字句の海に沈む

東雲 彼方

言葉の刃と罪人

「おはよう」


 と、今日も僕は咎を重ねる。

 居場所を失うのが怖いから同調する。悪意に悪意を上乗せして地盤を築き、顔面に笑顔を貼り付けてやり過ごす。そんな関係など希薄かつ脆いものだと頭の上では理解わかっているのに……臆病な自分を隠すのに必死で仕方がないや。


「あれ、天音そらね、前髪切った?」


 隣の席の彼女友人Aが問う。


うん、切ったよ。ちょっと切りすぎちゃって本当は切ってないし、ただの寝癖なのに


 嘘ひとつ。僕に向かう字句の刃は数多。塵も積もれば山となるし、雨が降れば湖に。やがてそれは海となる。


「そういえば松尾、由依の真似ばっかりしてるんだって。いくら由依が可愛くてモテるからって、流石に性格悪いよねぇ」


そうだね……真似するのはちょっとねぇこうして陰口を言うあんたの方が性悪だろうに


 嘘ふたつ。僕の足は字句に埋もれて動けなくなる。言いたいことも言えないもどかしさ。弱い心を隠したくて仮面を探すので精一杯。


「あ、二人ともおはよう」


 また一人、隣人友人Bが増える。


「おはよう」


おはようあっまた厄介事が増えた


 嘘みっつ。膝まで浸かった。逃げられるかどうかの瀬戸際。既に退路は断たれ始めている。


「あ、天音髪切ったんだ?」


「そうそう、さっきもその話してたの」


ほんと二人とも目敏いよねまったく、どこを見てるんだか


 嘘よっつ。愈々腰まで浸かって動けない。逃げ道は断たれた。ただ溺れるのを待つのみなのである。もうどうすることも出来ない。今更本音を漏らしたところでこの罪から開放されるわけでもない。一生背負い続けねばならないのだから。


「そういえば駅前にまたタピオカミルクティーとかのお店出来てたよね、帰り一緒に行かない?」


 友人Bの方がふと思い出したようにこちらに話を振ってくる。この場合、友人Aの反応次第で私の反応は決まる。作戦は1~5。Aが同調した場合,拒否した場合、そしてその後のBの反応……それによって使い分ける。または話を逸らすという手段。


「あ、いいね」


 AはBに同調した。作戦1が適用される。この場合、同じように同調するというが解だろう。“私”に拒否権または選択権など存在しない。如何に面倒事から逃れられるか、ただそれだけ。


じゃあ放課後行こっか?甘いもの嫌いだし早く帰りたいのに


 嘘いつつ。胸まで迫った罪業の湖。雨のように降り続ける咎事の矢は次第に狙いを僕の頭へと変えていく。水のようなそれは僕に耐え難い圧力を与え、あまりの苦しさに涙が溢れそうになる。


『どうすればいい? 一体どうすれば少しは楽になる?』



 ――罪人は嘘を吐き続けろってさ。


 稀代のペテン師になるしかないんだ。僕の顔はどんなだったっけ。虚偽の仮面が張り付いてしまって取れやしない。元の表情はとうの昔に消え去った。あの日殴られた空き地で捨ててきた。本心を隠し続けることのみが僕を救う、そう信じて生きてきた。だが然し、当然咎人に救いなど存在しなかったのだ。死ぬまで苦痛を背負うことがせめてもの罪滅ぼしさ。


「そういや昨日のドラマ見た?」


「あー見た」


 これは本音。


「小さい子っていいよね、私も早く結婚したーい」


 そう語るAを見て、お前には一生無理だろ、とは思うが口に出してはいけない。これは演技なのだから。嘘を吐き続けるという演技。俳優にだってここまでの嘘は吐き続けられるだろうか? 彼らが演じるのは舞台の上だけ。僕の舞台は日常。つまり嘘を吐くこと=呼吸をすることと言っても過言ではない。


そうだね、幸せになりたいねー僕は一生幸せになんてなれないのに


 嘘むっつ。首までたどり着いた。苦しい。僕は水の中で踠く。助けを求めたって誰も来ないのに、なんでこんなに叫んでいるのか。あまりの煩さに僕は自分の耳に蓋をした。二度と悲鳴が聞こえぬように。聞こえるのは水の跳ねる音、そして雨の降る音。ただそれだけ。もう一つだけ聞こえるとすれば、矢が頭に刺さった時に吹き出した血の音。僕の近辺だけ水が真っ赤になっている。何故だろう、もう分からないな。思考が仕事を放棄している。


「もし結婚して子どももできたらーって時々考えるんだけど、名前どうしよっかなーって」


「うわー、美紀ってそういうタイプ?」


「えーいいじゃん別に。ちょっと妄想癖が強いだけですー」


 AとBが二人で会話をしていく。この時の僕は空気のような存在で、むしろこの状況を好ましく思ってすらいることにまた罪悪感を抱いて、より一層呼吸は苦しくなる。胸が痛い、いや頭が痛い? 最早痛みの発信源がどこにあるのかすら僕には分からない。知っている筈、でも、理解してはならない。痛みを自覚すること、それは素直になること罪の放棄


「そういやさ、天音」


 Bが“私”に声を掛けた。この時点で空気から一人の人間に戻らねばならない。それが酷く苦痛で仕方がない。然し、それを拒絶出来るほど僕は立派な人間ではない。


「天音って名前可愛いよね」


「あ、それ分かる!」


 一番、触れて欲しくない話題。


「あまねって読めそうなのにそらねって可愛くない?」


 やめてくれ。


「そらね、いいよね。語感が好き」


 お前ら、『そらね』という言葉の意味を知っているのか。こんな名前のせいで生まれながらに負った罪と戦い続ける僕の感情など、彼女らに到底理解出来るものでもないとハナから分かっている、分かっているのに。冷や汗が止まらない。拒否反応。お願いだから、まだ立場を失いたくない。せめて、留まらせてくれよ。まだ死にたくない、お願いだ。独りにはしないでくれ――。


「……ごめん、ちょっとトイレ」


 血の気が引いていく気がして。このままあの場所に居て話を聞いていれば多分“私”を演じることはおろか、僕のカタチを保っていることすらままならない。限界だった。


「そ、天音? 大丈夫……?」


 その声には振り返らない。もう声は聞こえない。途中で他人にぶつかったりもしたけれど、謝る余裕すら僕にはもう残されていなかった。ああ、苦しい、もう何も聞こえない、何も考えられない。トイレの前に出来た列を無視して、空いていた和式のところに駆け込み、胃の中の物を全て吐き出す。苦しみは変わらない。あるのはただ罪の意識と些細な僕の嘘。


ありがとう、私もこの名前大好きなんだ大っ嫌い、こんな名前なんて


 嘘ななつ。最後に吐いた本当の嘘。トイレの個室で小さく呟いたひとつの嘘で、僕は言葉に溺れた。虚偽で塗り固めた字句の刃に刺され、血で濡れる。意識が次第に混濁していき、視界はぐらつく。


 ガタン。


 よろめいてドアに手をついたがもう遅かったのだろう。ぐにゃり、と景色が歪む。意識はそこで途切れた。もう二度と戻れることはないのだろう。どうかせめて、僕のように苦しむ人間が減れば――僕の空音も少しは報われる。


 僕は虚偽の大海に溺れ、字句の海に沈んだ。

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