窓辺のジャスミン

雉里ほろろ

窓辺のジャスミン

 コツコツと窓ガラスをノックする硬い音に、瑠美は本のページをめくる手を止めた。

 椅子から立ち上がり慌ててカーテンを開けると、向かいの窓から身を乗り出し笑顔で手を振る青年がいた。瑠美はすぐに窓の鍵を開ける。


「や、瑠美ちゃん。こんにちは」

「こ、こんにちは直人さん」

「恵美を呼んでくれるかな?」

「は、はい。お姉ちゃんー!」


 瑠美は部屋を出て、反対側の部屋にいる自分の姉を呼ぶ。音楽を聴いていたらしい恵美は、イヤホンを耳から外して振り返った。


「どしたの瑠美?」

「直人さんが呼んでるの」

「……まったくアイツは。もう子供じゃないんだから、普通に玄関から来なさいっての」


 ぶつぶつと文句を言いながらも、恵美は立ち上がる。そうしてそのまま二人は瑠美の部屋へ戻った。向かいの窓には変わらず直人がいる。


「直人、アンタねぇ。普通に玄関から声かけなさいよ。瑠美も困るでしょ!」

「いやー、いちいち面倒だからさ。いいじゃないか別に」

「まったくもう……。それでどうしたのよ」

「宿題で出た数学のプリントあるだろ? 分からない問題があって、恵美に教えて貰おうと思って」

「はぁ、教科書は?」

「学校に忘れてきちゃったんだよ」

「アンタはいつも……!」


 直人と恵美は窓越しで楽しそうに話している。その姿を見ていると瑠美はいつも居心地が悪くなる。

 瑠美は読みかけの恋愛小説を手に取ると、逃げるようにして一階のリビングへと降りていった。

 父親は仕事、母親はちょうど今は買い物に出かけているのでリビングには誰もいない。ソファに深く座り込み、瑠美は持ってきた本の続きを読み始める。だが本の内容よりも先に頭に思い浮かぶのは、直人と恵美の二人のことだった。


「……またお姉ちゃんばっかり」


 直人と恵美、そして瑠美の三人はいわゆる幼馴染みというものだ。幼稚園のころからずっと一緒にいる。

 家が隣同士で、しかも家の設計が妙なのかその気になれば窓から窓へ移動出来るくらいに家の距離が近いのだ。実際に、小学校低学年くらいまでは直人はよく窓を通って瑠美と恵美の部屋へ来ていた。そうして三人はいつも仲良く兄妹のように遊んでいたのだ。

 何かがずれはじめたのは、直人と恵美の二人が中学生になったとき。二歳年下の瑠美を小学校に残して中学校へ通い始めた二人は、陸上部に入部した。

 毎日夕方まで部活動に打ち込む二人。必然、瑠美と直人の距離は開いてしまった。


 ちょうどその頃からだっただろうか、瑠美が直人のことを「お兄ちゃん」と呼ばなくなったのは。


 そうして直人と恵美は高校二年生になり、瑠美は中学三年生になった。


「直人さん……」


 今の瑠美には分かる。付き合ってこそいないが、直人と恵美は両想いだ。二人は、未だに初々しい中学生のように互いの距離を測りあっている。

 自分と直人が同い年だったなら、なんて贅沢は言わない。でもせめて年の差が一年だったなら、可愛い後輩として直人に積極的にアピールしている自分がいたかも知れない。陸上部のマネージャーになって、部活で頑張る直人先輩にタオルやスポーツドリンクを差し出すのだ。


 ああ、それは何て幸せな空想だろう。


 テレビでは十歳、二十歳差の芸能人夫婦の話題などもあるが、まだ中学生の瑠美にとっては二歳の年の差は大きく、そして憎らしかった。



 ◆  ◆  ◆



「瑠美―! なーに読んでるの?」

「ひゃっ、桃ちゃん!」


 翌日の学校。瑠美の手の中から読んでいた本が抜き取られた。


「か、返してよ」

「もー、瑠美ったら。昼休みにまで本読まなくても良いじゃない。また頭のよさそーな本?」

「や、その本は違うよ?」


 瑠美と仲の良いクラスメイトの桃だ。彼女は瑠美の手から抜き取った本のブックカバーを外してタイトルを確認する。


「あ、これって今ちょうどドラマしてるやつだ。瑠美も見てるの?」

「え、ドラマは見てないけど……」

「えぇー、勿体ない! 出演してる俳優さんがイケメンって、よく話題になってるじゃん! エンディング曲も人気じゃん!」

「別にファンじゃないし……」

「はーっ、これだから瑠美は。一度くらいドラマも見てみなよ。面白いよ」


 困惑する瑠美に、桃はわざとらしいため息をこぼした。


「でもちょっと意外。これ、瑠美とはイメージがちょっと違うじゃない?」


 瑠美が読んでいた本はドラマにもなっている、女性に人気の恋愛小説だ。

 キャリアウーマンの主人公、リカが同じ職場の年下男性と恋に落ち、恋に仕事に奮闘しながら女性としても社会人としても幸せを掴んでいくというストーリー。


「主人公が瑠美とは性格が真逆じゃん? 何て言うか、リカは男を振り回すタイプで、瑠美は尽くすタイプというか……そう、近所の初恋のお兄さんを、今も一途に思い続けている、みたいな?」


 鋭すぎる桃の言葉に、瑠美の心臓がどくんとはねる。


「そ、そんなことないよ。私だってこういう大人の恋愛に憧れたりするし」

「うっそ、それこそ意外かも。瑠美って自分の恋愛にキョーミなさそうだもん。結構モテるくせして彼氏が出来たって話も全然聞かないしさー」

「む、私だって、興味くらい……」

「じゃあ好みのタイプはどんな人?」


 好みのタイプ、と聞かれて反射的に直人が思い浮かんだ。さきほど以上に心臓が高鳴り、瑠美の頬にパッと赤みが差す。


「え、なになにその意味深な反応。もしかして、好きな人とかいるの!?」

「え、や、違っ」

「誰? クラスの人? それとも別のクラス?」

「だから違うってば!」


 ぐいぐいと詰め寄ってくる桃を、瑠美は赤い顔で押し返す。


「そ、そういう桃ちゃんは好きな人とかいないの?」

「わたし? わたしはそういう人はいないよー」


 桃があっけらかんと笑うので瑠美は首を傾げた。


「そ、そうなの?」

「うん。格好良いなーって思う人はさ、それはいるけど。でもその人が好きかって言われるとそうじゃないんだよね。一緒に居たい、側に居たいって思える人がいたら、きっとその人が好きなんだと思うけれど」


 そう言ってはにかむ桃が、その表情が、瑠美にはとても大人びて見えた。


「……桃ちゃんって、大人だよね」

「何それ。瑠美のほうが誕生日早いでしょ」


 そういうことではないのだけれど、と瑠美はくすくす笑った。


「というか、もうそろそろ瑠美の誕生日でしょ。プレゼント、何か欲しいものとかあったりする?」


 あ、と瑠美は桃に言われて自分の誕生日がもうあと一週間後に迫っていることを思い出す。


「プレゼント……かぁ」

「……その顔は特に何も思い浮かんでいない顔ね。いいわ、何か瑠美にぴったりのものを私が選んであげる。楽しみにしててねー」


 からからと快活に笑って、桃は自分の席へと戻っていった。



 ◆  ◆  ◆



「瑠美、お風呂上がったよ」

「……うん、分かったお姉ちゃんー……」


 上の空の返事を受けた恵美が、濡れた髪をタオルで拭きながらリビングへ顔を出す。


「瑠美、何やって――ドラマ?」


 瑠美がソファに座り、お行儀良くドラマを見ている。


「うん。今、流行っているんだって。友達に勧められて」

「珍しいね、瑠美がドラマ見てるなんて……面白いの?」

「……うん」


 テレビ画面の向こうでは、ドラマの主人公リカが年下の彼とデートしていた。

 職場ではヒールにスーツで格好良く決めているリカが、落ち着いた服を纏って現れる。その姿にどぎまぎする彼をからかいながら、二人はレストランで食事と夜景を楽しむ、というシーンだった。小説では確かこの後、些細なことから二人は喧嘩をしてしまい……という展開だったはず、と瑠美は思い返す。


「……あたしには分かんないなー」


 わしわしと男らしく頭を拭きながら、恵美は自分の部屋へ向かった。

 一方の瑠美は、テレビの画面をじっと見続けていた。

 瑠美の姉も格好良い女性だ。だが恵美はいわゆる男勝りで姉御肌というタイプ。それとは違う、理知的で落ち着いていながら強い芯があり、そして男を振り回す妖艶さを併せ持つ女性像。リカから受けるその印象は、本で読んでいたよりも強く瑠美に焼き付いていた。


「あ、そうだ瑠美。聞きたいことがあるんだけど」


 と、そこで先ほど部屋へ向かったはずの恵美が戻ってきた。

 何事かと瑠美も振り返る。


「なぁに、お姉ちゃん」

「アンタ、何か欲しいものとかないの?」

「え……特には無いけど……いきなりどうしたの?」

「ん……別に聞いただけだよ」


 すぐに恵美は引っ込んでしまった。


「……お姉ちゃん、相変わらず隠し事が下手なんだから」


 いきなり欲しいものを聞いてくるなんて、それはプレゼントのリサーチだろう。あと一週間で十五歳になる瑠美への誕生日プレゼントの。

 だが恵美からのプレゼントは毎年決まってケーキだ。なら、欲しいものを尋ねたのは何故か。

 答えはおそらく一つしかない。きっと、直人からそれとなく探るように頼まれたのだろう。

 直人から気にして貰えていることを嬉しく思う反面、プレゼントのことすらも姉を通してということに、心がざわつく。


「大人かぁ……」


 直人にとって自分はきっと、可愛い妹でしかないのだろう。

 もし自分がリカのように、美しい大人の女性になれたら。そうしたら直人は自分を妹ではなく、一人の女性として見てくれるだろうか。

 いっそ好きだと告白すれば――。

 とはいえそんな勇気が瑠美にあるはずもなく。


「うぅ……!」


 瑠美はソファの上で寝転がると赤い顔をクッションに埋め、ばたばたと足を動かした。



 ◆  ◆  ◆



「お誕生日おめでと! はいこれ、プレゼント」


 瑠美の誕生日当日。朝一番の教室で桃は瑠美に小さな包みを差し出した。


「わ、ありがとう桃ちゃん!」


 プレゼントを受け取り、瑠美は嬉しそうに笑う。


「もう瑠美も十五歳だねー。四捨五入したら二十歳だよ二十歳! 大人じゃん!」

「うーん、実感沸かないなぁ……」


 今朝、瑠美は同じようなことを両親からも言われた。しみじみと「瑠美もあと一年で結婚できる歳かぁ……」なんて呟いていた父親の言葉も、どこか他人事にしか聞こえなかった。


「まぁ、そんな大人の階段を登る瑠美のために、私はぴったりのプレゼントを用意したわけよ!」


 ふふん、と桃は得意げに鼻を鳴らす。


「それを使えば、きっと瑠美の想い人も瑠美の魅力にイチコロよ!」

「へっ!?」


 一体、何を渡されたのだろう。


「それ使って、好きな人にちゃんと告白するのよ」

「す、好きな人って……!」

「その反応で、流石に好きな人が居ないってことはないでしょ」


 呆れたように桃は笑う。


「でも……いきなり告白なんて。そんなの無理だよ……」


 ただ好きな人がいて、告白をためらっている訳ではない。相手は学校も違う年上で、しかもきっと自分の姉が恋敵なのだ。

 それでも勇気を出せ、なんて。


「無理なんて言わないの」


 だが桃はそんな瑠美の弱音を正面から切り捨てる。


「いい? その人が本当に好きなら、ちゃんと思いを伝えないと後悔することになるよ。一緒に居たい人と、何もしなくてもいつまでも一緒に居られると思っちゃダメなんだから!」


 ハッとして顔を上げた瑠美と桃の目が合って、桃の表情が優しくなる。


「誰だかは知らないけどさ、好きな人がいるなら今のうちにちゃんと告白しておかないと。私たち中学三年生だよ? 瑠美が好きな人と同じ高校に行けるとは限らないんだよ?」


 桃の言葉に瑠美は押し黙ってしまう。

 きっと桃は瑠美の好きな人も同い年だと思っているのだろうが、確かに桃の言うとおりだ。


 ――このままだとずっと妹のままで、恵美と直人に追いつけない。


「……うん。桃ちゃんの言う通りかも」


 包みをきゅっと握りしめ、瑠美は決意した。



 ◆  ◆  ◆



 来ると分かっていても、どこか不安に思ってしまう。

 自分の部屋で瑠美はそわそわと落ち着かない様子だった。気を紛らわすために読んでいる本の内容はちっとも頭に入ってこない。何度も椅子から立ち上がってはまた座ってを繰り返している。

 まるでクリスマスプレゼントをくれるサンタクロースが待ちきれない子供みたいで、瑠美は自分に笑ってしまう。

 桃から貰ったプレゼントはもう使った。

 何でもリカも同じものを使っているらしい。腕の内側に使うといいらしい。そんなようなことを色々と桃から説明された。

 普通はあまり家の中で使うものではないのかもしれないけれど、今日は特別だ。あと少しの勇気を補うためのおまじないのようなもの。


 そしてその時が来る。


 コツコツ、と窓ガラスを叩く硬い音が鳴る。

 瑠美は立ち上がり窓を開けた。すっと、冷たい夜風が緊張で火照った瑠美の頬を撫でる。


「瑠美ちゃん、お誕生日おめでとう!」


 向かいには笑顔の直人がいた。


「直人さん!」

「へへ、びっくりした? 今日は瑠美ちゃんの誕生日でしょ? 実は俺も、サプライズで瑠美ちゃんにプレゼントを用意したんだよ」

「わぁ、ありがとうございます!」


 隠し事が下手な姉のおかげで、それはとっくに瑠美にバレてしまっていたのだが。それでもやはり嬉しいものは嬉しかった。


「瑠美ちゃんももう十五歳かー。今年で高校受験だもんね」

「はい」

「大変だろうけど、頑張ってね」


 直人が取り出したプレゼントは、手のひらサイズの愛らしい猫のぬいぐるみだった。


「瑠美ちゃん、子供のころから猫が好きだったからね」


 どこか得意げな笑みを浮かべる直人。優しい目をした、直人のその笑顔が瑠美は子供のころから好きだった。でも今日は、その笑顔が見たいわけじゃない。

 飛び出そうなほどに高鳴る心臓を押さえつける。

 はい、と直人はぬいぐるみを窓から手渡そうと差し出した。

 瑠美が直人へ近づいて手を伸ばす。そして背伸びをして窓から身を乗り出した。


「もう――直人さんってば」


 そのまま直人の手をとると、その手を引っ張った。そして軽くよろめいた直人の頬へと、瑠美は自分の顔を寄せる。


「えっ――」


 ふわり、とジャスミンの香りが直人の鼻をくすぐった。そして頬に柔らかな感触。

 直人の手から猫のぬいぐるみを抜き取ると、そっと瑠美は離れる。

 突然のことに目を白黒させている直人の、その見たこともない表情がなぜだか妙におかしくて。

 右手の人差し指で残った熱を確かめるよう唇に触れ、笑う。



「――私、もう子供じゃないんですよ?」



 瑠美の机の上では香水が入った小さなガラス瓶が、まるで宝石のように光を弾いていた。

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