上津役花代は心を開く
狭倉朏
それは鏡の向こうの世界のように
「
花代は困り眉を作り小さく肩をすくめた。
巻緒はその冷たい反応を気にもせずに言葉を続ける。
「鏡の世界、正面から見たら果てしなく続いているのに、裏に回れば何もない世界。子供の頃、君は鏡が怖かった方かな? それともずっと眺めていた方かな? まあ、君は今でも子供だけれどね」
花代は聞き流しながらなんとなく制服のスカートの裾をはらう。
「俺は鏡に関してはどっちでもない子だった。朝に顔を洗ったらぱーっと鏡の前から走り去るような子だったから、鏡を見ることなんて目にゴミが入ったときくらいかな。でも家族旅行の宿泊先のホテルに古い鏡があってそのときは少し怖かった。えも言われぬ迫力があった。
自慢の弟の名前を挙げて、巻緒は懐かしそうに天を仰ぐ。
「その鏡のイメージがこびりついているもので、肝心の旅行先がどこだったか俺は覚えていないんだ。レトロな電車に乗って四人がけの席でお弁当を食べたことくらいは覚えているんだけどね」
びっくりするほどどこの旅先でもありそうな光景だ。
高架を過ぎていった電車に乗って1回でも乗り換えればすぐにそんな場所に着くだろう。
「あとそうだ。綺麗な池があった気がする。池、水面というのもまた鏡によく似ているよね。何かが広がっていそうと言うのが特に」
通り過ぎたショーウィンドウをなんとなく花代は横目で見る。
鏡に映ったひとりの自分が横目で視線を返してくる。
「君は竜宮城を信じるかい?」
巻緒は池からの連想で話題を少し変えた。
花代は小さくため息をついてようやく答えた。
「巻緒。そうひとりでぺらぺらと話されると、なんというかとても不審者です」
「はいはい。ごめんごめん。ああ、着いたね」
巻緒が示した先には人だかりが出来ていた。
人々の視線の先は建物と建物の間だった。
路地裏。入れなくはないくらいの空間。隙間。
そこには黄色い規制線が張られ、制服警察官が直立している。
道路にはパトカーが数台。
花代は人をかき分けて規制線まで向かう。
制服警察官は花代の姿を認め、規制線を押し上げる。
後ろの人だかりが小さく疑問とともにざわめくのを無視して花代はその先に進む。
進んだ先に、黒い裂け目があった。
縦に引かれた直線から楕円状に膨らんでいるイメージ。
下部は地面についておらず、上部は花代の頭より少し上。
人一人が割って入るには十分な大きさ。
それが今日の扉だった。
その扉の前でスーツの男が花代を待っていた。
彼こそが私服警官にして永犬丸巻緒の弟、永犬丸直緒だった。
直緒は花代の姿を認めて片手を上げた。
「よう、
「こんにちは直緒さん。本日もご機嫌よろしいようで」
「嫌味か?」
直緒のしかめ面は常ににこやかな巻緒の弟にはとてもではないが見えない。
似ていない兄弟だ。
「発生は1時間以内。被害者あり。5人組の女子高生、その内3人が忽然と消えた。残された2人曰く道の真ん中になだれ込むように消えた、そうだ。この路地裏はゲーセンへの近道なんだとよ。それが消えた3人の鞄な」
裂け目の手前に無造作に並べられた5つの鞄を直緒は示す。
その鞄は花代と同じ学校の指定鞄だった。
ぶら下がっている大きめのぬいぐるみに見覚えがある。
「顔を知っている人たちだわ」
「そうか、そりゃ話が早くて助かるな」
「残りの二人は?」
「表に止めているパトカーの中で婦警が話を聞いている。だいぶ取り乱している」
「まあ、そうでしょうね」
「他に特記事項はなし。まあ、いつものかな」
「ええ、それでは早速」
花代は手を直緒に伸ばし、直緒は手に持っていた装備類を花代に手渡した。
カラビナ付きのライフジャケット。カラビナには命綱がついていて、直緒のハーネスの腰部に続いている。
手慣れた早さでライフジャケットを着、花代は裂け目に向かう。
「それでは行ってきます」
「ああ」
花代は一瞬の躊躇もなく裂け目に飛び込み、その裏側から出ることもなく消えた。
直緒は腹の底からの息を吐き、呟いた。
「巻緒、あの子を守ってやってくれ」
「分かっているよ、直緒。それは俺がやらなければいけないことさ」
兄は弟に優しく答え、花代の後を追いかけ裂け目に飛び込んだ。
扉の中には物理的距離はない。
いつでもそこは座標で言えば入ったところと同じ場所だ。
鏡が出入り口になるようなおとぎ話の鏡の国とは違う。
広がってはいるけれど現実と相対ではない。
そこをかつて巻緒は
亜空間に距離はない。そして固定された場所もない。
流動的で闇雲な世界。何も存在しないが起伏はある世界。
基本的にはそういう空間のはずだ。
主がいない限りは。
「まあいつも通りごくごく普通って感じ?」
「そうだなあ。特に尖ってもいない。個性もない。没個性でもない。こう普通」
花代の感想に巻緒も頷く。
なだらかと思えば急。
開けていると思えば乱雑。
たとえるなら熱に浮かされてみる悪夢のような無秩序な構造。
しかし恐怖はない。
それはただの慣れかもしれないが、花代はこの空間に何も感じなかった。
このような世界でも命綱には意味がある。
入り口があるならそこは出口になる。
しかし入り口はすぐに流れていき花代からは見えなくなってしまう。
しかし直緒に預けた命綱の先は存在している。
いざ花代が迷子になって困り果てたとき、花代はしゃがみ込む。そうすると今はピンと張られている命綱に変化が生じる。そうなったら直緒はこの命綱を思い切り引っ張る。
そうすれば花代は現実空間に戻ることが出来る。
命がうごめく現実世界と、無が渦巻く亜空間の橋渡し。
それが命綱の文字通りの役割だった。
花代と巻緒は空間を見渡しながら適当に歩を進める。
「何か手がかりが見つかるまではいつも通りのそぞろ歩きね」
「デートだね。デート」
「いつもみたいに不審な目で見てくる人間がいないのはいいけどデートはちょっと……」
「あはは」
「鏡は嫌いじゃなかったわ」
花代は唐突に亜空間に入る前の話題を蒸し返した。
「おお、そうかい」
「朝、起きて鏡の前で顔を洗ったら、母が髪を結ってくれるの」
「ふむふむ」
「私はその時間が好きで母とたくさん話が出来た。でもある日……中学生になった頃かしら、母がそろそろ自分で髪を結びなさいと言ってきた。だから今は普通ね」
「子の心親知らず、だねえ」
「親知らずじゃ無駄に生えている歯になってしまうわ」
「親知らずだって生きているのに無駄は可哀想だよ」
「歯って生きているであってるの……?」
花代が些細な疑問に首をかしげたその時地面が波打った。
突然ゴムを踏んづけたかのような弾性を持った床に花代は体勢を崩す。
「花代ちゃん!」
巻緒の警告の声。
遠方から何やら丸いドッジボールのようなものが飛んできていた。
「開け!」
花代は指先でボールと自分の間の空間をなぞる。
そこに手の平ほどの裂け目が現れ、飛んできた物体は裂け目の中にまっすぐに飛び込んだ。
花代が体勢を崩したことで命綱が軽く引かれる。直緒からの合図だ。
花代は二度引いて命綱の先の直緒に無事だと合図を送る。
この程度はまだ大丈夫。対処できる。問題ない。
「うわあ。花代ちゃんの
「状況に集中してください。そして人の宇空間を散らかさないでといつも言っているはずです」
宇空間。
花代と巻緒が侵入している世界が亜空間と呼ばれているのに対し、宇空間は人の中にある。その人だけの空間である。
巻緒は陳腐にも心の中の空間だと思えば良いと昔言っていた。
宇空間は意識を持つ生き物であれば誰でも所持している。宇空間は常に内側に閉じこもっているが、花代や巻緒レベルになると自在に外側に向かって開くことも出来た。
外側に開かれた宇空間は亜空間に転写される。
自分の心の世界を他者に開き、踏み入れることを許すことが出来る。
それはあまり愉快な体験ではなく、花代はよっぽどのことが起こらないかぎりそれはやらない。
ただし巻緒との間ではそれは例外である。
5年前のとある事故以降、巻緒と花代の宇空間の一部は常に繋がっている。
その事故が起こる前は花代は亜空間も宇空間も、それどころか裂け目すらも認識していなかった。しかし亜空間や宇空間に干渉する能力を持っている巻緒と宇空間を共有することにより花代は宇空間を自在に操り、裂け目を目視し、亜空間に自分の意志で出入りできるようになった。
これだけのことが出来る人間を花代は自分をのぞけば巻緒以外に知らない。
巻緒の弟である直緒も扉である裂け目を視認できるだけで亜空間に入って自己を保つことは出来ないし、宇空間の操作もできない。
亜空間の探索は花代と巻緒がやるしかないことだ。
「どうやらこの亜空間を生じさせた主はこちらに敵意があるようだねえ」
「そうじゃなかった人間を今まで見たことないんだけど……」
亜空間は普通では操れない。亜空間を操るためには自分の宇空間を亜空間に開いて転写する必要がある。
自分の心をさらけ出す必要がある。
つまり亜空間に踏み入れている花代は亜空間の主の心を土足で踏み抜いているに等しいのだ。
「どっちにしても自分で扉を閉じることも出来ない程度のずぶの素人だ。ガンガン行こうぜ。花代ちゃん」
「人がやると思って気楽に言ってくれる……行くけど」
この先に名前は知らないが顔くらいは知っているクラスメイトがいるはずなのだ。
救出のために立ち止まっている暇はない。
一個で弾切れしたのか、遠距離からの攻撃はもうない。
ただ床は相変わらず波打っている。バランスを取りづらい。
それでも進行方向は決定した。
花代は足元がぐらつくのを気にせず歩みを進める。
「ドッジボール一個を持ち込むのが精一杯の宇空間の広さ……うんうん素人だねえ」
「そうやって油断して痛い目を見るのが常でしょう……」
「そして彩りの足りない亜空間……年季も浅いと来ている」
「……」
淡々とした批評家のような巻緒の言葉を花代は聞き流す。
巻緒は敵対のための情報整理をしている。それは花代も分かっている。
それでも人の心をそういう風に評価している巻緒の様は花代にはあまり良い気分ではなかった。
しばらく行って、花代は到達した。
「……見つけた」
自分と同じ制服を着た一人の少女を花代は発見した。
顔に見覚えはある。クラスメイトだ。名前は知らない。
「あなた……」
驚いている彼女も花代の顔に見覚えがあったようだった。
「確か……変な名前の……」
「怒ったわ」
花代は断言した。
「長すぎる名前も覚えにくい名前も書きにくい名前も珍しい名前も許してきたけれど変な名前は許さないわ。それはただの悪口じゃない。あなたは敵よ。顔を覚えたから夜道には気をつけることね」
「花代ちゃんの気持ち分かるなあ」
花代と同じく長くて覚えにくくて書きにくくて珍しい名前の巻緒はうんうんと頷いた。
「……敵というのは間違いないね」
名前も知らないクラスメイトはそう言った。
次の瞬間、花代の足元に裂け目が開いた。
「花代ちゃん!」
「大丈夫! 巻緒はそのまま残り2名の探索を!」
花代の体が命綱ごと裂け目に落ちていく。
万力込めて命綱が引かれるのを感じる。
花代の世界は急激に色を変えた。
「上津役!」
直緒の怒鳴り声がする。
気付けば花代は直緒の腕の中にいた。
どうやら花代は一人で亜空間の外、現実世界に引き戻されたらしい。
「……巻緒……」
置き去りにしてしまったが、巻緒と共有する宇空間のおかげで巻緒の無事は知れる。
「上津役大丈夫か!!」
「そう怒鳴らなくても大丈夫です。直緒さん。私は大丈夫。女子高生のうち一人を発見しました」
直緒に体重を預けたまま花代はこれまでの経緯を報告する。
「そうか」
「その子が亜空間の主で間違いないと思います」
「お前と同じく、か?」
「……いいえ、私ほど年季は入っていないと思います。まだ素人ですね。誰かの……いいえ例の事故の原因であるあの人の仕込みだと思います」
例の事故。5年前に花代を普通の人間でいられなくした巻緒との宇空間融合事故。
事故自体は偶然が折り重なった結果だったが、巻緒がその事故を防げなかったのはとある人物の仕込みのせいだった。
巻緒と敵対するその人が巻緒の宇空間に攻撃を仕掛け、人間一人が生存するために必要な宇空間のほとんどを巻緒から奪い取った。
巻緒は苦肉の策でたまたまそばにいた花代の宇空間に自己の宇空間を移植した。
巻緒が今生きているのはその宇空間融合のおかげである。
「巻緒を置いてきてしまいました……もう一度戻ります」
「待て」
直緒の腕の中から立ち上がろうとした花代を直緒は命綱を引いて止めた。
「ちょ、危ないです直緒さん」
「それはこっちの台詞だ。勝算はあるのか? ないなら行かせるわけには行かない。巻緒の行動は巻緒自身に責任があるが、君の行動には我々の責任が付随する。君の身柄は我々が請け負っているのだから」
「あるって言っても信頼してくれたことないじゃないですか……」
花代はむくれる。
直緒は心配性だ。それは兄である巻緒があんな目に遭った以上仕方のないことかもしれない。
しかし花代が行く以外に方法はないのだ。
直緒には宇空間と亜空間、全部まとめて異空間と呼称される空間に干渉する能力はない。
この事態に対処できるのは巻緒と宇空間を共有する花代だけなのだ。
「……今まだ巻緒があっちにいる。勝算はそれだけじゃ駄目ですか?」
「……くそ」
「大丈夫ですよ。落ち着いてください。ちゃらんぽらんな巻緒とは違って地に足をつけるのが直緒さんのお仕事じゃないですか」
「分かっているよ。承知しているよ。頑張って自分を納得させたよ今。……行ってこい。俺は待っている。いつも通りに」
「うん。行ってきます」
亜空間に取り残され永犬丸巻緒は少女と向き合っていた。
花代は彼女の名前を覚えていなかったようだが、巻緒は覚えていた。
花代と巻緒では重視する情報が違うのだ。
少女は巻緒を不審そうに眺めていた。
「……あなたはあの子の……お兄さん?」
「外れ。ちなみにあの子の名前は上津役花代ちゃんだよ。よかったら覚えてあげてね、
「私の名前を……? あなたはどちらさま?」
「彼から聞いていないかな? 死に損ないの異空間干渉者の話」
「つまりあなたが永犬丸巻緒……そう本当にこんなことってあるんだね……」
笄は手近の空間を指でなぞった。
そこに裂け目が生じ、扉の向こうには二人の少女が気を失っていた。
彼女たちも花代たちと同じ制服を着ていた。
笄はそのままポケットからカッターナイフを取り出した。
「ここから私の亜空間から出て行って、永犬丸巻緒。それをしないなら私がこの子たちを傷付けることになるよ」
「うーん。それは出来ない相談なんだよね」
巻緒は頬をかいた。
「彼からどこまで聞いてるか知らないけど、俺の行動は花代ちゃんに紐付けされているんだ。だからその子たちを傷付けたくはないけれど、ここを去ることも出来ないんだよ」
「紐付け……?」
「上津役花代は帰ってくるということだよ」
巻緒の言葉に応えるように巻緒の胸元に裂け目が現れた。
そこから上津役花代は登場した。
「……戻ってきたんだ。上津役花代」
「あら名前。巻緒が教えたのね。別に良いのに。そしてあなたも覚えたのね。別に良いのに」
そう言うが早いが花代は空間をなぞり裂け目を作りそこに飛び込んだ。
「……」
笄は警戒する。
笄は知っている。花代が自分より異空間の扱いに慣れていることを知っている。
どこから出てきてもおかしくないと知っている。
この亜空間は笄の宇空間を拡張して作ったものだ。
本来なら笄の意のままに操れるものだ。
しかし笄にはそれは出来ない。笄は手練れの異空間干渉者ではない。
そして笄は知ってしまっている。
人の心は時に自分の心すらままならないと知っている。
「だからまあ……警戒を保身を第一にしちゃうのね……残念な子」
花代はそう言った。気を失った少女たちの隣でそう言った。
「……上津役花代」
「はい。私の任務おしまい」
花代は空間を指先でなぞる。
その先には外が見える。
花代は少女たちを頑張って持ち上げた。
「さすがに重いなあ……」
「させない……!」
「それはこちらの台詞だねえ」
巻緒が笄のカッターナイフを持ったまま振りかぶった手を後ろから止める。
「くそっ幽霊のくせに!」
「うんうん」
巻緒はニコニコと笑う。
「そうそう俺は幽霊。花代ちゃんの宇空間にかろうじて住まう人間の残滓。花代ちゃんが外で俺に話しかけたら不審な目で見られちゃう。地に足をつけることすら叶わない」
永犬丸巻緒は幽霊だ。ここに肉体はない。
花代と巻緒の宇空間が繋がった例の事故以来、彼は幽霊になって花代の傍に付き従っていた。
「でも亜空間じゃ自由自在だよ。何せ幽霊に人は干渉できないと君たち常識ある子は思ってしまうから。君は俺に干渉できない。しかし俺に常識はない。だから俺は君に干渉するよ、笄ちゃん」
「……ちくしょう」
笄は、吐き捨てた。
「そう。笄って言うのその子」
少女たち二人を亜空間の外に放り投げて念のため扉を閉じて、上津役花代はどうでも良さそうにそう言った。
「花代ちゃんは少しくらい周りの人に興味を持とうね」
「あなたみたいな幽霊に二十四時間まとわりつかれてるのよ? 他人を気にかけろなんて無理を言わないで欲しいわ」
「その点についてはごめんねと言わざる得ないねえ」
「笄……あなたも十分変な名前じゃないの。変な名前仲間ね。仲良くしましょうか? お友達いない同士」
「うるさい! 私はただ……!」
「動機とかどうでも良いの」
ぴしゃりと花代は笄の激高を制した。
「友達と仲良くしきれないことくらい誰にだってあるものね。どっか行っちゃえって思うのなんて普通のことよ。ただ私は困るのよ。あなたみたいに簡単に亜空間と宇空間を乱用されると。今この町でそれに対処できるのは私くらい何だから。あなたが友達を亜空間に閉じ込めるほどの何かを抱えているとかどうでもいいの。そんなことで私の平穏を脅かさないでちょうだい、笄さん」
上津役花代は笄の言葉を聞かずに一方的にまくし立てた。
「もう一度言いましょう。私の平穏を脅かさないで。そうでないと……この亜空間にあなたを閉じ込めなければならなくなります」
上津役花代は淡々と告げる。
「閉じ込める……そんなこと……」
「出来る。というかしないといけないの。警察の上の方、直緒さんの上司の上司のそのまた上司あたりは巻緒の生前のお知り合いで異空間の諸々についてご存じだけどそれを公表はしないと決断している。だから私は泣く泣く私刑を執行せざる得ないのよ。あなたはこの世界に何万人といる家出人の一人になって永遠にこの亜空間をさまようの」
上津役花代は笄に手を差し伸べながらそう言った。
「まるで鏡の向こう側のように、扉の向こうの世界に誰かがいる。そんなことを想像できるような年頃の子供以外にあなたの行く先なんて想像できなくなるの。さあ選んでちょうだい笄さんとやら。お友達を亜空間に封じ込めたくなるくらいかったるい現実か、ひとりで永久にさまよう寂しい非現実か。お好きな方をどうぞ」
「……」
笄は選んだ。
現実を選んだ。
花代がどう思ったかは知らないが巻緒はそれにホッとする。
花代が誰かを非現実に閉じ込めなくて済んだことにホッとする。
巻緒と花代は探している。
巻緒を幽霊にした黒幕を探している。
しかしその過程に現れるのはいつだってロクな事情も知らない普通の人間で、巻緒はそのたびに胸を痛める。
花代を巻き込んだこと。自分が限定的にしか力を持たないこと。
しかし花代は淡々とことをこなす。
痛みなどないかのように、亜空間を歩いて行く。
「……お疲れさん」
直緒が炭酸を花代に奢る。
「どうもです」
花代はそれをちびちび飲むのが好きだ。
「なんかなあ……いつも信じがたいんだよなあ……」
直緒は病床で眠り続ける兄を眺めながらぼんやりと呟く。
仕事終わりに病院で一杯のジュースを飲む。それが花代と直緒の習慣になっていた。
「ここにいるはずの巻緒が起きてるんだよな」
「いるよー」
巻緒が手を振るが、直緒には見えていない。現実空間で巻緒が見えるのは宇空間を共有する花代だけである。
「うん。今ちょうど直緒さんの頭の後ろで犬の耳を作ってる」
「ああうん。それ間違いなく巻緒だわ」
そう言って直緒は何もない背後の空間に本気で殴りかかった。
巻緒はひょいと避けてケラケラと笑った。
幽霊である巻緒に避ける必要などないのだが、巻緒が避けるのが生前からの単なるクセなのか弟へのせめてもの真摯な振る舞いなのか、花代には分からない。
「ったくシリアス丸潰す兄だぜ……」
「いつもありがとうね、直緒さん」
「何だ急に」
「別になんとなく」
「ふうん? なんか良いことでもあったのか?」
「この私にお友達が出来たわ。変な名前同盟よ」
「そいつは何より」
直緒は嬉しそうに笑ってくれた。
花代も少しだけ笑った。
上津役花代は心を開く 狭倉朏 @Hazakura_Mikaduki
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