第二章 繰り返す死 08

「イザヤくんも、わたしの手を引いて逃げてくれてありがとう」


「俺は……何もしてないよ」


 ハイソフィアを持たない劣等感から苦々しくそう答えるが、アナはゆっくりと首を横に振る。


「あんな状況で、冷静にわたしを連れて逃げられるなんてそれだけですごいことだよ。わたしだけだったらきっと、怖くて腰が抜けちゃってダメだった。だから……ありがとう」


 慈愛に満ちた優しげな光をたたえた星宿の双眸で俺を見上げる。

 それは夢で見た、俺を肯定してくれたときのあの瞳とまったく同じで――。


 やはりこの少女は、どんな状況であれ俺という異質な存在を認めてくれるのだということがどうしようもなく理解できてしまい、俺は口元が綻ぶのを堪えることができなかった。


 不思議そうにアナは小首を傾げる。アナにはそんな俺の心情の変化などわかるはずもない。

 だから俺は、精一杯の感謝をアナに伝えようと口を開く。


「なあ、アナ。あのさ――」


 ――だが。


 楽しい時間というものは、いつだって唐突に終わってしまうもので。

 俺は今という時間の心地良さにかまけて、《あの夢》の最後を――失念していた。

 のんびりと大通りの脇で立ち話をしていた俺たちに向かい、突然黒服サングラスの集団が走って来た。


 それは夢の中で、アナを追っていた連中だった。そのうちの一人がアナの存在に気づいたらしく、こちらを指さしながら大声で叫んだ。


「いたぞ! ! !」


 なん、で――?

 不条理な状況に理解が及ばなくなる。

 何故アナは追われている? そして――何故アナは殺されようとしている……?


 何もわからなかったが、とにかく動かなければならないと本能的に判断し、俺はアナの手を掴んで一目散に走り出す。走りながらアナが叫ぶ。


「ダ、ダメだよ! 危ないからイザヤくんだけでも逃げて!」


「そんなことできるわけないだろ!」


 走りながら懇願するアナを、俺は怒鳴りつけて黙らせる。

 こうなってしまった以上、大通りでは逆に目立って逃げにくい。

 俺は脇道へ逸れ、どうにかして男たちを撒こうと頭と足を必死に動かす。


 なんでだよ……っ! くそっ……! あの黒服連中は俺の夢の中の登場人物じゃなかったのかよ……っ! なんでそれが実在して、しかもアナを殺そうとしてるんだよ……っ!

 考えれば考えるほど、頭は混乱するばかりだ。


 一方で、意識の片隅では予感めいたものも抱く。まさかこれは、予知夢ではなく、――?

 脳裏に浮かんだ荒唐無稽な発想を振り払うように、俺は足を動かす。今は、余計なことに気を取られている場合ではない。


 しばらく一心不乱に走り回り、やがて人気ひとけのない路地裏までやって来たところで――俺は自らの浅はかさを悔いる。


 その先の道は閉ざされ――完全な袋小路になっていたのだ。

 どうやら俺は連中から逃げているようでその実、馬鹿みたいに手のひらで躍らされてここへ追い込まれただけらしい……。


「はあ……はあ……くそっ……!」


 荒い呼吸を繰り返しながらも、アナを背中に庇い男たちと対峙する。

 こんな狭い袋小路に追い込まれては、アナを巻き込みかねないので《悪魔の腕》も使えない。


 内心で歯噛みしながら男たちを睨みつけていると、やがて一団の中からリーダー格と思しき男が進み出てきた。

 男の手には――拳銃が握られていた。


 テレビや映画の中でしか見たことがないそれを間近で捉え、本能的な恐怖に震える。

 緊張が高まる中、男は路地裏に響く低い声で言う。


「――その娘を渡してもらおう。そうすれば命だけは助けてやる」


「い……いやだ……っ!」


 映画のように格好良くはいかなかった。

 ただただ情けなく、恥も外聞もなく、駄々をこねる子供のように拒絶する。

 男は顔をしかめ、細く長い息を吐く。


「……子供じみた正義感に酔いしれて判断を見誤るな。その娘は、世界の敵なんだ。


「――? それは、どういう――」


 だが、皆まで言い終わる暇さえ与えられず。

 俺は突然の刺し貫くような激痛に襲われ、地面に膝を着いていた。

 一瞬遅れて、乾いた破裂音が路地裏に響き渡る。キン、と金属片が地面に落ちる。


 何が起こったのかすぐには理解できなかったが、男の握る拳銃の銃口からわずかに煙が立ち上っているのを見て……今自分はそれに撃たれたのだ、と理解する。


「イザヤくん!」


 アナが飛びついてくる。

 来るな、隠れてろ、という俺の叫びは、無情にも口から溢れる大量の鮮血によって消える。

 違和感のある腹部に目を向ける。すると制服が真っ赤に染まり、粘性のある温かい液体がだくだくとにじみ出ていた。


 どうやら腹を撃たれたらしい。薄いヴェールの掛かった思考で、他人事のようにそんなことを思う。

 ふと俺の顔に影が掛かる。急激な血圧の低下で暗くなる視界の中、わずかに視線を上げると、俺と男の間に両腕を広げて立ち塞がるアナの姿が見えた。アナは必死に懇願する。


「この人は関係ないの! わたしはどうなってもいいけど、この人のことは助けてあげて!」


 よせ……やめろ……説得の通じる相手じゃない……。

 彼女をこの場から逃がそうと、懸命に手を伸ばす。

 しかし、そんな俺の必死の願いも虚しく――。


 ――パァン。


 再び容赦のない破裂音が路地裏に響き渡る。

 まるで正面から軽く押されたように、ふわりと一瞬だけアナの身体は浮き上がり。

 どさり、と倒れ込んだ。キン、と再び薬莢が地面に転がる。鼻腔を火薬臭が掠めた。

 清潔な乳白色のブラウスの左胸から、じわりと朱い色が広がっていく。


 くそ……くそぉ……っ!


 俺は痛みを無視して、アナの身体に這い寄る。

 よく笑っていたその顔は、急速に色を失っていく。

 また守れなかった……っ! あのときと同じように、アナを死なせてしまった……っ!


 自分の不甲斐なさと情けなさに、涙が出てくる。

 物言わぬアナの身体に縋り付き、俺は慟哭を上げる。

 周りの男たちが何かを言っているが、もはや何も聞こえないしどうでもいい。


 次第に俺の意識も霞んでくる。

 死にたいわけではなかったが……アナが死んでしまった世界ならば、もういる意味もないかな、と諦観めいた思いも込み上げてくる。

 運命を受け入れようと、最後のため息を吐いたところで――。


 目の前に、謎の光る球体が浮いていることに気がついた。


 ふよふよと。地球上のあらゆる物理法則を無視して、それは悠然と揺蕩っている。

 いつかどこかで見たことのあるそれに――俺の左腕はまた意思に反して伸びていた。


 いつの間にか聖骸布が外れ、忌まわしい《悪魔の腕》が露出している。

 何となく――核心じみたものを抱く。


 ……、というあり得ない仮定。


 だがいずれにせよ――選択肢などない。

 俺は見る者に嫌悪感を抱かせるおぞましい異形の手で、その虹色に輝く球体を握る。


 ――パリン、と。


 まるでガラス細工のように、いともたやすくそれは砕け散り。

 すぐさま俺の意識は暗転した――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エンドレス・リセット 最果ての世界で、何度でも君を救う 紺野天龍/電撃文庫 @dengekibunko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ