蛹《さなぎ》
六重窓
第1話
「すみません、どこかでお会いしたことありませんか」
金曜、夜十時。かつて使い古され、今となっては珍しさを感じる誘い文句。
複数の鉄道会社の路線が乗り入れるこの駅は、拡張のための工事をここ何年も続けている。おかげで利用者は週単位で変わる迂回路を歩かねばならず、結果として繁華街を突っ切るルートを指定されることもままある。つまり、私がここを通ったのは帰宅途中だったというだけで、喧しく騒ぎ立てる酔っ払いの集団とも、押しの強いキャッチとも全然関わる予定はなかった。
咄嗟に俯いて足早に改札を目指す。無視。走ったら追われる、という可能性は僅かにあったし、数度だが経験がある。だから私はできる限り平静を装って、その場から立ち去ろうとした。まるで、森でクマと遭遇したときの対処法みたいだけれど。
「ナンパとかじゃないんです。本当に会ったことありませんか?」
しつこい。来る者拒まず、去る者追わずみたいなスタンスでいないと、疲れて仕方がないんじゃないかと思うのに、面倒くさいことになってしまっている。通行人に手当たり次第声をかけられる鋼のメンタルの持ち主ともなると、その精神構造は理解の範疇を飛び越える。
「突然ごめんなさい。でもあまりに知り合いに似ていたから」
言葉は尚も追い縋る。周囲の音が徐々に遠のき、煙草の落ちたアスファルトを叩く自分の足音と、待って待ってとリズムよく着いて来る足音ばかり聞こえるようになる。そもそも、顔は一度も上げていないのだ。似ているか、なんて分かるはずがない。
「それ、僕の ID です。連絡ください」
押し付けられたのは、今時珍しいプラスチックのカードだ。物に規則的な傷を付け、その数と並びを指先などで読み取る、という随分前に流行った加工が施してある。この番号は、本当に個人識別番号だ。個人情報の一本化は進み、この番号に生活――人生と言っても良いかもしれない――が集約されている。そんな大切なものを初対面の人間にひょいと気軽に渡すなんて正気の沙汰とは思えない。
「君、何を」
しているんだ、と問い詰める言葉は喉の奥に引っ込んで出てこなかった。顔を上げた先に立っていた、穏やかな笑みを湛えた人に見覚えがある。五年の歳月を経ても彼は何も変わっていなかった。いや、それが普通なのだ。普通の人は五年や十年でそう変わらない。
「怖がらせてごめんなさい。それじゃ、また」
呼び止める間もなく去ってくれて、内心ほっとしていた。知らない振りを続けるべきか、咄嗟に判断できなかったから。それくらいには、この邂逅に動揺していた。
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