ボーダーライン

黒田真由

ボーダーライン


 ソファにかけていた。何もしたくない。食欲もない。なんなら、入浴などの清潔行動すらできない日もある。

 出てくるのは、イメージのみ。とある男女の話、猫と女性の話…挙げだすとキリがない。

 仕事に行かねばならぬとわかっていた。準備を整え、靴を履いた。なのに、そこから先が動かない。動けない。冷や汗が出る。時間は刻々と過ぎて、気付けば遅刻確定の時間だった。

 一先ず休みを取った。何度も試した。何度も家を出ようとした。その度に冷や汗と手の震え、不安感に苛まれて、気が狂いそうになった。諦めて本を読んだ。ハマっている作家の作品を読む。

 この作家の作品が好きだと話すたび、父は残念そうに言う。


「その作家にハマるなら、やっぱり頭が良いはずなんやけどな。もったいないなぁ…」


 私は、その度に私の全てを否定された気持ちになる。私の人生は、失敗だったのか? いつも傷付いていないフリをして受け流す。しかし、弟との比較と、父の言葉ですでにボロボロだ。

 職場では、これといって何かあったわけではない。むしろ、何もなかった。なさ過ぎた。

 与えられた仕事をすると、あとは座席でパソコンに向かうのみ。何をするでもない。「向かう形を保つ」のみだ。私はお金を貰ってただ座っているだけ。

 初めは、何かしなきゃと仕事を貰ってみたり、自分から掃除やボロボロのインデックスを貼り直してみたり、マニュアルを読み直してみたりもした。そうしていたら、先輩からアドバイスを受けた。


「あんまり、仕事貰わない方が良いよ。忙しい時に大変になるから。」


 処世術の一つと言われたが、あまりに動くから、釘を刺されたのかもしれない。そこは「先輩のみぞ知る」だ。

 気付けば何もすることがなく、大半がエクセルで遊ぶような日が続いた。教わったことを自身のメモ書きまで済ませてしまったのだ。とうとう終わってしまった。

 やることがない。やれることはエクセルと戯れることのみ。給料を貰っているのに、こんなことしていて良いのだろうか。有事の際の要員だということは分かっている。

 しかし、給料に見合った働きをきちんとこなしていないのではないかと不安に駆られる。上司は忙しそうにしているのに。


「座っているだけでお金がもらえるなんて、ラッキーじゃん」


なんて楽観的になれれば、どれだけ楽だろう。

 それが思えないのだ。どうしても思えないのだ。そんな風に思えるのは、最初の内だけだ。なんなら、その最初の内すら私にはなかった。「やれることがない」。それがこんなにも苦痛だなんて、思いもしなかった。

 私は頭がおかしいのだろうか。わからない。おかしいはずはない。私は、経費の無駄を抑えることを意識しただけだ。ならばいてもいなくても良いのではないか? そう考え始めると、もう止まらない。自分にはどうにもできなくなった。

 そんな日々が続いたある日、私は家から出られなくなった。翌日も、玄関で靴までは履いた。しかし、そこまでだった。諦めて部屋へ戻る。このままじゃいけないと思った。

 心療内科へ行った。「抑うつ状態」と、「対人恐怖症」だと言われた。診断書をもらい、自宅療養に専念することとなった。何もする気が出ないので、薬のために食べ物を突っ込んで、とりあえずSNSを覗くだけの日々。そうこうしているうちに食べ物や清潔行動すらしんどくなってしまった。

 日中の食事は、薬だけを飲む日々が続く。そんな私を父はきっと許さないだろうと、父には誤魔化す日々が続いた。

 そんな私が唯一できたのは読書だった。初めはその文字すら頭に入らなかったが、何もしない日が続くと、いつからか好きな読書だけはできるようになった。読書だけは、私を玄関から本の世界へ(外)へ出してくれる。

 ある日の通院日のことだった。私は、「自閉症スペクトラム」のちょうどボーダーラインにいることがわかった。なんだかわからないが、「すとんっ」と音を立てたような気がした。しかし、これが分かったらどうこうなるわけでもない。なんだか、人であり、人でない気がした。

 帰りに本屋へ行き、自閉症スペクトラムのことを書かれた本を買った。そこには、「発達障害は個性」とあった。人になれた気がした。

 思ったことを文章化すると、気持ちがスッキリすることに気付いた。試しに投稿してみた。思ったより評価を受けた。「何もない人」から、「文章が書ける人」になれた気がした。とても嬉しかった。

 自宅療養を抜け出すきっかけになるかはわからない。しかし、私のようなボーダーラインの人が、気付かず苦しんでいるかもしれない。そう思ったら、気付けて良かったのかもしれない。

 私は、今日も好きな本を読んで旅に出る。長編だから、時間がかかるかもしれない。


 突然突風が吹いた。風で、パラパラパラパラ、パタンっと本が閉じた。そこに彼女はいなかった。その後の彼女の行方を知る者はいない。

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