第1話を何度も書き直すあなたへ

森町シマ

最終話

 ふんふんふーん。


 カタカタ、カタカタ。


 ふふんふふーん。たらったー。


 カタカタカタ…





 テレビから流れる声に、キーボードを叩く音が混じる。……いや、この甘酸っぱい声はテレビの音じゃなくて、鼻歌?


 目の前に座る彼女に視線を投げた。片手に缶ビールを握り音楽番組をながめている姿は、かなり上機嫌に見える。


 金曜日のこの時間は、日ごろ完璧超人を演じる彼女のオアシスだった。晩酌に付き合えない僕に、彼女の聖域をおかす権利はない。


「何してるの?」

 テーブルの向こうの詩織しおりが唐突に尋ねた。


「小説だよ」

 僕はノートパソコンに向かったまま答える。


「いつものヤツね」

「うん、いつもの。……あー、ゴメン。うるさかった?」

「全然」


 詩織の表情はあかるい。どうやら機嫌を損ねた訳ではないようで安心した。


「なんか面白いのやってる?テレビ」

「今終わったよ」


 僕に話しかけたのはそういうことか。

 というか、もう1時間経つのか。


「今日は何書いてんの」

「今日は、というか最近はずっと同じの書いてる。恋愛系なんだけど」


 へー、と彼女が身を乗り出してくる。どうやら「恋愛」という単語が興味を引いたらしい。

「こっちに来なよ」と言うと、詩織は椅子を引っ張ってきた。黒のショートカットが頬をかすめ、彼女の匂いがふわりと香る。


「うへへ〜、どれどれ〜?」

 詩織がオヤジみたいな声を出しながら画面をのぞき込む。


 あれ?もう酔ってたのか。

 彼女は酔っても、顔が赤くなったり呂律ろれつが怪しくなったりしないから分かりづらい。いていえば、目がとろんとしてわる。僕にしか見せない彼女の一面。


 かわいい。


「もっと褒めろぉ」

 彼女がにやけた。どうやら声に出ていたらしい。


「……って、10行くらいしかないんだけど」

「ああ、まだそれしか書けてないんだ」

「どーゆーこと?ずっと書いてるって言ったじゃん」


 詩織は首をかしげた。


「いや、書いてはいるんだよ。でも第1話から進めないんだ」

 僕は弁明したが、詩織はまだ納得してないように見えた。


「これ見て」

 と、僕はとあるフォルダを開いて見せた。そこにはずらりと並ぶドキュメントたち。


「……全部、第1話って書いてあるよ」

「うん。もう18回も第1話を書き直してるんだ」

「意味わかんない!」

 詩織は叫んだ。


 そりゃあ、そういう反応するよなぁ。僕は苦笑した。


 一応説明しておくと、僕は頭がおかしいわけではないし、ましてや完璧主義者でもない。この小説を書き始める前からなん作品も書いていて、途中で挫折したものもあれば最後まで書けたものもある。つまり、最後まで書き上げるために完璧な第1話ができるまで書き直し続けている、という訳じゃない。


「じゃあ、なんで書き直し続けてるの?」と聞かれたら?


 ……わからない。ただ、「いくら書いてもしっくりこない」のだ。






 ──ということを詩織に話したのだが、結局……というか案の定、理解してもらえなかった。


「世の中は九分くぶ十分じゅうぶなのだよ、キミ」

 詩織がおどけて言う。


 その言葉は使う場面がちょっと合わない気がするけど、言いたいことは分かる。たとえしっくりくる1話が書けなくても、どこかで自分を納得させてキリをつけないと。そうでなければ、いつまで経っても2話に行けない。


 分かってる。自分でもわかってはいるんだ。だけど。


「どうすりゃいいんだろな」


 本音が勝手に飛び出した。


「しーらなーい」

 詩織はテーブルに突っ伏した。別に助けを求めたわけではなかったが、この反応はそれはそれで悲しい。


「……てかさ、趣味なんだからもっと気楽に書けばいいのに。何がしっくりこないの?」

 くぐもった声で尋ねる詩織。


「んー。なんていうか、イベントが弱い気がするんだ」

「イベントが弱いって?」

「恋愛系だから、主人公とヒロインの劇的な出会いが必要なんだよ」


 第1話というのは起承転結の「起」。話の「つかみ」。そこで読者の心をわしづかみにできなければ、続きを読んでもらえない。だからこそ主人公たちの「出会い」は、僕にとって「転」と同じか、それ以上に大事なのだ。


「そんなことないと思うけどなぁ」

 詩織が顔を上げて言う。


「──私たちの出会いのきっかけ、覚えてる?」


 突然の質問。


「もちろん。うどんだよ」

 即答してから、なんだかおかしくて笑ってしまった。


 うどんってなんだよ。


 詩織が「笑ってないで話してよ」と、そのつややかな唇をとがらせる。

 話してやろうじゃないか。ちゃんと覚えているんだ。


 彼女は初めて会った時から、






「僕も詩織も同じ職場だけど、部署が違っていたからお互いを知らなかった」

「そうそう」

「僕らのオフィスの近くには有名なうどん屋があった」

「立ち食いのね」

「僕も詩織も出会う前から、お昼はだいたいそこで食べてた」


 詩織がウンウンうなずきながら相槌あいづちを入れる。僕はさらに思い出をよみがえらせていく。


「あの日は偶然、僕らは行列の前と後ろだった。券売機で食券を買って、僕らは並んでカウンターについた。たしか僕は温かけうどん、詩織はとり天ちくわ天うどんを頼んでた。しかも大盛り」


 僕はのところを強調した。それにムッとする詩織。


「そんでつい、女性なのによく食うなぁ、って言っちゃったんだ。というか、ホントは心の中で言ったはずだったんだけど、口が滑った」

「癖だよねー、それ。しょっちゅう心の声が口に出てるもん」

 さっきも出てたし、と詩織はなぜか得意げな様子だ。


「僕の嫌いな、僕の癖だよ。でも思い出すたびこの癖に感謝するんだ。あの時この口がうまいこと滑らなかったら、今こうして一緒にいられなかっただろうから」

「……自分で言ってて恥ずかしくならない?」

 苦笑いする詩織。それでさ、と流してごまかす僕。


「えっと。店を出てから、社員証で同じ職場ってことが分かって。しかも次の日に部署合同ミーティングで再会」

「私はあのとき嬉しかったなぁ」

「なんで?」

「自分のプロジェクトに引っ張って、こき使ってやれると思って」

 詩織はくすくす笑っている。


 そう。彼女は別の部署の上司だった。


「実際そうしたし、こき使ってるのは今も変わらないだろ」

「自分から私の下に来たくせに何言ってんの?」


 にらみ合って、同時にふきだした。

 こんな言い合いも昔から変わらない。僕らは僕らの物語の中で、この気持ちを大事に育ててきたんだ。


「ね?」

 彼女が僕を見つめる。


 ああ、この瞳だ。あの頃から僕をとらえて離さないのは。


「私たちの出会いなんて、劇的なものじゃない。うどんなんて、ぜんぜんロマンチックなんかじゃないでしょ?」


 そうだ。僕らの出会いは決して、小説になるようなドラマチックなものではなかった。


「あなたは新人のくせに異動願まで出して私のところへ来てくれた。そして必死になって働いた。その姿に私は惹かれたんだよ」


 彼女の茶色いまっすぐな瞳が、僕を見据えている。


「大事なのは、第1話じゃなくて最終話。あの時の私たちが今どうなっているかだと思うの」


 だから、と彼女は続ける。


「その物語の主人公とヒロインも、ちゃんと幸せにしてあげてよ」

 そう言ってから、詩織は照れくさそうにふにゃっと笑った。


 それからまもなく椅子から立ち上がり、「おやすみ」と言って寝室に行く彼女。その笑顔と後ろ姿が僕の目に焼きついて離れなかった。


 ──僕はまたパソコンに向かい合った。

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