第4話 トーア・ロード

神戸で観光に来られた人なら、今やファッションタウンとなった、旧居留地に行かれるであろう。その大丸百貨店の東口から真っすぐに延びた坂がトーア・ロードである。

大丸の斜め向かいに小さな神社がある『神戸事件』で有名な三ノ宮神社である。円形のグリーンのアーチにTOR ROADと書いてあるからすぐわかる。足に自信ある方ならこの坂を上まで登って見て欲しい。坂の街神戸が満喫できることを受けあう。


わたしの『神戸ラムネ物語』から、


北謙三の生家は、神戸はトーア・ロードにあった。謙三の父はそこで紳士服のテーラーの店をやっていた。父の誂は、戦前は会社の重役相手の高級なものであったが、遊び着として千鳥格子の上下に、黒のフラノのベストを組み合わせた三つ揃いをよく客に勧めていた。

 空襲で幸い家は焼けず、手持ちの生地も残り、戦争直後のこんな時期に背広の誂などは「ない」と思っていたが、要る人には要るのであって、噂を聞いて大阪方面からの客もあり、父の店は忙しかったのであった。無地の生地の要望が中心だったが、品薄で、千鳥格子やグレンチェックの柄物の生地なら都合がついて、苦肉の策が、父の三つ揃いになったのだった。又、これが話題になり、わざわざ客の方から指定してくるようになった。


 店はトーア・ロードの山側にあり、当時はメリケン波止場が見えた。トーア・ロードは浜側にある大丸百貨店から北野町まで真っ直ぐ伸びる坂道である。『トア・ロード』の名前の由来は諸説あるらしいが、謙三が本当のように思えて好きなのが、この坂を登りつめた所の右側に、赤い円錐屋根をつけ、蔦の塔を四隅に配し洒落た『トア・ホテル』に由来しているという説だ。その「トア・ホテル」は戦災で焼失して今はない。その跡地にできているのが神戸外国人倶楽部である。「トア」とは「東亞」であり、呼びづらいのか神戸の人たちは「トーア」と呼んだ。三宮神社*横、大丸東角の通りの入口を表示するアーケードのサインには『TOR・ROAD』と書かれてある。大丸のすぐ下は海岸通りで、メリケン波止場があった。震災後は一部埋められ、メリケンパークとなっている。


 浜側から上ると三宮、北長狭、下山手、中山手、山本、北野と実に6つの通りを縦断している。母と大丸まで買い物に行くのは良かったが、帰りは荷物を持たされて、フーフー云って坂を登らねばならなかった。夏などは、来たお客も暫くは扇風機の前で顔を拭きながら汗を入れた。

 そんな時、母が「暑かったでっしゃろぅ」と出したのが、サイダーだった。家は洋服店といっても紳士物の誂であったが、母はいつも和服であった。謙三が学校を終え、帰宅するのを待って、母は毎日のように浜側に買い物に出かけた。山側の北野町には市場がなく、今のような電気冷蔵庫もなかった。

 浜側には、大丸百貨店、元町商店街、中華街、三宮市場とあった。母は心臓が少し弱く、謙三は荷物持ちであった。毎日となると、遊びに誘われていても、遅れてしか参加出来なかったので少し不満であった。


 一つの楽しみが、途中でラムネを買って貰って、母と一緒に飲むことだった。

途中に小さな果物屋があり、店先で売っていた。その店は『Fruit』と英語の看板しかなく、『ラムネあります』と書かれた旗は日本語で、謙三は「変なの」と思っていた。

 店をやっているのはミセス・ブラウンとかいう未亡人のアメリカ人であった。あまり流暢でない日本語で「おおきに」というのが、謙三には可笑しく笑えた。実際に笑って、母にえらく怒られたことがあった。

 その店には謙三と同じぐらいの女の子がいたが、アメリカンスクールに通っているとかで学校は一緒でなかった。金髪で、青い目で、「まるで、お人形さんやなぁ~」と思ったものである。近所の子等とは遊ばず、いつも店の奥の椅子に座っていた。


謙三はラムネを飲む時は海の方を向いて飲んだ。この店の前から振り返った黄昏の神戸港は、西日にシルエットを浮き立たせたマストの林立が見え、ため息が出るほど見惚れてしまう一時があったのだ。

 今、この通りに面した家々は、中国人の商社や、輸出向きの陶磁器や織物の店、外国製の酒類やココア、コーヒー、バター等々の品物を売る店があるかと思うと、オーダールームの洋装店、婦人ものの帽子店が、舶来レースの専門店があり、センター街と違う趣で在る。そのウインドウを一つ一つ見ながら歩くと、見飽きることはない。

 母と歩いた頃はこんなに店はなかった。褐色の肌の船員が2、3人連れで坂を登っていく、お洒落な日陰帽子を被った母と娘が楽しげに坂を下ってくる、行き交う人を見るのもまた楽しい。かなり上がって来たら、右側にアンティークな家具を扱う店がある。その向かいが父の店であった。

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神戸坂物語 北風 嵐 @masaru2355

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