第2話

 トイレの個室で踊り狂っているときと、湯船に顔を突っ込んで沈溺の真似事をしているときが、一番考えをまとめるのに適しているということは、広く知られている。

 私は帰宅して早々に、窓のない浴室へと向かった。当然、湯は張っていない。浴槽に素早く入り、ゆっくりと頭から自分を溶かしていく。一度、酷く疲れた状態でこの作業をしたとき、どこまでが液体でどこまでが固体なのかが分からなくなり、溶かし残しができてしまったことがあった。この非常に集中力を必要とする工程を、私としてはさっさと短時間で終わらせてしまいたい。効率とバランスを重視して上から溶かすが、髪の毛や頭蓋骨や脳だった液体が自分の頬を伝っていく感覚はあまり気持ちのよいものとは言えない。それにどれほど専心しようとしたって、私が滴り落ちることと、私に滴り落ちられることとは矛盾するし、それにより生まれる不快感で注意力は散漫になりがちだ。

「ふぅ……」

 そういう訳で、液体になりきった後の達成感はかなり大きい。液体でいるときが一番楽で、ずっと液体でいたいとさえ思う。それに固体でいるときはかなり圧縮しているので、浴槽いっぱいに広がれてとても開放的に感じるのだ。

 落ち着いたところで、あの男にどんな態度を取るべきかという目下の課題が浮上してくる。

 蛹になるのを契機に別れ、以来一度も会っていない。本当は変態が終わったら会おうと思っていた。しかし、自分がこんな仕上がりになるとは思っていなかったので、絶対に会うまいと心を変えた。

 私を作った設計者なるものがいたとすれば、その人はよほど私のことを理解していなかったらしい。だって、少年だったのに女性に生まれるとは思わないじゃないか。もちろん蛹になって全てがどろどろに溶けてしまうのだから、性別が変わる人もいた。ただ、自分がそうなるとは夢にも思わなかっただけで。

 ぶくぶくと自分の中を沈みながら考える。これだけの液体の中で考えるという機能を担っているのはごく一部らしく、どうやら私はそこを指して私と呼んでいるらしかった。

 それが恋愛感情だったのかについては断言できないが、少年だった頃の私は、彼に好かれていたと思う。可愛いと抱き上げられ、綺麗だねと手を取られることなど日常茶飯事だった。息苦しいほどに見つめられて、擽ったさから止めてよと身を捩る日常に安堵していた。それが、年下の友人に向けるには過ぎた感情だったと思っていたし、だからこそ漠然と彼へ好意を向けていた。僕は、彼のようになりたかった。

 彼に教えられた ID にアクセスする。この個人識別番号には、名前、生年月日、住所、買い物や移動の履歴、血圧や心拍数の計測値など、様々なデータが紐付けされている。とはいえ、一人の人間が今までどう生きてきたか、なんてことが仔細に分かる情報量はあまりにも多すぎて、普通の人間には解析できない。しかし、凝固と融解を繰り返し、その度に脳内の神経回路を弄ってネットワークを編み直しているので、私は自分で ID を読むことができる。

 三橋 すみれ、三十歳。大手製薬会社の社員らしい。先程、駅で声を掛けてきた青年と寸分違わぬ人影が、ディスプレイ越しに笑いかける。偽物の癖に似ていて腹が立つ、そんな理不尽な感情が沸き立つ。舌打ちしようと試み、今の自分に舌がないことに思い至る。仕方ないので、ぽちゃんと水面を揺らして手を打つことにした。

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