牧村と秘密の部屋

「ね、ちょっと」

 牧村があたしを廊下で呼び止めた。

「何?」

「体育館の地下倉庫にある荷物を運ぶの頼まれたの。手伝ってくれない?」

「やだよ。あたし、もう帰るし」

「お願い」

「優等生仲間に頼めばいいだろ」

「お礼くらいするわ。コーラなんてどう? 先渡しで。——今日は暑いわね」

 確かに暑かった。コーラの一言で喉が渇いていることにも気づいてしまった、とCMに出てきそうな青い空が窓の外にあった。

「しょうがねーなー。付き合ってやるよ」

 嫌々という体で食堂に寄り、喉を潤す。一服して向かったのは体育館の地下倉庫だった。

「で、どれ、運ぶの?」

 鉄のスライドドアを抜けたところで牧村を振り返る。ところが返答はなく、がらがらがっしゃーんと引き戸が閉じられた。キーを使って内鍵まで締めていた。

「なんで閉めんだ?」

 牧村は私の問いには答えずガチャガチャ——カプセルトイのケースのような丸い容器に鍵をしまっていた。

「おーい。何して」

 あたしの裡にむくむくと警戒心が湧く。牧村は手にしたカプセルを何かの機材から生えているパイプの中に放り込んでいた。

「……えーと、牧村さん?」

 牧村はいかにも作りましたという笑顔を見せる。

「たった今、この部屋はおしっこしないと出られない部屋になりました」

「はあっ?」

「だから『おしっこしないと出られない部屋』」

「……あんたの言うことはいつもよくわからないけど、今日は格別だなっ」

「そこの、カプセルに入った鍵を投げ込んだ筒に——」

「おいっ。ひとの言うことを聞けよっ」

「——液体を注いでカプセルを浮かび上がらせなければ」

「だから聞けって」

「この体育倉庫の扉は開きません」

「…………」

「ちなみにこの倉庫にある液体は私たちの体液だけです」

「もう一度訊くけどなんの部屋だって?」

「おしっこをしないと出られない部屋」

 SNSで前に見た『セックスしないと出られない部屋』の出来の悪いパロディらしく、しかも、口にしている当人がセッティングした気配が濃厚であるこの事態にキレてはいけない理由がひとつも見つからなかった。

「……おしっこ?」

「おしっこ」

「なんでてめーはお上品な面してそんなクソ小学生ワードみたいなのをぽんぽん口にしやがるっ」

 あたしも他人のことは言えないけど。

「でも、事実よ」

「はあ?」

「内鍵を入れたカプセルはそこの円筒の中に放り込みました。上からでは取り出すことはできません。円筒も工具がないと外せないと思うわ。で、そこに約四〇〇㏄の液体を注げばカプセルが浮き上がってきて手にすることができるの」

「待て待て待て。お手盛り感満点じゃねーの」

「ちなみにカプセル内の鍵なしではこのドアは開きません。ここから叫んでも今日の放課後は体育館の使用予定はなく誰にも声は届かないでしょう。ちな、スマホの電波も届かないわ。週明けまで耐えられるかしら。——アルキメデスの法則を試すべき時ね」

「どうせどっかにもうひとつ鍵を隠してるんだろ? ひん剥いて調べてやろうか」

「まあ。思ったより積極的。念入りに調べてもらってもいいのよ」

 スカートの裾を持ち上げる仕草を見せられたけれど刑務所の異物検査のような真似をさせられるのはごめんだった。

「そう? だとすると、私自身でもここから出る方法は“おしっこ”しか思いつけないわ。ちなみに尿の量は平均二〇〇㏄。私たちが力を合わせなければカプセルの中の鍵は取り戻せないの」

「ばかだろおまえ。こんなパイプにおしっこなんてできるかっての」

 心配いらないわ、という言葉とともに物陰から出てきたのは大きめの計量ビーカーだった。確かにこれならこぼさずにできるかもしれない。

 ——じゃなくて!

 あたしはコンクリの床を踏みしめる。

「なんであたしがあんたの作ったくそルールに従っておしっこでアルキメデスとやらをしなきゃならねーんだよっ」

「ルールに従わずに飢えて垂れ流しながら誰かが扉を開けに来るのを待ってもいいかもしれないわね。でもたぶん誰かが来るのは三連休明け」

「まじ、ばかっじゃねえの!」

「おしっこルールに沿わず、血管を掻き切ってパイプを血で満たしてもいいかもね。四〇〇㏄なら死なないでしょうし」

 牧村が自分の首を搔き切るゼスチャーをしてみせる。ギャング出身のラッパーかyoyoyo。

「んな怖ぇことできるかっ!」

「あなたがやれと命じてくれれば私は自分で血管くらい切るわよ。安全ピンくらいしかないけれどどうにかなるでしょう」

 あっさりとした言葉に背筋が冷えた。こいつのこれまでの行動からするとまともな神経をしていてはできないことも平然とやってしまいそうな気がした。

 そんなことより、と牧村が天使の笑みを見せる。

「そろそろコーラの利尿効果が出てくる頃合いじゃないかしら」

「妙に気前が良かったのはそれかよっ」

 あたしはスマホを覗く。牧村の言った通り電波は届いていなかった。代わりにBluetoothのテザリングが拾えることに気づいた。近くに端末を持った誰かがいるらしい、と試してみる。

 牧村の方から通知音が聞こえた。

「あら、繋がりたい?」

 牧村がスマホを振ってみせる。もちろん、絶対に嫌だ。

 倉庫の中を見回すと天井にパイプが走っているのが目にとまる。電気配線と……スプリンクラーの配管ではないだろうか。あたしの視線を追った牧村がいかにも用意していたように応じる。

「試してみる? 確か先週、スプリンクラーの漏水騒ぎがあって補修工事がまだだった気がするのだけれど」

「くっそ。なんでおしっこなんだよっ」

「『セックスしないと出られない部屋』でも良かったのだけれど、そんな部屋どうすれば作れるのかわからなかったんだもの」

「そもそもなんで『出られない部屋』やんなきゃいけないんだ」

「いけないってことはないけど、でももう物理的にクリアしないと出られないわ。そもそも誰かが監視してて合否の判定をするとかつまらないもの。ルールが全て。『cubeキューブ』こそ至高の密室」

 ミステリ映画マニアみたいなことを言い出した。

「『cube』と違って数学の天才いねーだろっ!」

「このパイプに水を注いでカプセルが浮き上がるのはちゃんと試したわよ」

「その万端な準備で別の脱出手段も用意してあるんじゃねーの」

「おしっこで出られるのが確実なのにそんなもの用意しないわ」

 確かに何時間か待てば牧村一人でもドアは開くだろう。さっき飲んだペットボトル飲料は五〇〇ccだ。

「あたしはそんなとこにおしっこしたくねー」

「見られるのが嫌なの? 目をつぶっていてもいいけど」

「あんたは飲むとか言い出しかねねーからヤなんだよ」

 牧村が、ぽん、と手を打ち合わせる。

「やめろっ。『その手があったか』みたいなの」

じかに口をつけて飲めば誰からも見えないわ」

「頭腐ってんのかっ、てめーはっ! アルキメデスはどーした」

「取った水分はいずれ出てくるもの」

「そもそもなんでリアル脱出ゲームなんだよ」

「聞きたい?」

「聞きたくないけど聞かないと気が済まない」

「一緒の時間を過ごしたかったの」

「なっ、何をしおらしいことを言ってやがんだっ」

 虚を突かれたせいかあたしの頬に血がのぼる。うっかり耳まで熱くなってしまった。

「尿意に耐える時間は二つの心が一つになって」

「おいっ」

「堪えきれずに漏れ始めた尿にあなたの顔が羞恥と屈辱で染まるのを見つめながら」

「勝手に漏らしたことにするなっ」

「私はその湯気の立つ液体を浴びてあなたの体温を感じ、あなたの匂いに染まるの」

「正気か……」

「同感だけれど、ボトルキャップチャレンジで浴びたあの体験で何かが目覚めた気がするわ」

 見事にあたしに責任がなすりつけられた。

「あんたは元々まともじゃなかったろ。タピオカをストロー越しに送り込んできた時点で終わってる」

「そう言いながらもずっと絡んできてくれるのは誰?」

 あたしです。はい。

香水も、使ってくれてるのでしょう?」

 黙秘。絶対黙秘。完全黙秘。

「あなたも手遅れなんだわ」

「なんでそうなるっ」

「今回だって結局、おしっこすることになるって内心で諦めてるくせに」

 そんなことはない。たぶん。

「必要なのはきっかけよね。それとも私がいると緊張して出ない?」

「あたりまえだろっ。女子は普通、人目のあるところでおしっこしない」

「挿管する? 尿意と関係なしに出るわよ」

 牧村のポケットから封をされたビニールチューブがさらりと現れる。金魚鉢のぶくぶく用に見えなくもなかったけど尿道カテーテルというやつのような気がした。

「そんなもん挿したらあんたの尿まであたしの膀胱に送り込まれそう」

 口にしてからしまったと思ったけれど手遅れで、牧村はまたまた感心したように手を打ち、しげしげとあたしを見つめる。

「どうしてそんなこと思いつくの? あなた、天才だわ」

「てめーがろくでもないこと散々しかけてきたからだろうが」

「同じおしっこのプールで泳いだ仲だものね」

「だぁっ、やめろっ」

「出会いからして運命的だった」

「は?」

「幼稚園の頃」

「唐突な昔話だなっ」

「あなたは友達の口に虫を詰める遊びに夢中だった」

「覚えてねえよっ。てか、あんた同じ幼稚園だったのか」

「虫を頬張っていたのが私」

「まじか……。その、ごめん」

「オオスカシバの芋虫は思いの外美味しかったわ。小粒の蟻も。——小二のあなたは幼気いたいけな美少女で」

「あんたが言うと通報ものな気がしてくる」

「原因は忘れてしまったけれど泣いている私の涙を舐めて『甘い』って言ったわ。女の子の涙は空色のドロップなんですって」

「え……」

 うっすらと記憶がよみがえる。たしかそんな漫画があって気に入っていた時期があったかもしれない。

「目玉まで舐められたの」

 まじかあたし。

「中一では隣のクラスだったでしょう」

「そう……だっけ」

「水泳の授業が一緒で泳ぐのが得意そうで羨ましくて」

 何かいい話っぽい?

「あなたから溶け出した汁に触れたくて近づいたら」

「……おい」

「足の間で水が陽炎みたいに揺らめいて黄色く見えたわ」

 中学の時の話はしっかり記憶に残っていた。誰かに気づかれていたとは思わなかったけど。

「潜って目の前で観察したくて、初めて水の中で目を開けることができたわ。あなたのおかげ」

 そんな感謝、少しも嬉しくねー。

「この高校に来て新入生代表の挨拶の前に」

「まだあんのかよっ」

「お手洗いの個室で挨拶が暗記できているか確かめていたら」

 また嫌な記憶を掘り起こされそうな予感がした。

「『いっこ、にこ、さんこ、しっこ』って歌いながら隣の個室に入ってきた子がいて」

 その歌には覚えがあった。おばあちゃんががきんちょのあたしを寝かしつける前によく歌っていた。今でもぜんぶそらで歌えてしまう。

「おしっこの水音でリズムまで取って伴奏していて」

「――器用な子だな」

 音姫使えよ、とツッコミたい。

「声を聞いただけでわかったわ。あなただって」

 そんなオチだろうって想像はついてた。

「まじで幼稚園からの腐れ縁だったっけ?」

「あなたは覚えていないでしょうね。そんなことよりそろそろ尿意がこらえ切れなくなってきた頃合いではなくて?」

「思い出させるなっ」

 牧村の細い指が倉庫の一角を指す。骨組みにカーテンをぶら下げただけの簡易更衣室のようなものが置かれていた。服屋さんの更衣スペースみたいなやつだ。

「意地を張らずにこれを使えば?」

 牧村が手にしたプラビーカーを振って見せる。

「んなもん使えるかっ」

「そう? じゃあ、私から見本を見せたらあなたも協力してくれる?」

「一応訊いてみるけど、パイプに注いだその——おしっこはどうなるんだ?」

 訊いてしまった瞬間にあたしは敗北を自覚する。尿意はもうかなり逼迫していて牧村の言う通りきっかけが欲しくなっていた。

「一番下に穿ってあるネジを緩めると流れ出るから、後で水を流せば掃除できるわ」

 床には排水溝が刻まれていた。

「お前は平気なのかよ」

「生もんじゃを浴びるのに比べればどうということないもの。じゃあ、先に済ませるわね」

 きっとあたしはもうもんじゃ焼きを食べる気にはなれないだろう。牧村はなぜか閉められるカーテンも閉めず更衣室で用を足し始めた。とても見ていられなくてあたしはそっぽを向いて耳を塞いだけど。

 使用済みのプラビーカーを渡された。中身の第一陣はすでにパイプに注がれた後らしい。うっかり臭いを確認してしまったあたしは相当毒されているのかもしれないとうんざりする。

「……見るなよ。ぜってー見るな。聞くな。近づくな」

 首にかけていたポータブル・ヘッドホンを牧村に被せ、大音量の曲を流して倉庫の反対の隅に立たせる。更衣室の様子を検めると手早く済ませる。ご丁寧にティッシュとゴミ袋が片隅にぶら下がっていた。

 牧村に指示されるままにビーカーの中身をパイプに注ぎ、アルキメデスのなんとかの通り鍵入りのカプセルは見事に浮かんできた。あっけなく鉄扉は開き、あたしはデッキブラシとバケツを取りに出る。

 ——また、いいようにあしらわれてしまった……。


 週が明けて登校した朝の教室では牧村がイヤホンで何かを聴いていた。あたしの姿を認めたやつが嫌な予感を抱かせる笑みを向けてくる。

「おはよ。——何、聴いてるんだそれ」

 前にもあったパターンに警戒しながら尋ねるとイヤホンの片側が差し出されてきた。再生されていたのは音楽ではなく雑音だらけの環境音らしいものだった。

 ——?

 がさごそという物音に続いてあたしの声が文句を呟き出した。続いてカーテンの引かれる音と衣擦れが鳴り——。

「ちょっ! いつの間に録ってたんだよっ」

「試着室のすのこの下?みたいな?」

「消せっ。今すぐ消せ!」

「い、や。——ちょっと。無理に取り上げてもうちに元データがあるわよ」

「ぐ」

「大丈夫。私だけの宝物にするから」

「それのどこが大丈夫なんだよっ」

「二人だけの秘密」

 そう言った牧村は本当に嬉しそうで、あたしは小さい頃にこの笑顔を見たことがあるような気がしてきた。優等生顔で振りまかれる芸能人のような笑顔よりもずっと――。

 ——いやいやいや。騙されるなあたし。

 こいつのやっていることは変質者と同じだ。

 ふと、机の上に広げられていた牧村の小物入れに視線が留まる。目薬くらいの大きさでガラス製らしい――霧吹きしないタイプの香水瓶に薄黄色の液体が入っていた。

「一応訊いてみるけど、なんだこれ」

「目敏いのね。二人の初めての共同作業の記ね……」

 有無を言わさずに取り上げる。あん、とわざとらしい嬌声が上がった。

「焦らなくてもあなたの分も用意したのに」

 ねっとりとした口調とともに鞄の中から水色のセロファンでラッピングされた香水瓶が現れた。あたしはそっちも没収する。

「もう。欲張りさんね」

「……これもあんたんちにストックがあるってんじゃねーだろーな」

「なぜわかるの?」

「あたしだって学習するんだよっ!」

「香りを楽しむだけにしてね。防腐剤が入れてあるから飲食には適さないわ」

「誰が嗅ぐかっ!」

「香水にはしばしばスカトールやインドールっていう――」

「あんたのクソ蘊蓄なんて聞きたくねぇっ」

「その駄洒落はちょっとどうかと思うわ」

「っ~~~」

 あたしは一度こいつの家に押しかけてろくでもない収集品を洗いざらい回収してくるべきなのかもしれない。

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タピオカの弾丸は撃ち抜けない 藤あさや @touasa

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