一珠の光来

真乃宮

第1話 二人きりの時間に衝かれるように


「ねがいましては――」


 ぐっと膝を曲げ、次の跳躍にそなえるような先生のかけ声が教室内の流れを止める。

 そのわずかな隙に子どもたちは木机のうえで親指と人差し指を構えた。

 前屈みになって耳を立て、頭の中に一面のそろばんを思い浮かべる。


 そこから一拍を置いたあと、臨界点を超えたダムがせきを切ったように。

 ここは読み逃げる者と追いすがる者だけが残存を許された『聖域』となる。


「さんびゃくごえんなーり、ろくじゅうにえんなーり、にひゃくはちじゅうはちえんなーり、ひいてはにひゃくきゅうえんなーり、はちじゅうきゅうえんなーり、くわえてごひゃくごじゅうななえんなーり、はちじゅうよえんでは?」


 言い終えぬうちに前方を占める上級生たちが一斉に手をあげた。先頭集団から出遅れた幾名かは所在なさげに口を曲げている。


 突き上げられた右腕の群れに座高のない栄太えいた可奈子かなこの姿は埋もれてしまっていた。それでも可奈子は剣山みたいに連なるその合間を縫って、身を乗り出すようにして指先まで伸ばす。

 すぐ右隣で読み上げ算をしていた栄太にはわかる。

 ほんの一瞬、一珠を加えるにも満たない差で、彼女が一番早かった。


 読み手である先生はそれを見間違うことなく指名してくれる。


 かわいらしさや愛くるしさ、それから低学年にはふさわしくない気概をため込んだ可奈子の赤い唇からその『和』が放たれる。


「九百十七!」

「ご明算」


 当然のように正答を期待していた先生のあいづちが、彼女と栄太の表情にパッと色をともした。同時に、例えようのない青く澄んだ熱が胸の内側に帯びる。


 そんな二人とは対照的に、教室内に歓声は起きない。

 下のクラスでは明算のたびにおしゃべりと答え合わせの時間があった。

 でも、ここは違う。

 ぬるさを徹底的に排除したクラス。選ばれた者だけが肩を並べられる戦場だ。


 たった一秒さえ惜しむ先生の気勢に呑まれないように、年下に先を越された上級生たちの悔しみは息遣いの中ににじんで消えた。


 頭の中のそろばんをご破算する。

 先ほどの栄太の答えも「九百十七」だった。

 だけど、感慨にふけってる余裕なんてない。



「読み上げ算」を「短距離走」にたとえる人がいる。

 陸上選手がスターティングブロックに足を置くかわりに、彼らは木目が美しく生きた机に右手を預ける。

 脳裏に描くゴールまでのイメージ。号砲とともに繰り出される左右の脚。追い風に押され、向かい風に圧されながら、誰より、昨日までの自分より早く。


 教室の中で背を丸める子どもたちは脚ではなく、二本の指を上下に揺らす。

 一珠と五珠を駆使し、誰より、昨日までの自分より早く、ただひたすら正確に。


 栄太と可奈子は、あの部屋で過ごす二人きりの時間にかれるように。

 珠が奏でる独特のリズムに色めきながら――呼吸さえ置き去りにしていく。



「ねがいましては――」

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