ただただ安堵した。
そろばん教室からの帰り道、自転車に乗って彼女の家まで向かった。
女子の家にあがったことは一度もない。
緊張とは別に、変に周りの目を気にしなくて済んだのはそろばん教室が校区をまたいだ場所にあることも大きい。
可奈子とは通っている小学校が違うので、明日、男子たちにからかわれることはまずない。
彼女の家は、ダイニングを除いて二部屋しかない小さなアパートだった。
「いつも足し算からやっとる?」
キッチンで冷たい麦茶をくれたあと、遠慮せず座って、と二つある座布団のうち、分厚い方を栄太に譲ってくれる。
ぬいぐるみに囲まれた部屋を想像していただけに素っ気ない居間と、二人分のそろばんを置いてしまえば手一杯になるテーブルに戸惑った。
「宿題以外は、家ではもっぱら読み上げ算の練習ばっかり」
「お母さんがやってくれるん?」
「ううん、テープ使っとるのよ」
栄太にしてみればなんでもない返答に可奈子は面を食らったようにたじろいだ後、表情を
「えっ、いいなそれ……」
羨ましそうな顔つきを前に、いつもの栄太なら自慢気に話をしてしまうところだが、なんだか胸のあたりに重いものが詰まって思い改めた。
「ラジカセある? テープ持ってくるから一緒にしようや。一人でやってると集中できんからちょうど誰かと勝負したかってん」
集中できないなんて嘘だ。
だけど、勝負をしたかったというのはあながち間違いではなかった。
毎晩、血眼になって必死に暗算を繰り返した。
頭の片隅にはいつも、栄太を置き去りにしていく可奈子の後ろ姿があった。
「ええの? たぶんこれ使えると思うけど……」
喜びに申し訳なさの交じる顔で可奈子はタンスの
栄太は預かってコンセントに差し、中に入っていたテープをかけてみる。音量を確認していなかったため、潮の流れに乗った演歌が大音量で流れた。
慌てて停止ボタンを押す姿に可奈子は思わず笑った。それを見て栄太も気恥ずかしくはにかんだ。
「ほな、月曜日と木曜日はここで読み上げ算の練習しよか」
片膝をついたまま、これ以上ないほどに声が弾む。いつの間にか栄太の脳裏からは憎むほどに固執していた可奈子の幻影は消え去っていた。
それどころか、テープを買ってくれた母親に手をついて感謝したい想いだった。
「ありがと。うちら、もうすぐ上の教室に行くと思うから特訓やね」
「そやそや、上級生にも負けてられん」
その日はそろばんに触れることなく、いかにそろばんが面白いかを二人で語り合い、分かち合った。
栄太にとっては、初めて自分と同じ目線で話ができるそろばん友達だった。
家からも学校からも教室からも隔離された小さな部屋で「女の子の唇はなんでこんなにも赤いんやろ」と栄太は不思議に感じながら、可奈子のひと言一言におおきく首を振った。
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