エピローグ
稲葉くんがやってきたのは、午後4時を迎えたちょうどその頃のことだった。「待った?」と小さく手を挙げる彼に、「ううん、今きたとこ」と返す。
「そっか、良かった」
稲葉くんは安心したような表情で、私の正面の席に座る。前に一度だけ委員会かなにかで遅くなったのを未だに気にしているらしい。別に気にしてないのに、と思いつつ話を振る。
「そういえば、こないだの課題は間に合った?」
「昨日持ち帰って徹夜で終わらせたよ」
「じゃあ間に合ったんだ」
「あぁ、おかげで今日はずっと眠かったけど」
そういって、稲葉くんは目を擦る。授業中にやたらと欠伸をしてたのはそのせいか、とわたしは一人で納得する。
それから暫くの間、わたし達は色々なことを話した。と言っても稲葉くんが自分から何かを語ることは少なく、どちらかと言えば話を聞いてもらっていたという方が正しいのだけど。
あの日わたしが物静かで"そういう話"に疎い彼を相談相手に選んだのも、考えてみれば単に気持ちを吐き出せる相手が欲しかっただけなのかもしれない。
「……ところで、稲葉くんは好きな人いるの?」
「なんだよ急に」
「ほら、普段は私が聞いてもらってばかりでしょ?逆に稲葉くんはどうなのかなって」
わたしからこうした問いが出たのが意外だったのか、稲葉くんは少し難しい顔をしてからこう答えた。
「うーん、あんまり考えたことないかも」
返ってきたのは、曖昧な答えだった。
わたしは安心したような、それでいて少し残念でもあるような、複雑な気分になった。
しかし気持ちを知る由もなく、彼は続ける。
「僕のことはいいから、そろそろ本題に入らない?」
その言葉に、わたしの胸が痛む。
ふたりで会う口実のために他の男子の名前を出すなんてことを続けていたら、いくらアプローチしても稲葉くんがわたしの気持ちに気付くことはないだろう。そう頭では理解していても、無理矢理にでも理由を作らなければ二人きりで話すことなんてできないんじゃないか?という不安を拭い去ることはできず、結局今日もこうして彼を呼び出したのだった。
「うん、えっとね……」
ゆっくりと言葉を絞り出す。
きっと稲葉くんにわたしの想いを伝えられる日は来ないのだろう。このまま卒業してしまうか、あるいは彼に恋人が出来てしまうか。いずれにせよ、ハッピーエンドではないのは確かだと思う。
それでも、少なくとも今は、彼と一緒にいたい。だから、わたしはまた嘘を吐いた。
「私ね、実はいま好きな人がいるの」
――通算N+1回目の、自傷にも似た嘘を。
N+1 アリクイ @black_arikui
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