第二章 繰り返す死 07


 6


 存分にステーキを満喫してから店を出ると、すっかり空は茜色に染まっていた。時刻を確認するとすでに午後五時を過ぎている。


 少しだけ、長居をしてしまった。食事自体はわりとすぐに終わったのだが、その後店内に俺たちだけしかいなかったことと、大量の上等な肉に満腹中枢を刺激されたことによる得も言われぬ幸福感から、まったりしていたのである。


「――それで、これからアナはどうするんだ?」


 気持ちよさそうに夕風に金糸の髪を揺らす少女に尋ねる。


「そうだなあ……。本当はもっとイザヤくんたちと一緒にいたいんだけど……いい時間だしそろそろ帰らないと……」


 アナはとても名残惜しそうに、にへへ、と笑う。できれば俺ももう少しアナと一緒にいたかったので、さり気なく提案してみる。


「――それじゃあ、送っていくよ。その研究所とやらに帰るんだろうけど、途中でまた不良連中にでも絡まれたら大変だ。……カナンはどうする?」


 傍らの妹に水を向けると、相変わらずの無表情にささやかな不機嫌さを滲ませて答える。


「……もちろん、カナンも行きます。二人だけにしたら、別れ際に接吻でもしそうな雰囲気ですので」


「接吻って……」


 さすがに三度目ともなれば突っ込みも覇気が出ない。しかし、そんな俺らをアナはとても楽しそうに眺めてくすくすと笑う。


「ありがとう、二人とも。それじゃあ、頼もしいボディガードお願いしちゃおうかなっ」


 そう言って小首を傾げて微笑むアナ。言質を取ったとばかりに俺は内心でガッツポーズをする。これであと少しだけ、アナと一緒にいられる。それはとても素晴らしいことのように思う。

 だから俺は万感の思いを胸に、口を開く。


「ああ、任せとけ。それで、その研究所ってどっちに行けば――」


 そう、何気なく尋ねようとした、次の瞬間――。


 ――二十メートルほど離れた何でもない道ばたで、突然爆発が起こった。


 ほとんど反射的に、俺はアナとカナンに覆い被さるようにしてしゃがみ込む。


「きゃっ……! な、なに……?」


「――――っ!」


 動揺の声を上げるアナと、対照的に緊張した様子で息を呑むカナン。

 とても嫌な予感を覚えながら、俺は首だけで爆発が起こったほうを振り返る。


 するとそこには――全長二メートルほどの、一対の異形の翼を備えた化け物が佇んでいた。


 一目見て、黒い。あまりにも黒すぎるそれは、明らかにこの世ならざるモノの色だ。

 フシュルルル、という湿り気を帯びた独特の呼吸音。口らしき器官からは漆黒の吐息が漏れ出ている。


 そして長い尻尾を地面の上でゆらゆらと揺らし――虚ろな眼窩からこちらをじっと見つめていた。

 怖気がするほどの嫌悪感を抱く異質な造形の怪物――それはまぎれもなく、人類の天敵《悪魔》だった。


 俺の左腕を喰らい、そして母を殺した憎むべき――敵。


 ヤバイ、と本能が全力の緊急アラートを打ち鳴らす。

 しかし、トラウマのせいで咄嗟のことに身体が動かない。


 一瞬で周囲は大パニックだった。悲鳴と怒声が交錯し、人々は我先にと突如発生した地獄の爆心地から逃げ出していく。

 だが、問題の《悪魔》はそんな人々には一切の興味を示さず、ただひたすらに俺たちに狙いを定めていた。


 ゆらりと、《悪魔》は異形の翼を、ほとんど骨格だけのような明らかに空を飛ぶ構造をしていないそれを揺らめかせる。

 ヤバイ、来る――っ!

 俺の覚悟も決まらないうちに、一足飛びに、まるで弾丸のような速度で《悪魔》は俺たちに迫る。


 ダメだ、死んだ――。

 刹那の待機時間で、数瞬後の死を意識する。


 しかし――。


 俺たちの数メートル手前で、《悪魔》は物理法則を完全に無視して急停止した。

 なにが……起こった……?

 混乱の中にありながらも俺は目を凝らす。


 すると俺たちと《悪魔》の間に、半透明の壁のようなものがあることに気がついた。

 その壁は、真夏の陽炎のように不確かな揺らぎをしていながらも、確固としてそこに存在している。どうやらその不可視の壁のおかげで、《悪魔》は俺たちに襲いかかれないようだ。


 ただただ呆然と状況を見ているしかない俺の腕の中から、小さいほうの個体がするりと抜けだし、どこか呆れをはらんだように言う。


「――まったく。《熾天使セラフ》のカナンを《悪魔》から庇うなんて、兄さんはいったい何を考えているのですか」


 青み掛かった黒髪のミディアムボブを爆風に揺らしながら――《熾天使セラフ》第八位、四ノ森カナンが立ち上がる。


「《低級悪魔》一体確認。増援連鎖なし。ただちに排除します」


 機械的に、あるいは事務的にそう告げてから、カナンはちらりとこちらに向き直り、珍しく、本当に珍しく微かにはにかむ。


「――でも、とても格好良かったですよ、兄さん。ますます恋慕が募りました」


 それからすぐにいつもの無表情に戻って続ける。


「ここは危険ですので、アナさんを連れて逃げてください」


「う……あ……で、でも、カナンを置いていくわけには……」


 混乱と動揺を必死に抑えながら、俺は回らない舌で答える。するとカナンはこれ見よがしのため息を吐く。


「《六対翼サタナエル》クラスならともかく、《一対翼いっついよく》程度の雑魚にカナンが後れをとるはずないでしょう。本当は今すぐにでも瞬殺できるレベルですが、万が一にも兄さんたちに二次被害が出てはいけないと思って力を制御しているだけです。要するに兄さんたちは邪魔なのです。些か不服ではありますが、とりあえずカナンのことなど気にせず、さっさと遠くへ逃げてください」


 うっ……とさすがに黙り込む。

 カナンの実力は俺が一番よく知っている。だから今この状況で、俺たちがカナンの足手まといにしかなっていないことも……悔しいが理解できた。


 一度納得してしまえば行動は早い。俺は、アナの手を引いて立ち上がらせ、カナンに手短に告げる。


「――わかった。アナは俺が責任を持って逃がすから、ここは任せた。おまえも……あまり無茶はするなよ」


「ご安心を。この程度、本気を出すまでもありません。かるーく捻ってやりますよ。それと……アナさんは、このドサクサに紛れて兄さんにオイタしたらダメですからね」


 軽口を叩くカナンに向かって一度頷いてから――俺は、脇目も振らずにアナの手を引いて走り出す。懸命に足を動かしながら、アナは心配そうに声を上げる。


「カナンちゃん《熾天使セラフ》だったんだね! でも、本当に一人で大丈夫なの!?」


「ランキングは八位でも、あいつの強さは規格外だから心配いらないぞ! それよりも、あいつの邪魔にならないように早く遠くへ逃げないと……!」


 息を切らしながらアナの手を引いて走り、いつの間にか俺たちは駅前のスクランブル交差点までやって来ていた。

 さすがにこの辺りまで来ると、まだ《悪魔》出現の情報が行き渡っていないのか、いつもどおりの雑多な日常が広がっていた。


 ここまで走り通しだった俺とアナは、一旦足を止めて、荒い呼吸を繰り返しながら互いの無事を喜び合う。


「はあ……はあ……ここまで来れば、とりあえず大丈夫だろう……」


「そ……そうだね……ヤバい、お肉吐きそう……」


「……頼むからそれは我慢してくれ」


「あはは……でも……すごく《生きてる》って感じがする……すごく……楽しい……」


「な……何だよそれ……」


 意味のわからないことを言うアナを肩で息をしながら窘める。

 とりあえずせめて少しでも気持ちを落ち着かせるために、自販機で冷たいスポーツドリンクを買い、二人並んで道ばたで呷る。


「……っ、ぷはあ! 生き返るう!」


 大げさにアナはそう言うと、上等そうなブラウスの袖で口元を豪快に拭う。

 その何とも言えないミスマッチ姿に、俺はこんな状況だというのに笑ってしまう。


 急場を脱した余韻で、脳内麻薬がまだ出ているのかもしれない。

 しかしそんな俺とは対照的に、アナは不安そうな面持ちでぽつりと呟く。


「……でも、カナンちゃん本当に大丈夫かな……? あんな小っちゃくて可愛らしい女の子を置いて来ちゃって、わたしは結構罪悪感がすごいよ……」


「……まあ、気持ちはわからないでもないけど、その罪悪感はどうせ杞憂だから考えなくていいぞ。カナンが本気を出したら、マジで洒落にならないくらい強いから」


「そ、そういうものなんだ……」


 アナは困惑と呆然を綯い交ぜにしたような複雑な表情で頷く。


「とにかく、あとでカナンちゃんにお礼言わなきゃ。――それに、イザヤくんにも」


 不意にアナは、姿勢を正して俺に向き直り、穏やかに微笑んだ。

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