第9話 人物

フランソワ・ギゾー

フランス南部出身。父親は有能な弁護士であったが、ギゾーが8歳のときにフランス革命で死刑に処せられた。このため、連座で処刑されることを恐れて母親はギゾーを連れてジュネーヴに避難する。ナポレオンの時代に入るとパリに帰国して歴史学を学んだ。ギゾーが記した歴史書の著書には、『フランス文明史』や『イギリス共和国とクロムウェルの歴史』、そして『ヨーロッパ文明史』など優れた歴史書が多い。1812年にはパリ大学の近世史の教授となる。

ティエールらと協力してルイ・フィリップを擁して七月王政を行った。ルイ・フィリップのもと文相、外相なぞを歴任、ティエール失脚後首相を務める。内政においては一部の有力資本家を支持して国民の社会的・政治的自由を抑圧し、普通選挙権においても制限を加えるなどの圧制を敷いたため、国民からの不満を招く。2月革命の責任を取らされて解任。ベルギー、イギリスで逃亡生活を送る。フランスに帰国した後は政界には関わらず、歴史家として余生を送った。88歳で死去。


ルイ・オーギュスト・ブランキ(1805年~1881年)

ジャーナリストとして共和主義的秘密結社カルボナリ党とかかわったことから革命家の道へと進む。反乱と投獄(計33年)の生涯を送る。7月革命にも2月革命にも参加。『革命史』の著者。多数の支持者を持ち、コミューン設立時のリーダーの一人であった。


ピエール・ジョゼフ・プルードン(1809年~1865年)

アナーキスト。樽職人の子として生まれる。8歳の頃から宿屋の食糧係として働きはじめ、学校に通うも、独学の状態で、学業を完全に終了することはなかった。19歳、印刷所に校正係として就業。教会用のラテン語訳聖書の校正をしているうちに広汎な神学の知識を身につけヘブライ語を覚えてしまう。言語学も独学し、1837年に最初の著作『一般文法論』を自費出版し、これにより奨学金を受け、3年間パリに遊学する。同時期に数回会っているマルクスから共産主義通信委員会の通信員となるよう依頼を受けているが、同意しつつも教条主義や権威主義的な傾向を危惧して多くを留保している。

二月革命に参加。『人民の代表』『人民』『人民の声』などの新聞を発刊。1849年ルイ・ナポレオンを反動の権化として新聞で攻撃。3年の禁固刑を受ける。出獄後の1858年に出版した『革命の正義と教会の正義』が公共道徳・宗教・国家を攻撃したとして官憲に押収され、再び禁固3年の刑を宣告され、家族とともにベルギーに亡命した。1862年にフランス政府の特赦を利用して帰国し、パリ・コミューンの5年前に心臓病により死去。


ジョルジュ・クレマンソー(1841年~ 1929年11月24日)

フランス西北部ヴァンデ県の生まれ。共和派の家系に生まれる。1865年、南北戦争中のアメリカに留学。同時にフランスの新聞の特派員を務める。1869年、ソルボンヌ大学医学部卒業後、医師となるが、その後政治家を志し、翌年にパリのモンマルトル区長となった。パリ・コミューンでは区長として、政府とコミューンの調停役をつとめるが、上手く行かなく区長を辞任した。

その後、第3共和政で共和派の議員として復帰する。ドレフュス事件ではドレフュス擁護の論陣を展開。1902年、上院元老院入りし、保守派に転向。06年から09年の間、首相となり、イギリス、ロシア帝国と三国協商を結ぶ。第一次大戦後のベルサイユ条約では、対ドイツ強硬派として知られるところである。


『レ・ミゼラブル』で知られるヴィクトル・ユゴー、写実主義画家として有名なギュスターヴ・クールベもパリ・コミューンと深くかかわっている。

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戦争と革命の時代『パリ・コミューン』 北風 嵐 @masaru2355

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