ムネーモシュネーの娘たち
月庭一花
1
国家保安本部京都支部からの電話があったのは花冷えのする春の夜半のことだった。わたしは喧しいベルの音に眠い目をこすりながら床に置いている古い電話に指を伸ばした。暗く火の気のない部屋は寒々として受話器が手のひらにまるで鉛のように重く感じられる。家の電話しかもこんな時間にいったい誰だろう担当編集者の成田さんだろうか。
もしもし、月庭です、と告げると相手は一瞬黙してから自分は国家保安本部の者ですと名乗り■■さんはあなたの妹ですねと訊ねた。聞いたことのない硬い針金のような声だった。
「……はい、そうですけれど」
「大変辛いお知らせになりますが、■■さんが先日、勤め先の施設でお亡くなりになりました。遺体は感染拡大の恐れがあるとしてすでに
「待って、待ってください。妹が……亡くなった? どうしてですか。理由は」
わたしは受話器を持ち替えた。指先が震えていた。声がかすれていた。右の頬が引きつっていた。遺骨。……遺骨? この男はいったい何を言っているのだろう。
「施設内で重篤な感染症が蔓延したと報告を受けております。■■さんもその被害者だったと。施設は現在立ち入り禁止になっており、それ以上のことは把握できておりません」
「そんなっ」
「では、そういうことですので。夜分に失礼しました」
電話が一方的に断ち切られたあとわたしは唖然としながら受話器を見つめていた。何も考えられなかった。何も信じられなかった。妹が死んだなんて、嘘に違いないと思った。でも、
「……どないしたん? 夜中に大き声だして。電話、なにかあったん?」
見るとわたしの隣で寝ていた
「冷たい手」
「冷やこいのはそっちの方やわ。震えてはるやないの」
もう一度何があったのと問いかける夜々子さんにけれどわたしは何も答えることができなかった。
タクシーの運転手は終始嫌そうな顔をしていたからわたしは夜々子さんの手だけを借りて車から降りた車椅子に移るわたしを彼は最後まで見ようともしなかった。そんな不穏さとは裏腹にやわらかな朝の陽の光を受けて散り始めの桜の花びらははらはらと舞っていたそれはさながらなごんの雪のようでたゞ切なくなるほどに美しい。タクシーが去ったあと夜々子さんに車椅子を押されながらふと周囲を見渡すが人は誰も歩いていない。もっともこんな時間にこんな場所をうろつく酔狂なぞ今ではもう誰もいないだろうが。
今から八年前の半島事変後に日本で初となる大きな選挙が行われた当時の国政を担っていた烏合の衆の如き連合政権が売国の
この極右政党が大統領を失脚させて政権を奪取すると党首は自らを総統と名乗った国民の熱狂的な歓呼によって迎えられた彼はその求めに応じるように次々と排他的で民族主義的な政策を打ち立てていった。どうなったかは推して知るべしである。しばらくするとどの街からも外国人の姿が消えた観光収入の多かった京都も国政のあおりを諸に受けた形となり今や火が消えたような有様だ。どうしてこの国がこんな風になってしまったのか、わたしには理解ができない。
これから妹の骨を受け取りに行かなくてはならなくなったと告げると夜々子さんは暫く考え込んだあとでそれならうちもついて行くと言ったそないな体なんやしひとりで行くんは無理やろと。わたしは手探りで黒紋付を取り出しするすると着付けていく夜々子さんを呆然と見ていた。それを言うなら夜々子さんだって本当はおいそれと出歩けるような躰ではないのに。
国家保安本部京都支部の入り口には濃紺の警備服を着た屈強な男が左右にひとりずつ立っていてまるで地獄の門番のようだと思ったが、それがあながち間違いではないことを誰しもが知っていた。苦労してわたしの車椅子を押す夜々子さんのことももちろんわたしのことを見てさえ彼らは表情を変えることなく立ち続けていた。
受付で用向きを告げると窓のない冷たい部屋に通されたスチールのテーブルと椅子が配されただけの部屋だった息を吐くとテーブルの上に白い靄が残った。此処はまだ冬のさなかなのだろうかわたしは隣に座った夜々子さんとずっと手を握りあわせていた。歯の根も合わずお互いの手が微かに震えているのを感じあいながら。
「おまたせしました」
そう言って入ってきたのは四十絡みの痩せた男で、見たことのない薄茶色の制服を着ていた。硬い針金のような声には聞き覚えがあった。
電話のあの男だった。
「本来ならあなた方のような人たちに対してこのような厚遇はいたしません。電話をすることもありません。遺骨も他に亡くなられた方は全て郵送で済ませています」
男は目の前に座るやいなやそう言った。夜々子さんが立ち上がりかけるのをわたしは手を強く握って押しとどめた。男はちらりと夜々子さんを侮蔑的な目で見はしたがけれども無視することに決めたようだった。
「■■さんは施設で多大な貢献をされた。そのことを我々は評価しています。今回の厚遇はその表れだとご理解いただきたい」
男が白い布に包まれた四角い箱をテーブルの上へ無造作に置いた。
「ところで月庭先生。最近の執筆のほどはいかがですか」
「細々とやらせていただいております。……政府を批判するようなことはもう書いていないはずですが」
わたしは自分の小説が以前出版取りやめになったことを思い出しながら皮肉混じりにそう言った。
「そうでしょう。もちろんそうでしょうとも。我々はあなたのような人の書かれるものを全てチェックしておりますから」
男は薄く笑ってから両手の指を組み合わせて見せた。
「我が国は本来の姿を取り戻すでしょう。移民、障害者、同性愛者……あなたのような人にはますます生きにくい世の中になるでしょうね」
これは警告なのだよ、と男の表情が雄弁に語っていた。この国に「わたしたち」の自由などというものはすでに存在しないのだと。
「もう失礼してもよろしいでしょうか」
「構いません。お忘れ物のないように。お気をつけてお帰りください」
男は立ち上がり、入り口の前で振り返ると、「ああ、そういえば。■■さんがどのような仕事をされていたかご存知ですか」
と言った。
「……死体の焼却です。あなたのような人たちの」
部屋の扉が開いて閉じた。
わたしたちの家に帰り着くなり夜々子さんは大きなため息をついて荒々しく着物を脱ぎ捨て始めた。わたしは床に広がった着物の襟に染め抜かれた彼女の家の家紋を見ていた。……月輪に総覗き爪型梅その名の通り下がぽってりと厚い丸輪の中に爪でつけたような梅花の紋が一つだけ描かれていてわたしはそれをたゞ美しいと思う。だからわたしはこの家紋から新しい自身の名をつけたのだ。月庭、一花と。
「なんなんな。あいつ、どぐしょいことばかり言いよってから。ほんまに腹立つわ」
夜々子さんの憤りもわかるが秘密警察に逆らったところでこちらに利することなど一つとしてないのだ、それよりも。
「ごめんなさい。わたしのせいで……夜々子さんにも嫌な思いをさせてしまって本当に申し訳ないと」
「うち、そんなこと言うてへんやんっ」
不意の大声にビクッと体を竦ませるとその気配を察したのか夜々子さんは優しい声で……とわたしの名を呼んだ。どうしてかは知らないどのような意図があったのかもわからない。けれどそちらの名前を呼ばれるのは睦み事のさなかに戯れに囁かれる以外では随分と久しぶりのことだったのでわたしは驚き少しだけ身じろいだ。部屋の中の空気が幽かに揺れた。わたしは夜々子さんの脱いだ着物をたたみながら、うん、と小さな声で返事をした。艶やかな着物の表面を撫で考えるわたしはあの男が夜々子さんの容姿やその障害について言及しなかったからまだ我慢ができていたのだ侮蔑的な視線だけで何も言わなかったからわたしのこの心を悟られずに済んでいるのだ。自分のことならいい。構わない。でもわたしのせいで夜々子さんまで誹謗されるのは嫌だった中傷されるのは尚更嫌だっただから。
「あんたが何を考えてはるんか、うちわかるえ」
「……そう?」
それ以上の会話はなかった。わたしは夜々子さんの手を借りて座椅子に座り直し卓上に置かれた白木の箱をひんやりとした心持ちのまま見るとはなしに見ていた。この子も随分と小さくなってしまって、と思いつつ。
わたしの体が不自由になってしまったことを夜々子さんは自分のせいだと思っている。もともと白皮のために目の不自由だった夜々子さんはわたしと出歩くときも常に白杖を使用していたそのときもいつもの折りたたみ式の白杖がアスファルトの上でかりかりと音を立てていたでも間の悪いことに出先でわたしと喧嘩をして急にひとりで帰ると言い出したのだ。折り悪く雨が降っていた。土砂降りの酷い雨だった。わたしは言い争ったあとの熱くて冷たい余韻の中で呆然とそぼつその背中を見送っていたわたしから離れ一人歩いていく夜々子さんの姿を。けれどふと気づいたときには既に赤い軽自動車が夜々子さんに近づいていた夜々子さんは雨音のせいか気づいていないようだった。わたしは傘を放り投げて咄嗟に走り出し夜々子さんの手を思い切り引いた目の端に驚いた顔をした夜々子さんの姿がはっきりと見えた自分の体が投げ出される嫌な浮遊感のあとで急ブレーキの音とぐしゃっという骨の砕ける音がした。夜々子さんが道路に横たわるわたしを必死になって探していたわたしは手を伸ばしかけて、自分の手が血で真っ赤に染まっていることを知った。
そうしてわたしは半身不随となり今日に至るわけだが断じてこのことを後悔しているわけではなかった。寧ろ夜々子さんが傷を負わなかったことを安堵していて少しも悔いたりしていない。わたしは夜々子さんを助けられたわたしを誇りに思っているのだから。けれども夜々子さんはそんなわたしを許してはくれなかった。そして、わたしを許せない自分を未だに許せないでいるのだった。
夕食を別室で摂ったあと夜々子さんはひとり三味線を弾いていた「
「わたし、夜々子さんの弾く三味線が好きよ」
夜々子さんは返事をしない。たゞ、口元がほんの少し緩む。
その施設の噂はわたしの耳にも届いていた。S県南部の
わたしは夜々子さんに髪を洗ってもらいながらそんなことを考えていた。
「あんたの髪は細ぉて指通りがええ」
「いつも同じことを言うのね」
わたしは小さく笑ってみせる。
「髪質が違うのよ。でも癖っ毛なのは好きじゃないわ」
湯を浴びて暗灰色に染まった自分の髪に手をやると髪を洗ってくれていた夜々子さんの指に触れた。夜々子さんがそっとわたしの指に自分の指を絡ませる振り返ると夜々子さんの
ひとしきり弄ばれたあとすっかり冷えてしまった体を湯船に浸しながらわたしは傍らの夜々子さんの裸体を見た。どこまでも白い陶器のようなその肌を。顔を。髪を。
……どうして同じ人間なのにこうも違うのだろう背が低く童顔なわたしに比べて夜々子さんの体からは成熟した大人の色香が漂う。なるほど彼女目当ての狼連が三味線の稽古に通ってくるのも
「夜々子さんの髪はまるで雪のようね」
「一花の髪は雲のようやわ」
光を感じることしかできない目で夜々子さんはわたしを見ていた。
わたしたちは互いに協力しながら生きている庇い合いながら、と云った方がいいのかもしれないが。わたしが彼女の目となり夜々子さんはわたしの足になるそんな風にして生きている。わたしたちはふたりで一つの生き物なのだから雌同士の比翼の鳥なのだから。
湯上りに座卓の上に置かれたままの妹の骨を眺めていると夜々子さんが何をしてはるんやとわたしに訊いた。わたしは抑揚を欠いた平坦な声で妹を見ているのよと答えた。すると夜々子さんは少しだけ逡巡し妹さんをそのままにしておくのはどうなのやろかと言い添えた。
「仏間においてあげたらええよ」
「でも、わたしたちは仏教徒じゃないわ」
「そんなもん、死んでしもたら皆一緒や」
そう言って手探りで骨壷の入った箱を手に取った夜々子さんはけれど顔を顰めて首を傾げている軽く箱を振ったりしている。
「……どうしたの?」
わたしは少し不安になって夜々子さんを見上げたまゝ訊ねた。
「軽い」
「え?」
「幾ら何でも軽過ぎや。ほんまにこれ、骨壷なんやろか」
わたしは震える手で夜々子さんから渡された箱を開いてみた。中には丸い陶器の壺がぴったりと収められている蓋はご丁寧に針金でとめてあるその針金を苦労して解いて中を覗いてみると、
「……何も入っていないわ」
壺の中は空だった。骨壷の中身は全くの空だったのである。
「ねえ、これはどういうこと?」
「どういうこと言われても」
夜々子さんも当惑した表情を浮かべている。
「ほんまは妹さん、生きてる……いうことなんやろか」
「でも、どうして? どうしてこんなっ」
「それはうちにもようわからんわ。けど……一花?」
夜々子さんの指がわたしの頬に触れた。涙に濡れたわたしの頬に。わたしは声を殺して泣きながら妹の名前を何度も呼び続けた。
リーリヤ、リーリヤと。
リーリヤが生きているかもしれないそれは希望なのだろうかそれとも違った形の絶望なのだろうか、わたしにはよくわからない。ただあの子はわたしと違って現政権が樹立する前にはまだ帰化申請を行っていなかったはずだからわたしよりもずっとこの国での生きにくさを感じていたと思うのだ。でも。だったら。わたしは考える考えてしまう。それならば彼女がしていた施設の仕事というのは……本当はいったい何だったのだろう。どうして国家保安本部の人間はこんなすぐに露見するような嘘をついたのだろう。それともあの男も中身が空だとは知らなかったのかそもそも……施設などというものが果たして実在するのだろうか。どこまでが本当のことでどこからが嘘なのだろう。
夜々子さんの口づけを受けながらわたしはずっとそんなことを考えていた。部屋の中の空気が湯上りの余情のせいかしっとりと濡れているように感じられる或いはそれは睦み合うわたしたちの肌と熱い吐息によるものなのか。わたしの薄い胸に夜々子さんが赤い舌を這わせていてそれがまるで
ふと耳を澄ますとステレオから小さな音で音楽が流れているそれはどこかの放送局が流しているクラシックだった。夜々子さんがラジオをつけたのだろうか。全然気づかなかった。
目を閉じてわたしはリズムを追う吹奏楽用に編曲された「テルプシコーレ」のその音色を。
わたしが動かず耳をそばだてているのは夜々子さんも気づいたようでいつしか手を止めて一緒に耳を傾けている。
「……うちクラシックはよう知らんねやけど。えゝ曲やね」
「うん。金管と木管楽器の八重奏。……元はプレトリウスの舞曲集だわ」
わたしは答えて、そっと夜々子さんの首に腕を回した。
「ねえ、夜々子さん。……わたしと踊って?」
わたしの泉は涸れ果ててしまったけれどわたしという人間全部が損なわれてしまったわけではない萎えて衰えた足がわたしの命令を聞かなくなってしまってもわたし自身の自由が奪われたわけではない。頭一つ分高い夜々子さんの裸の胸に抱かれてわたしは小さな声で怖いと言った。床に足がついているはずなのにその感覚はまるでない。夜々子さんの力強い手がわたしの腰に回っている。わたしはぎゅっとしがみつくようにしつゝ彼女の首筋に自ら鼻を押し付けた。
くるり、と夜々子さんがターンすると、わたしの足がふわりと浮いた。おぼつかないステップを踏みながら夜々子さんがわたしの耳元で「リューシカ」と囁いた。わたしの名前を。この国に来て捨ててしまったわたしの名前を。優しい声音で囁くのだった。わたしは小さく頷いて更に強く夜々子さんの白い首に顔を押し付けた。わたしの零した涙は白銀の粒になって辺りに四散していくきらきらと儚げに光を放ちながら。
わたしはリーリヤを見つけ出すことができるだろうか。わたしにどれだけのことができるのだろうか。
裸で抱き合いながら。
ずっとそんなことを思っていた。
ムネーモシュネーの娘たち 月庭一花 @alice02AA
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