葬花差ーそうかざしー
月庭一花
1
きれいはきたない。
きたないはきれい。
窓の外が一瞬白い光に包まれ、そして耳を聾するほどの轟音が、礼法室に響き渡る。まるで魂を刈り取る鎌のように。
季節外れの嵐だった。
近くに落ちた雷の音に驚いたわたしは、手元が狂って、鋏で自分の指を深く切ってしまっていた。すぐに切花の茎が血で真っ赤に染まった。ぽたり、ぽたりと、赤い血が、切花を伝って畳の上にまで落ちていく。
隣で耳を塞いでいた先輩もすぐにそれに気づき、
わたしは指先をぎゅうと握りしめて、
「大丈夫です。ちょっと切っちゃっただけなので」
なんて言い訳してみたのだけれど。
そんな嘘はもちろん通用するわけもなく。わたしの怪我はすぐに露見して、部活の途中で家に帰されることになった。
保健室の先生はわたしの傷口を見て、ここでは簡単な処置しかできないから、早くお医者さんに診てもらったほうがいいわ。と言った。
先生が家に電話をするというのを断って、わたしはひとり、家路に着いた。
どうせ両親は共働きで家にいないのだし、祖母は……わたしがわからないのだから。誰もわたしのことなんて、迎えに来てはくれないのだから。
きれいはきたない。
きたないはきれい。
五月の雨は、もっと穏やかに降るものだと思っていた。
せっかくの部活の日なのに。遅く帰っても、許される日なのに。
指先が心臓の鼓動に合わせて、ずきずきと痛む。空を見上げると、低いところを流れる雲が、渦を巻くように目まぐるしく形を変えながら、わたしの頭上を後方に向かって流れていく。ばらばらと硬い粒の雨が手にした傘を、わたし自身を打擲する。
わたしはやれやれと思い、小さなため息をついた。
稲妻が再び空を引き裂く。皆が足早に道を急いでいく。駆けていく。わたしを追い抜かしていく。それを見つめるわたしの足取りは重い。濡れたスカートが足に絡み付いて、気持ちが悪い。
不意に誰かに呼ばれた気がしてふと足を止めた。辺りを見回すと、三羽のカラスが電線に並んで雨に濡れながら、じっとわたしを見下ろしていた。わたしは、確かに彼女たちの視線を感じていた。わたしが見返していることを彼女らも知っているように思えた。
一羽が鋭く鳴いた。
その声は学校で聞いた雷よりも、わたしの心を引き裂いた。わたしは再び歩き出し、そして……おととい言われたことを思い出して、少し、忸怩たる思いがこみ上げてきたのであった。
前回の、部活のときのこと。
顧問の志賀先生はわたしの活けた花を見て、
「これはまた、なんともつまらない花だね」
と呟かれた。先生の枯れ枝のような指が、すっと花を撫でた。
「どうしてだかわかるかな」
「いえ」
「……まあ、考えなさい」
それきり、先生はわたしの花には目もくれなかった。
きれいはきたない。
きたないはきれい。
家の玄関を開けると、部屋の奥から饐えたような匂いが漂ってくる。ひそひそと、誰かが何か話をしている気配がする。わたしは無意識に眉をひそめながら、乱暴に玄関のドアを閉めた。
二階の自室に入って扉を閉め、ベッドの上に鞄を放り投げる。濡れた制服をハンガーにかけ、タオルを当てる。トレーナーに着替える。再び階下に降りていく。リビングの外の庭には、色とりどりの花が咲いている。それらはすべて、祖母が管理していたものだ。
奥座敷に住まう祖母の様子を見に行くと、彼女は汚してしまったゆかたのまま、畳の上に座って、ぼんやりと船箪笥の中を見つめていた。鋲の打たれた戸が開いていて、そこに、祖母が大切にしている美しい人形がいる。
長い黒髪と、切れ長の瞳。白い肌。小さな唇にひかれた深紅のべに。萌黄色の正絹をまとった無機質のそれは、まるで生きているように、暗がりの中にましましている。
わたしは、祖母の目の前に立ち、船箪笥の扉をぱたんと閉めた。
「……浅茅」
「おばあちゃん、人形もいいけれど、服、汚しちゃったんでしょう? 全部取り替えてあげるから、すぐにゆかたを脱いでちょうだい」
家にいるあいだ、祖母の介護はわたしの仕事だ。父も母も、外の仕事を理由にして、遅くまで家に帰ってこないから。だから、わたしがやるしかないのだ。祖母は更衣やおむつの取り換えを嫌がりはしないし、暴れたりもしないのだけれど。ついつい、わたしの手は、乱暴になってしまう。どうして、わたしがこんなことをしなくちゃいけないんだろうと思うと、祖母に対する憎しみばかりが募っていく。早く死ねばいいのに、と。思ってしまう。
きれいはきたない。
きたないはきれい。
家族で食べる分とは別に、おかゆとやわらかく煮た夕食を用意する。この手間も本当は面倒だった。お盆を持ち、祖母の部屋のふすまを開けようとして、ふと、気づく。
……いつものあの嫌な匂いが、年をとった人間の匂いが、しない。代わりにわたしの鼻が感じ取ったのは、幽かに甘い、蘭に似た花の匂いだった。
「おばあちゃん? 入るよ?」
おそるおそる、臥所のふすまを開ける。
……けれど、そこに横たわって目をつむっているのは、萌黄色の正絹を纏った、妙齢の、とても綺麗な女のひとだった。
一瞬息を呑み、この女性は一体誰だろう、と思ったが、よくよく見てみると、彼女をいつか、どこかで見たことがある気がするのだった。わたしは自分の胸に手を当てながら、ゆっくりと部屋の中に入り、眠る女の顔を、真上から見つめた。
そして、はっとする。心臓を撃ち抜かれたように体の芯がしびれる。そうだ。まさしくそうだ。彼女は、あの人形に似ているのだ。人形そのものなのだ。
わたしはまろびながら、慌てて船箪笥の扉を開いた。
そこにはみすぼらしいゆかたを着せられた、老婆の人形が横たわっていた。まるでそれはつい今し方までここに寝ていた祖母にそっくりで、けれど。
これ、は。
いったい……どういうことなのだろうか。わたしは祖母の姿をした人形と、布団の上の女性を、何度も何度も見比べた。
面差しが、似ている。
目の下のホクロの位置も祖母と寸分たがわない。すっと通った鼻梁も、薄い唇も、全て。祖母が若かったならば、このような顔立ちになるだろうかと、思わせられた。
でも、そんな、まさか。
祖母と人形が……入れ替わった、なんて。
……そんなことがこの世にありえるのだろうか。
「おばあちゃん、なの?」
掠れそうな声で声をかけると、彼女はうっすらと目を開け、わたしを見た。そして、一筋の涙を流しながら。
「……お会いしたかったわ。浅茅様」
と、囁くように。言ったのだった。
きれいはきたない。
きたないはきれい。
「浅茅様。その指、どうされたの?」
美しい、若い祖母……が、わたしの手を取る。
「まあ、お怪我を?」
鈴のような声。眉をひそめるその顔すら美しく、わたしは声をなくしてしまう。
祖母が……祖母と呼んでいいのだろうか……わたしの左手にそっと触れた。白木のような指がするすると包帯をといていく。そして、わたしの傷口に顔を寄せ、小さな赤い舌を、優しく這わせるのだった。
……わたしはその一部始終を
「浅茅お姉さまのお指に傷がついてしまうなんて。おいたわしいことだわ」
ちらり、と。舌先で唇に着いた血を舐めながら。
濡れた瞳で、彼女はそう言った。
何かがするりと、わたしの心の中に、流れた。
きれいはきたない。
きたないはきれい。
次の日、わたしは自分の所属している花道部の部長に、しばらく部活動に参加することができなくなった。と告げた。
祖母の認知症が悪化して、目が離せないのだと。
わたしは嘘をついた。……いや、嘘じゃないかもしれない。本当はその通りなのかもしれない。ただ、問題は、わたし自身がそうとは思えないでいることだ。わたしの中に、狂いの種が芽吹いていることなのだ。
部長は寂しそうな表情を浮かべ、家の事情のことだから仕方がないけれど、でも、いつでも戻っておいで。と言って、わたしの肩を軽く抱いた。もしかしたら体育のあとだったのだろうか。先輩の首筋からは制汗スプレーの、シトラスに似た粉っぽい匂いがした。
急ぎ帰宅すると、奥の部屋から歌声が聞こえていた。制服のまま、祖母の元に足を向ける。廊下には幽かに甘い、花の匂いが満ちている。紫色の匂い。蘭の花の匂いがする。
ふすまを開けると彼女は畳に座って、千代紙で鶴を折りながら、何やら小さな声で歌っていた。歌詞は聞き取れないが、それは多分童謡の類いであった。
「……今日は何をしていたの?」
わたしが訊ねると、
「ああ、浅茅お姉さま。今日は鶴を折っていたのです。お姉さまのご病気が、少しでも早く、善くなるように」
にっこりと微笑む祖母が、わたしにはとても愛らしく、またいじらしく見えた。この可憐な姿の祖母を、父も、母も知らない。
今も……わたしの両親には、祖母はかつての通りに、老女の姿で見えているらしい。
では、やはりわたしが狂っているのか。それとも狂っているのは……誰なのだろう。
祖母がそっと、わたしの手を取った。
「こんなにお痩せになって。サナトリウムでの生活は何かとご不便なのでしょう? ねえ、お姉さま。今度はいつまでこちらに居られるの?」
恍惚の中の祖母は、わたしの中に、一体誰を見ているのだろう。父の話では、わたしを浅茅と名付けたのは、祖母だという。今更ながらに思う。祖母はどうしてわたしに浅茅という名前を、つけたのだろうか……。
祖母の髪を優しく撫でると、まるで猫のように目を細めて、口元にやわらかな笑みを浮かべてみせる。
そんな祖母に、わたしはなんて声をかけるべきなのだろう。
「ねえ、あなたは」
言いかけたわたしの唇に指を当て、祖母は嫌です。と少し怒ったような顔をした。
「いつものように、わたしのことをお呼びになって」
ほんの少し、彼女の指に舌先が触れた。祖母の肌は絹のようになめらかだった。
きれいはきたない。
きたないはきれい。
眠る祖母の顔に、薄日が差している。おとがいの先が、光を受けて白くこまやかに輝いている。産毛が彼女の輪郭をやわらかく滲ませている。食事を済ませ、トイレに連れて行くと、祖母は糸が切れたように、眠りについてしまった。
わたしはぼんやりと彼女の寝姿を見ていた。そしてふと思い立って、あの船箪笥の扉を開けてみた。
あいも変わらずみすぼらしい老女の人形が、その中には横たわっていた。そっと抱き上げて顔を寄せると、かつての祖母の、あの嫌な匂いが立った。
少しだけ顔をしかめてそれを戻すと、箪笥の奥に、小さな取っ手が付いているのが見えた。
はて、これはいったい、何のための取っ手だろうか。興味を惹かれて引き開けると、中には薄茶色に変色した、幾葉かのはがきと、手紙の束が入っていた。
宛名はすべて、椎葉浅茅となっている。
わたしはそれらに目を通しながら、時折眠る祖母を見た。年経た古い女学館。Sの関係。そして、上級生の少女の病……。当時の祖母の切実さに、胸が苦しくなる。どんな想いで祖母はこの手紙をしたためたのだろう。
ただ、出せなかった手紙はいつしか想いの澱となって、ここに沈殿したのだ。この、船箪笥の奥底に。
わたしは引き出しの奥に手紙を戻すと、眠る祖母の髪を優しく撫でた。祖母は薄く目を開けて、わたしを見つめた。
「お昼寝もいいけれど、あまり眠ると目が溶けてしまうわ。……前にも、女学館のお庭で、そう言ったでしょう?」
「……お姉さま?」
わたしは薄く微笑んで、彼女の名前を呼んだ。
わたしの可愛い一花、と。
きれいはきたない。
きたないはきれい。
わたしは横たわる一花の枕元に座し、花を活けていた。
外は雨だった。さらさらと音のない雨が、庭の松をただ静かに濡らしている。ここ数日の熱が、なかなか下がらないのだ。
「わたし、浅茅お姉さまの活けるお花が、好きだったわ。……ちからをもいれづして高き峯深き渓を小床に縮め、いたらずして千里の……」
「千里の外の勝景をみること、其術諸芸の及所にあらず、ね。『立華時勢粧』なんてよく覚えているわね。わたしだって、言われなければ思い出さなかったわ」
起き上がりかける一花を手で制し、額の濡れた手ぬぐいを取り替えてやる。
「今活けていらっしゃる花はなに?」
わたしは双花差の花器に花を活けていた手を、止めた。一花が静かな目でわたしを見返していた。
「……蛍袋よ。あとは下野と、唐竹蘭よ」
「全部お庭のお花ね。蛍袋はお姉さまに頂いた花よ。……よかった。今年も咲いたのね」
「赤い花。白い花。紫紺の花。……色々と咲いているわ。不思議ね。花にも一つひとつ名前があるのね」
「お姉さまのお名前が浅茅というように?」
「ええ。……あなたが一花というように」
一花が苦しそうに咳をする。
昨夜から何も喉を通らず、欲しがるのは水に溶いた蜂蜜ばかりだ。
「わたし、お姉さまの最後を、看取ってあげられなかったわ」
唐突に、一花がそう言った。彼女の中の何かが、少しずつ、錯綜していた。
「いいのよ。こうしてまた会えたんですもの」
わたしは努めて明るく言った。一花の首筋に手を当てると、かさかさに乾いていて、肌にうっすら指の痕がついた。
瞬間。蘭の花の匂いが、強く香った。
「お姉さまは独り寂しくお亡くなりになったのに。わたしばかり、ばちが当たるわ」
そんなことを言うものではないわ。とわたしは言った。頬に涙を見て、それを指先で拭った。
「ねえ、浅茅」
不意に。
一花が祖母の声音で、言った。
「わたしにも昔、綺麗な頃があったのよ。わたしの大切なひとが、その頃綺麗なお姿のまま亡くなったのよ。だから、わたし、昔の姿のままあのひとを……」
「ええ、……知っているわ。おばあちゃん。大丈夫。大丈夫よ。お姉さまは確かに……あなたを見つけてくれたわ」
わたしは彼女の髪を撫でた。昔のように優しく、優しく撫でた。
そして息をしなくなるまで。
じっと見つめていた。
きれいはきたない。
きたないはきれい。
彼女が死んでしまって。
わたしは彼女に似せて造らせたあの美しい人形に向かって、日毎夜毎に語りかけるのだ。
嗚呼、一花。一花。
胸の病で先に逝ってしまったわたしをどうか、どうか許してね。
……と。
そしてまた、いつか会いましょうね。
葬花差ーそうかざしー 月庭一花 @alice02AA
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