私は鬼と住んでいる。

第1話

 わたしは鬼と住んでいる。

 鬼はわたしと弟にごはんや着るものをくれる。わたしと弟は鬼がいなければ生きていけない。

 鬼はわたしたちを殺すつもりはないようだったけれど、鬼はとても怒りっぽかった。

 弟はまだ幼い。ようやくしゃべることができるようになったくらいの年だから、たくさん失敗をする。しくじった自分を受け入れられないとき、泣く以外にどうやって気持ちを表せばいいのかまだわからない。でもそんなことは鬼には関係ない。弟の泣き声が鬼は不快なのだ。

「泣くな」

 鬼の張り手が飛ぶ。弟は身体ごとあっけなく弾き飛ばされる。

 浮いたものは当然のように落ちる。地面にたたきつけられて、静かになる。動きを止めた弟の姿に、わたしは後頭部の下のほうがすとんと寒くなり思わず息をのむ。

 弟が激しく泣き叫ぶ声が聞こえ、ほっとする。生きてる。よかった。それからすぐに、痛かっただろう弟のことをかわいそうに思い、わたしも泣きそうになる。でも泣いてはいけない。鬼の怒りに油を注ぐだけだ。

「泣くなって言ってんだろ」

 倒れたまま悲鳴のような泣き声をあげている弟を、鬼が踏みつけにしようとするところに慌てて割って入る。弟の上に覆い被さったら、そのまま鬼に踏みつけられた。ぐえっ、というカエルのような声が喉の奥から漏れる。酸っぱい何かが一緒に出てきた。吐き出すのをぐっとこらえて許しを請う。「ごめんなさい、ごめんなさい、泣かないようにさせますから許してください」

 わたしは弟に覆い被さっているので、背後にいる鬼の様子は見えてなかった。鬼の返事がないと気づいたところで、右の脇腹に衝撃を受けた。

「ぎゃっ」

 鬼がわたしの脇腹を蹴り上げたらしい。「ぎゃっ、だってよ。ウケる」と鬼が言う。わたしの悲鳴が面白かったようだ。痛みを気にするよりも、これで機嫌が直ってくれればよいと願った。

「ちゃんと黙らせろよ」

 鬼が今さら言うまでもなかった。わたしの身体の下にいる弟は泣き叫ぶのをやめていて、今は声を出さずしゃくりあげながら、全身をブルブル震わせているだけだった。こんなに幼い弟が生きるために学んだことが、声を抑えて泣く方法だということがとてもかわいそうで、弟を抱きしめながら頭をよしよしと撫でた。わたしの目からもぼろぼろと涙が流れるけれど、決して声は出さない。

 わたしたちがなにをしなくても鬼は怒り出すことがある。鬼が帰ってきたときの雰囲気でそれがわかる。扉をバンと閉める音だったり、どしどしと鳴らす足音だったり、わかりやすいのはまだいい。顔は笑っていたり、いつもよりやけに優しかったりするときほど内心とても怒っていることがあるので何を信じたらよいのかわからない。

 わたしたちは毎日、鬼を怒らせないよう、怒っている鬼の矛先がこちらに向かないよう、息をひそめるように生きている。

 ある日は部屋の隅でじっとしていた。

「なにも言われなくても家の手伝いくらいやれ」

 殴られる。

 殴られたので、次の日は部屋の掃除をしてみた。

「余計なことをするな」

 殴られる。

 またある日は、なんでかわからないけれど鬼が怒っているので、同じ部屋にいないように部屋を移ったり外へ出たりしてみる。

「おい」部屋を移ろうとしていたところで腕をつかまえられて、強い力で引っ張り戻された。肩に激痛が走って、腕が抜けたんじゃないかと思うほどだった。何が起こったかわからずにいると、目の前の鬼が「おまえ、避けてるな?」と低い声で言った。わたしはぶんぶんと首を振ったけどもう遅かった。

 覚えているなかではこのときが一番こっぴどく殴られた。避けることだけは絶対だめだと理解した。

 わたしの世界はだいたいこんなものだった。わたしと弟は鬼がいなければ生きていけない。ごはんも食べられないし着るものも住む場所もない。それをわたしはよくわかっている。それを鬼も理解しているようで、わたしが鬼に逆らえないと思っていることは鬼にとってはずいぶんと気分がいいようだった。

 そう、わたしは鬼に逆らえない。ずっとこうして生きていくのだろうと思っていた。

 ある日、わたしは夢を見た。いや、起きながら見ている夢だったかもしれない。いつの頃からか、わたしはわたしにしか見えないものを見るようになっていた。わたしはそれを起きながら見る夢と呼んでいた。

 夢のなかでは、ウサギの頭に人の身体がくっついた男の人がわたしに微笑みかけていた。わたしも笑い返して、彼が差し出した手を握り返した。ウサギはわたしの手を引いて走り出した。

「きみの弟が穴に落ちちゃったんだよ」

 なんて大変なことが起きているんだろうと思った。思っただけでわたしは慌てていなかった。なんだかフワフワした気分だった。

「助けるために穴を掘ろう」

 足を止めたウサギが言った。いつのまにかわたしが握りしめていたのは小さなシャベルだった。ウサギの手にも同じシャベルが握られている。

「こうするんだよ」

 ウサギはひざまずくと、両手で握ったシャベルを頭上に掲げ、目を閉じて「ごめんなさい ゆるしてください もうしません」とつぶやいた。それから一息に振り下ろす。勢いよくシャベルの突き刺さった土が激しく噴き上がり、大きな穴が開いた。穴のなかには青空が広がっている。

「なにそれ」

「五七五だよ。ごめんなさい ゆるしてください もうしません」

 なんだか面白くて、わたしはウサギの真似をすることにした。ひざまずき、両手で握ったシャベルを頭上に掲げる。

「ごめんなさい ゆるしてください もうしません」

 目を閉じてつぶやいた。いつかどこかで見た、神に祈る誰かの姿のようで、それがやっぱりなんだか面白かった。

「上手いね。言い慣れてるからかな、様になってる」

 ウサギが褒めてくれたのが誇らしかった。

 地面の奥底のほうから誰かの声がする気がした。ふと見ると、いつの間にか地面に生えた二つの瞳がこちらをにらんでいた。真っ赤に燃えるような瞳。怒っているときの鬼の目と同じように見えたけど、いつもと違うのはその中に怯えたような色を感じたことだった。これもよく知っている。鬼にぶたれたときの弟の瞳に宿る色。自分じゃわからないけれど、きっとわたしの瞳も同じだったろう。

 怒りと怯えが入り交じった瞳の色をきれいだと感じながら、シャベルを握りしめた両手を振り下ろす。

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私は鬼と住んでいる。 @akatsuki327

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