第3話
無駄な思考はそこそこに、データを遡って五年前の彼に会いに行く。
僕が観察院――正確には、国際指定観察対象等保護院という――に向かった日は、何の変哲もない晴れた八月のことだった。
四月の健康診断で特殊な数値を叩きだしたらしく、後日さらに詳しい検査に呼ばれた。その結果、あなたは完全変態する人間だと伝えられ、蛹になるタイミングで入院してもらうことになるからと一方的に告げられた。そのメッセージはひどく威圧的で、実際に強制力があった。
他言無用だと言われ、唐突にフィクションの世界が現実に浸食してきたような不安さを一人で抱えた。悲しいわけでも、辛いわけでもない。そもそも、人間が蛹になるなんて聞いたことがない。自分でも到底信じられないような情報に振り回され、世界中のどこにも自分の居場所がないような心地だった。
「何か悩んでることあるでしょ」
そう決めつけるように言うのは菫君で、いつだって僕のことを一番良く理解してくれた。彼の胸辺りまでしか身長のない僕を覗き込み、心配そうな表情を浮かべていた。別に何もないよと素っ気なくあしらえば、引き下がってはくれるものの、曇った顔が晴れることはなかった。
そうして迎えた八月のある日、僕は指示通りひっそりと、菫君にも家族にも黙って家を出た。個体によって蛹の期間にばらつきがあるから入院期間は分からない、と予め言われていた。終わったら元の生活に戻っても良いし、新天地での生活を希望するなら資金は負担してくれるとのことだった。
駅前には、遊び心など母親の胎内に置いてきたと言わんばかりに武骨な転送ボックスが迎えに来ていた。真四角な形状は公衆電話ボックスを参考に作られたという話を聞いたことがあるが、真偽の程は定かではない。不透明度0パーセント、#FFFFFFFFFFFFの真っ白な物体は、どう頑張ったって雑多で無秩序な背景には馴染まない。周囲から浮いてしまっている箱の境遇に、少しだけ親近感が湧いた。
IDを認識した転送ボックスは、僕を内側へ招き入れる。管理者権限により、行き先の住所が表示されることはなかった。もちろん想定の範囲内だ。当たり前すぎて、わざとでなければ溜め息さえもでてこない。
さっさと済ませようと目を瞑ったが、一向に転送が開始される気配がない。それどころかボックスそのものが移動しているような振動が伝わってくる。それでは転送ボックスではなく、ただの移動ボックス――電車や飛行機、自動車――と何も変わらない。慌てて目を開けたが、不透明な壁に阻まれ、外の様子を窺うことはできない。
僕にとっては波乱万丈な非日常の始まりだったが、菫君にとっては友人が神隠しにでもあったとしか考えられない姿の消し方をしたことになる。
私が観察院に行ってから数日後、彼が私の家を訪れる。僕の不在を告げられ、目を丸くして驚いているのが分かった。ちょっとレアな表情だったので、実際に見てみたかったと思う。でもこれは、学校を休んだ日に、透明人間になって学校に行きたくなるのと同じだ。自分のいない世界は、絶対に自分が覗けないから。
「どこにいるかも分からないんですか?」
柔らかに伸びる語尾でも隠し切れない程度には、菫君は苛ついていた。彼のそんな姿は初めて見た。それが心の中で優越感となって芽吹いていく。
彼の心の中で、僕はどれくらいの位置にいるのだろうか、どれくらいの面積を占拠しているのだろうか。傲慢にすぎて、甘えがすぎて、嫌になる。なんて僕は自分勝手なのだろう。浮かんだ感情を頭を振って、払い飛ばしてしまいたい。いけないことだって分かっているの。でも、そう思うのを止められない。
ごめんなさい。
不適切な感情を抱いた者は、いつ、誰から、罰してもらえるのだろうか。これは誰に対する罪なのか。
その後、片っ端から興信所や探偵に、僕の行方を探すように依頼した痕跡が見えた。その執着たるや、僕の両親の比ではなかった。
変態が終わって、私が僕として生きると決めていたとしたら、その間の架空の設定を覚えなくてはいけなかったのだが、生憎そんな機会は訪れなかった。だから私は、どんな設定になっていたのかは知らない。そして、彼だけは、観察院が送った偽のデータを信じていなかったことが分かった。
私は彼と話がしたいと思った。
蛹《さなぎ》 六重窓 @muemado0
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