空き教室のドアを開けると、上原さんはいつものように教卓に座って足をぶらつかせていた。


「待った?」

「ううん、私も今きたとこ」


 時計を見ると、針はちょうど約束の時刻を指している。僕は最前列の真ん中の席に、彼女に向かい合うような形で腰を降ろす。2人の距離は、約2メートル。お互いに手を伸ばしたら届きそうで微妙に届かない、そんないつもの距離。


「そういえば、こないだの課題は間に合った?」


 最初に話題を振ったのは彼女だった。


「昨日持ち帰って徹夜で終わらせたよ」

「じゃあ間に合ったんだ」

「あぁ、おかげで今日はずっと眠かったけど」


 それから暫くの間、雑談は続いた。話自体は本当に大したことのないものだけど、上原さんの声が、表情が、仕草が、僕を淡い充足感で満たしていく。

 ……あのとき、僕は彼女に嘘をついた。松本浩志は二組の藤沢の事が好きらしい、と。もしかしたら見抜かれてしまわないかとも思ったが、幸い彼女はいつものように「そっか、残念」と言うばかりだった。だから、こうして今日も僕たちは密会を続けている。


「……ところで、稲葉くんは好きな人いるの?」

「なんだよ急に」

「ほら、普段は私が聞いてもらってばかりでしょ?逆に稲葉くんはどうなのかなって」


 じっとこちらを見る上原さん。


「うーん、あんまり考えたことないかも」


 また嘘をついた。好きな人なら目の前にいるけど、なんて口に出したら彼女は一体どんな顔をするだろう?と思う気持ちはあるけれど、さすがに実行するだけの勇気は無い。


「ふーん、そっか」

「まぁ今は勉強とか部活でいっぱいいっぱいみたいなとこあるし」


 きっと、これから先も僕が上原さんに思いを告げることはないのだろう。このままいずれ卒業を迎えるか、あるいはどこかのタイミングで彼女の恋が成就するか。もしかしたら、そのうち僕の嘘がばれて破綻してしまうのかもしれない。いずれにせよ、ハッピーエンドとはいかないのだろう。それでも僕はこの半ば自傷めいた行為を繰り返す。こうして彼女の側にいるために。


「僕のことはいいから、そろそろ本題に入らない?」

「うん、えっとね……」


 上原さんがゆっくりと口を開き、N+1回目の始まりを告げた。




「私ね、実はいま好きな人がいるの」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る