都落ち
胤田一成
都落ち
一,
黒洞々たる紀伊の海に二つの生首が浮きつ沈みつしている。夜闇の海は暗い。二人の男女の色白い顔も相まって、それはまるで切り落とされた生首が海上をふわりふわりと漂っているようにも見えた。
暖流とはいえ、真冬の海洋は寒い。二人の異常なまでの顔色の青さはこれが原因であるのか、そもそも生来からそう造られているのか判然としないが、海水はもう何時間もかけて二人の男女の肉体から徐々にだが確実に温度を奪い、ただでさえ幸薄く悲愴な顔立ちに、一種異様なまでの死人の形相を添えているのも確かであった。
崖の上を吹き荒れる陸風が海面に波とは違う波紋を広げたが、それに打ち負けまいという力強い潮の流れが崖の荒磯へと叩き寄せる。陸風と海流に挟まれ、二つの生首はくるりくるりと独楽のように回ってみせるのであった。
男の生首が堪えかねたように口を開いた。
「ああ、このままでは溺れ死んでしまう」
女の生首が頓着なくそれに応えた。
「あら、初めから死ぬつもりだったのでしょう」
男は呻きとも呟きともとれる声を絞るようにして怨みがましく言った。
「いや、俺はお前と一緒に崖から身を投げて、あの岩礁に身を打って一息に死ぬつもりだったのだ」
月明りを受けて艶を帯びた海面から男の青白い腕がにゅっと伸びたと思いきや、数メートル先に鎮座する岩礁を指さした。雲居のかかった頼りない月の下で不思議に白く浮かび上がるようにして、波を裂いている荒々しい岩肌がそこには確かに存在していた。男は続けて言う。
「ああ、全く不運というものはどこまでも着いてくるものだ。もう少し高く飛び降りたのなら一息に、あの岩に身体を打ちつけて確実に死ぬことができたというのに」
女の生首はこの男の口をついて出た言葉の微妙なニュアンスを聞き逃さなかった。そこには後悔のほかに含まれたもの―臆病があった。女は男の臆病風を許さなかった。東京から半ば攫われるようにして連れてこられた和歌山の海にあって女の腹は奇妙なほど据わっていた。
「これから死ぬというのに今さら何を言い出すのかしら。どこまでも続いて止まない不運を断ち切るためにこうして共に身を投げたのよ。これも最後の縁だと思って諦めてください」
利かん気のない子どもを叱責するような鋭い口調に、男は今度こそ呻き声をあげた。男の生首は依然として月明りの下の白岩を恨めしそうな眼付でじっと見詰めていたかと思うと、くるりと器用に女の生首に向き合うと顔色を窺うようにして上目遣いに尋ねた。
「これも最後の縁だとお前は言うが、俺はこのまま溺れ死ぬのだけは御免だ。聞くところによると、土左衛門というのはあまりに苦しくまた、見栄えも良くないものらしいではないか。この上なお、両親親族にそのような姿を見せるのは面目ない。俺がもし今宵、生き長らえることができたのなら、お前、今一度きっとあの白岩に共に身を投げてくれるね」
男の阿るような口調に女は軽蔑を隠せなかった。これから死ぬるつもりだというのに、今さらになって死に様を選えり好ごのみするとは何事であろうか。目前にほぼ垂直に聳え立つ断崖は、誰かにすくい上げられでもしなければ、自然と這い上がれるような代物ではなかった。よもや誰かにすくい上げられたとしても、その舌の根も乾かぬうちにまたもや身投げするなど恥の上塗りである。
この男は心底、生にしがみついていたいのだ、と女は思わずにはいられなかった。或いは死の瀬戸際にあって急に命が恋しくなったのかもしれない。兎にも角にも、男は溺死という選択肢には頑なに首を縦に振ろうとはしなかった。
「これから死ぬというのに手段を選んでいられますか。これが最後の不運だと腹を決めて、このまま私とこの海に身を沈めてください。それに貴方はこの崖を全体どうしようとするつもりなのです。あそこから飛び降りたときから、とうに運命は決められていたのです。今さらになって、あの白岩に身を打ちつけて死ぬなどという夢話はもう捨ててしまいなさいませ」
男の煮え切らない腹の底が見透かせるようで女は心底、辟易した。この男は未だに死ぬ決意をしていないのかもしれない。それどころか、許されるならば一日また一日と余命を先延ばしにしたいとすら願っているのかもしれないのだ。女の方はとうに決心ができているというのに、この疑念がぬぐい切れない以上、このありさまでは無駄死にもいいところであった。「落伍者」。今や男の蒼白な色をした生首の額にはその三文字が深く刻まれているようであった。東京での暮らしの最中に折りに触れては見せた、炯々爛々としたあの射抜くような鋭い眼差しも、縦に刻まれた額の深い皺も、世を憂うあのもの寂しい面影も、和歌山の三段壁にあっては何処かに形を潜めてしまったようである。女の心を捉えて止まなかった力強くも繊細微妙な緊張も紀伊の潮流にながされてしまったのであろうか。後に残ったのは、だらしがなくみすぼらしい阿諛追従とした弛緩であり、そこには矜持の欠片も見当たらなかった。
情けない、と女はそう思った。死の淵に立って、女は初めて男の生首からある種の狡猾さを認めた。そして女は同時に最後にそれを垣間見せた紀伊の海をも呪わざるを得なかった。
男は己の心の内を覚られまいとしてか、またもや女から首を逸らすと未練がましく白岩に熱心に視線を注ぐのであった。
二,
二人の生首の頤が押し寄せる波の冷たさに震え始めた刻下がり、月の頼りない灯火が雲居の隙間から黒々とした海面を舐めるように照らし始めた頃合いである。
男の生首が思わず、あっと声をあげた。二つの生首が徒いたずらにくるりくるりと独楽のごとく廻っていた崖下から十数メートル先にある対岸の崖際に、縦に長く裂けた洞を認めたのだ。海蝕洞というものである。白波が玉となって寄せる崖下の中で、その洞の周りだけは不思議にも静かに凪いでいる。おそらく、洞の周りを囲うようにして並ぶ岩礁が寄せる荒波を妨げているのだろう。僥倖であった。あの海蝕洞の中なら押し寄せて止まない波も幾分かはマシになるだろう。この体温の低下すら免れれば一命を取り留めることも可能かもしれない。今宵、この苦難さえ乗り越えれば、今一度。あの白岩に四肢を打ちつけて一息に世を去ることも自由なのである。
「着いてこい」
男は言葉少なに女に命じると、震える指先で崖伝えに海蝕洞の近くまで這うようにしてやってきた。女は唇を震わせながらも静かに男の命に従い、恐る恐る洞窟の内を覗いてみた。洞の内は真の闇であった。。女の背筋を冷たいものが伝ったような気がした。恐怖に引き攣る女の気色も気にとめず、男は震える声で女に告げた。
「俺はこのまま溺れ死ぬなんて御免だ。今晩はこの洞窟の中で一晩をやり過ごして、明日になったら改めてあの白岩に身をぶっつけて一息に死のうと思う。お前も一緒に着いてきてくれるね」
男は勿論、女が頷くであろうことを期待していた。しかし、今度は女が容易には首を縦に振ろうとはしなかった。これは男にとって全くの意外であった。
「貴方、悪いことは言いません。このまま二人で潔く溺れ死にましょう。この紀伊の海に身を沈めるの。なにも意固地になってこんな穴倉に身を潜めて生き長らえる必要はないじゃありませんか。あの崖から共に身を投げたときから私達は死んでいるのです。それをここまでして生にしがみつくことはないわ」
「生にしがみついているだと」
男は激昂して震える声を荒げた。身体を巡る血液が沸騰して一時、二月の海の冷たさ忘れさせた。女も負けじと男に噛みついた。これまで目を逸らしていた疑念を男にぶつけずにはいられなかったのである。
「そうじゃありませんか。貴方は本心では死にたくないと思っているのではないかしら。全体、あの白岩にそこまでして拘る理由は何なんですか。このまま水に浸かっているだけで十分に死ぬことができるというのに、命を落とすまでの経緯が一体なにになるというのでしょう。私には貴方が全くの前後不覚に陥っているようにしか思えないわ」
女にはこの得体のしれない海蝕洞で一夜を明かすなど以ての外であった。ただ、水に浸かり、波間を漂うているだけで死ぬることができるというのに、男があの白岩に身を打つことに執拗に拘泥する理由が女には理解しがたかったのである。
女が見て取った男の臆病は死に対する敬虔なまでの感傷主義(センチメンタリスム)であった。確かに男は死の淵に立って、臆病にならざるを得なかった。しかし、それは男がむしろ死に対して一際ひときわ、真摯に向き合っていたとも逆説的に解釈することもできるのであった。死は他者に認識されることでようやく、一個の死という意義を持つのもまた確かである。省みられることない死は、そもそも死として成立しないというのが男の持論であり、一言でいってしまえば男は死に花を咲かせたかったのである。いかにして華々しく死ぬかということが男の関心の的であり、それがすべての目論見でもあった。
「たった一度、たった一度なのだ。皆に等しく機会の与えられた最後の徒桜なのだ。俺は俺が納得のいく顛末てんまつを望みたいのだ。それを生にしがみついているなどという心無い一言で斬り伏せてしまうのはあんまりではないか。俺はともかくこの洞窟で一晩を明かすことにする。もう着いてこなくてもいい。だが、約束しよう。明日になったら過たずに、今度こそお前が身を沈めたこの海で、俺もまた命を落とすということを」
男は女を置き去りにして、縦に刻まれた狭い海蝕洞に内へといざり寄って行った。女は呆然とするほかなかった。男はとうとう自分の手の内から逃れてしまった。後を追い、命を絶つとは言っていたが、女にはそれも未だ確かなようには思えなかった。女が感じていた一抹の不安は的中したといってもよかった。死の瀬戸際にあって女は男に疑念を抱かずにはいられなかった。しかし、今となってはその疑念も晴らすことは不可能になってしまったのである。
女は今一度、海蝕洞の内を覗いてみた。浅く静かに揺蕩う波の狭間に一匹の鼠の骸が寄せては引いてを繰り返していた。女はこれを見て、またもや背筋を冷たいものが伝うのを感じた。女は何かに急かせれるようにして、男を置いて元の崖下へと岩伝いに戻っていった。
三,
女は身を投げた崖の下へと這々の体で泳ぎ戻ってくると、この奇妙に交錯した男女の思惑を紐解こうと試み始めた。海蝕洞の中へと消え去って行く男の蒼白な顔には落伍者の烙印が克明に刻まれているようにしか思えてならなかった。女は最後まで彼の顔から潔さを認めることができずにいた。男の死に対する感傷主義(センチメンタリスム)の意味をどうしても解せぬまま、女は独り黒洞々たる紀伊の海に取り残されることになったのである。
溜飲の下がらぬままに、女は遠く果てに見える霧がかった水平線を遥々と眺めた。あの先に淡路島があるのだろうか。女の澄んだ瞳に映じる幻の孤島。その小さく幽かに見えるであろう島の向こうに広がるのは瀬戸内海である。屋島があるのはあちらかしら、と女は思いを馳せた。
「それを限りだに思はましかば、など後の世など契らざりけんと、思ふさへこそ悲しけれ」
『平家物語』巻第九。小宰相が夫の平通盛の死を悼み、入水した折りに口にした言葉を女は思い出していた。
東京から和歌山へと運ぶ新幹線の中で、感傷に浸る男が食い入るように読み耽っていた文庫本のうちで、女に語ってみせた話は他にも幾つかあったが、女は特に小宰相入水の段に魅入らされた。それにはこれから男と心中するのだという意識が大いに関連していたものの、それを差し引いてたにしても、女はこの物語に涙を誘われずにはいられなかった。女が思い描いた小宰相の殉死はあまりにも美しく、胸打たれる悲劇であった。
四月の明け方の瀬戸内海は静かに凪、四方山は春霞に煙っている。小宰相は死出の旅路に相応しい白い単衣に身を包み、船端まで足音も忍んで、そろりそろりと歩み寄ると、百回の念仏を静かに呟き、とぷんとその御身を沈める。
そこには女が、今置かれているような煩悶もなければ、男が見せたような執着もない。ただ、静かに宿世に従い、腹にやや子を孕みながら瀬戸内海の凪いだ海原へと身を沈めるのである。それに比べて自分達の心中はどうであろうか。醜いことこの上ない。寒さに震え、いがみ合い、互いを蔑みながら死に臨もうとしている。
「など後の世など契りざりけんと、思ふさへこそ悲しけれ」
女は頤をがくがくと震わせながらも呟いた。あの得体のしれない海蝕洞から男が舞い戻ってくれるのなら、女は接吻の雨で彼を迎え入れたい心持ちであった。紀伊の黒々とした海の上で、女はどうしようもない孤独に打ちひしがれていた。
尤も孤独に苛まれるのはこれが初めてではない。女は天涯孤独の身であった。海に身を沈めたところで涙を流してくれる親族はもうこの世には誰一人としていなかった。
十八歳を迎えたとき、女の母親は死んだ。癌であった。夫である父親は最愛の妻が亡くなると、「もうひとり立ちできる歳だから」と言い残し、娘を見捨てて何処いずこかへ煙のように消えてしまった。歳若く器量の良い女を囲ってくれる店はいくらでもあり、飯を食うのにはさほど困らなかったが、自分は見捨てられた孤児なのだという気持ちはどこまでも着いてやってきた。女が孤独を意識したのはこの頃からである。
女は当座、東京の場末の酒場でホステスまがいの仕事をして日銭を稼いでいたが、男とはその時に出逢った。彼は幼少期に同じ学び舎で過ごした仲であり、女の密かな初恋の相手でもあった。女は堕落した己を恥じたが、男は彼女の身に降りかかった災難を聞き終えると、寛大な心の広さで女を受け入れた。鋭い切れ長の眼付、剣道で鍛えたがっしりとした体躯、粗野に見えながらも繊細な精神。些か時代錯誤ではあるものの男は武士もののふを体現したかのような人であった。男はある公立の中学校で国語の非常勤講師を勤めていた。
アプローチを仕掛けたのは女の方からであったが、男は色気なしに予想以上に女に尽くした。女が孤独に押しつぶされそうな夜など連絡を入れれば、まさかやって来ないだろうという時間にも駆け付け、男は静かに物も言わず、黙然とではあるが傍に座りいつまでも一緒にいてくれた。硬派一徹な男ではあったが、妙に優しいところがあった。男は教師を志すだけの自制心と勤勉さ、心優しさを兼ね備えていた。
二人が同棲するようになるまでさして時間はかからなかった。男は女にそれまでしてきた阿漕な商売の一切を禁じたが、女はそれに素直に従った。豊かな暮らしとは縁遠かったもののその時分が女にとって一番、恵まれた日々のように思われるのであった。
貧しいながらも幸福な毎日に女は充分に満足していた。好いている男が傍にいて、同じ時間を過ごしているという事実が女の心に巣食った孤独意識を癒し、すっぽりと空いた虚ろを埋めた。
この質素ながらも恵まれた暮らし向きは三年間ほど続いた。しかし、その水面下では徐々にではあるが着実に生活は瓦解し始めていた。女の幸福とは裏腹に男は密かに進退窮まっていたのである。薄給な上に上司にも恵まれず、丁稚奉公のような金にもならない仕事も随分と嵩み、いつまで経ても正規に雇用される見込みもない。男は確かに優秀な講師ではあったが、その炯々爛々とした飢えたような眼差し、何かを深く憂慮して止まないような面影、そして勤勉さが極まり過ぎたあまり、周囲を顧みない性質が男を社会という鋳型にうまい具合に嵌らせなかったのも事実であった。
男はもう二十八歳を迎えようとしていた。六年間という歳月を経て積み上げてきたものは一向に鑑みられる様子のない苦い経験の山と摩耗して今にもぷつんと音を立てて擦り切れてしまいそうな一本の緊張した精神の糸であった。男は実に六年間という間、孤立無援の絶島の中で己を誤魔化しながら職を続けてきたが、それも刻々と終わりが近づいていた。
強い精神安定剤と抗鬱剤、それと幾つかの睡眠導入剤が男をして活動させる糧となっていた。脳髄を麻痺させることでようやく自己を保っていられるような日々が続いた。やがて男は明日の不安を誤魔化すために、飲めない酒を大量に飲み、反吐を往来に撒き散らしながら深夜の街を徘徊するようになった。
男の何かを憂う少年を思わせるあの阿修羅像の面影は、火炎を背負った激しい憤りを顕わにした不動明王のそれに変わっていった。女は男の面差しの変貌を不安げに見守るほかに仕様がなかった。それでも振れれば切れてしまいそうな刃のごとき空気を纏った男を女はでき得る限り、身を尽くして支えてきたつもりであった。時には積もり積もった憤りを優しく宥め、時にはやり場を失った滾りを肉体をもって慰め、時には夜通し溢れ出る涙を袖で拭ってやったことすらもあった。女は精一杯、男を愛しているつもりであった。
しかし、女は男の煩悶を解決するまでには能わなかった。男は往々にして女の寝入ったのを見計らうと、葡萄酒の入った安瓶を片手にぶら下げて、夜の街を当てどもなく彷徨するのが常となっていったのである。
四,
時を遡ること三日前。
夜半の三時頃になって男が血相を変えて、東京郊外に建てられた安アパートに帰って来た。見るとその服と掌は夥しまでの血濡れである。酒の酔いと薬の作用が落ち着いた時分になると、男はようやく重い口を開けて女に事の顛末を語り始めた。
男はいつも通り、女がその日一日の疲れから寝入ったのを、耳をそばだてて確かめると、安瓶を片手に夜の街を割くようにして走っている河川を目指して漠然と歩みを進めていた。その夜の男の鬱は激しく、一層のこと河に身を投げて死んでしまおうかとすら考えあぐねていたのである。
跨ぐようにして設けられた河橋に差し掛かったころには男の足取りは既に危うかった。アルコールと薬の成分が男の脳髄を痺れさせ、酩酊させるまでに至っていた。このまま酔いに任せて身を投げ、河の浅瀬を目掛けて身体をしこたま打ち、一息に死んでしまおうか、と鈍くなった頭で何とはなしに男は考えていた。
しかし、そこに運悪く警邏中の歳若い警察官と鉢合わせになってしまった。警察官はふらりふらりと酒瓶を片手にこちらに向かって、焦点の定まらない目つきで歩いてくる不審な男を当然、押しとどめ、何かあったのかを聞き出そうとした。
男は呂律の回らない口調ながらも事の次第を覚束ないまでも、未だ歳若い警察官に懸命に説いてみせた。だが、この警察官もその若さゆえか些か思慮に欠けていた。男の必死の訴えも空しく、このままでは「危険」だからと言って、男の腕を無遠慮にむんずと掴み、交番へと連行しようとしたのである。男は打ち明けてみせた事の次第が―強い精神安定剤を常習し、酒に溺れている現状が明るみに出て、上司や委員会の下で裁かれるのを恐れ、同時にこの警察官が自分のことを一人の狂人として扱いつつあることを怨んだ。
ほんの一押し抵抗しただけのつもりであった。しかし、若い警察官は予期した以上に突き飛ばされ、路傍の石段に強かに後頭部を打ちつけた。男は頭から溢れ出る血を両手で何とか止めようと試みたが、それも結局は徒労に終わってしまった。己の所業に怖れをなした男はどうすればよいのか分からないままに前後不覚に陥り、千鳥足ながらも一目散に女の眠るアパートへと戻ってきたということであった。
男は女にこの怖ろしい一個の事件を語り聞かせている間、自分は警邏中の若い警察官を突き飛ばし、運悪く死に至らしめてしまったと、頑なに信じて止まなかった。よしんば、死ぬまでの事件に至っていなくとも公務執行妨害と傷害罪の下に裁かれる可能性は拭い切れない。何より、男の強い道徳心と倫理が、一人の人間を致命的に傷つけたという事実から目を逸らして、素知らぬ顔で教壇に立つことを許さなかった。
いずれにせよ、男の六年間に渡る講師生活に終止符(ピリオド)が打たれるのは免れないだろうと、そこまで一気に女に捲し立てると、攫うようにして東京から逃げることを決めてしまった。
男の故郷でもある和歌山へ向かう道中、男は幾つかの新聞を女に買いに行かせた。今さらながらではあるが、はたして自分が本当に警察官を殺めてしまったのかを確かめたかったからである。それはちょうど、乾かない瘡蓋を剥がしてみたくなるような心境に似ていた。案の定、男が確信していた通り、女が駅の売店で買ってきた新聞紙の記事には一人の警察官が翌朝、死体となって河橋の上で倒れ伏しているのを散歩中の主婦が発見したという旨の一説が小さく載っていた。かくして男がもののはずみとはいえ、警邏中の警察官を殺めてしまったことが決定的に明らかとなった。男は新聞を読み終えると和歌山へと辿る新幹線の中でこんこんと眠りについた。深い深い眠りであった。
女は男の横顔を見詰めた。そこには例の阿修羅像の面影があった。全てが瓦解したときになって初めて男はかつての憂慮する少年の面差しを散り戻したのは不思議な現実であった。或いは諦観という名の安らぎを男はこの時、手にしたのかもしれない。いずれにせよ、男が郷里である和歌山県の三段壁で共に心中してくれないかと尋ねたとき、女は男の面おもてに誘われるがごとく、さして迷うこともなく首肯したのも一つの不思議な事実であった。
東京での男は背水の陣中にあって、懸命に刃を振るう一人の勇猛な武士(もののふ)であった。それに報いるだけのことをする必要が女にはあるような気がしてならなかった。新幹線の中で男は自分達の現状を顧みて都落ちする平家の物語を、文庫本を片手にして二、三段ではあるが女に語って聞かせた。それは長らく中学校で教鞭を振るっていた男の癖の些細な癖のようなものであった。女は小宰相の入水の段を殊に気に入った。東京での男は平通盛であった。そしてそれに殉死する女は小宰相そのもののように思えてならなかった。二人はよく戦ってきた。死出の旅路に相応しからぬ一種異様なまでの安堵と平穏、そして融和が二人の段世の間には確かに流れていた。実際に三段壁から身を投げるまでは。
「それを限りとだに思はましかば、など後の世と契らざりけんと、思ふさへこそ悲しけれ」
紀伊の海を訪れるまでは男は平通盛であり、女は小宰相であった。阿修羅像のごとき憂慮する少年の面影も不動明王のごとき憤怒に燃える精悍な面影も一人の勇ましい武士(もののふ)の一面には違いなかった。しかし、あの白岩に身を投じるという頑なまでの妄執に囚われた男の顔には女への阿おもねりと媚びが刻まれていた。女はその顔つきを見て、落伍者という言葉を思い出さずにはいられなかった。
紀伊の海にあって、男は平通盛、武士の一分を捨て去ってしまったかのように思われた。では己はどうであろうか。自分は小宰相に相応しいほどの気丈と貞節を兼ね備えた女性なのであろうか。あの狭い海蝕洞で小さくなって夜を明かそうとしている男の姿に思いを馳せることで、女もまた寄せる波に身を委ねながらも我が身と所業を省み始めていた。
これまでに女は随分と男に身を尽くしてきたと密かに自負していた。男のためなら共に命を投げ出しても一向構わないという思いで、双方同意の上で和歌山まで赴いたはずであった。しかし、今宵、波の間で揺蕩う男の顔を目の当たりにして、この落伍者のために命を落とすのかと逡巡している己がいることに、はたと気が付いてしまった。事実、女は男に白岩のことは諦めて潔く、この海に身を沈めてくれとまで懇願した。それは落伍者と心中することを内心では拒んでいたからではあるまいか。女にとって男の白岩に相当する妄執とは「落伍者と共には命を落としたくない」という見栄であったのではなかろうか。
女は男のためになら自己を犠牲にしても良いと考えていた。しかし、それは武士(もののふ)というかつての精悍とした男とならの話であって、落伍者というみすぼらしい男となら自ずと話は変わってくるのではなかろうか。男があの白岩に妄執していたように、女もまた、平通盛を彷彿させる逞しく勇ましい理想としての男性像に取り憑かれていたのではなかろうか。
脈々と湧き出でる泉のように疑問が尽きることがなかったが、女は漠然とだが自己犠牲という美談の下に密かに隠された、どうしようもない利己主義(エゴイズム)の臭いを確かに嗅ぎ取っていた。それまで気丈と貞節の裏に秘められていた欺瞞に気が付いてしまった。それは死の瀬戸際に立つ者が決して自覚してはならない事であった。全てを水泡に帰す、あまりにも危険な事実であった。
落伍者の為に落とす命は惜しい。
落伍者と共に身を投げるのは愚かしい。
そう考えている自分を垣間見た心持ちがし、女は苦いものを舐めたような気色になった。畢竟、自分も男も妄執しているという点において変わりはないのだ。ただ、それが何であるかの違いがあるだけなのだ。男は白岩に、女はかつて愛した男の雄姿に取り憑かれていただけ―男は死に際の感傷主義(センチメンタリスム)に、女は自己犠牲という名の利己主義(エゴイズム)に各々、躍らされ、陶酔していただけなのである。男の額に「落伍者」という三文字が刻まれているのと等しく、自分の胸には「欺瞞」の二文字が赤々と焼印されているのを、女は認めざるを得なかった。
「それを限りとだに思はましかば、など後の世と契らざりけんと、思ふさへこそ悲しけれ」
女は繰り返し、繰り返し、この『平家物語』の一節を、小宰相がその御身を瀬戸内海へと沈める前に唱えた念仏のように口にしていた。その度に、女の胸の内に空いた虚ろに悲哀と後悔、それに自身の浅ましさが一時に押し寄せてきた。空虚な紀伊の海に漂いながら、聳え立つ絶壁と黒々と艶を湛えた波の狭間で、女の生首だけがくるりくるりと独楽のごとく廻っていた。
五,
「大丈夫ですか、大丈夫ですか」
見知らぬ男性の懸命な呼び掛けの声に眼を覚ました。
肺臓に入ったわずかな海水が気管支を逆流し、盛大に潮水を吐き散らした。またもや目が眩みそうになったものの、男性の武骨な掌が背中を摩ってくれるのが有難かった。直に毛布が用意され、女はそれに身を包むことになった。頤の震えはすぐには止みそうになかったが、温かい飲み物が手渡された。
結局、紀伊の海で女は気を失ったものの、海難救助隊に助けられたのである。三段壁には自殺者が多い。早朝から見回りをしている有志の団体に女は発見され、早々に救助さることになった。女は男のことが気がかりであった。
「あそこの洞窟に私の連れがいます」
女は海難救助隊の一人の男性にすがりつくように訴えた。しかし、男性は静かに首を横に振るばかりであった。
「残念ながら、あの海蝕洞を捜索した結果、三十歳ばかりになる男性の御遺体が見つかりました」
男はこの界隈の潮の満ち干きを知らなかった。あの海蝕洞のあたりはこの日、夜が更けるとともに潮が満ち、洞窟の大半を海水が満たしてしまうことを女は呆然としたまま聞かせれた。あの鼠の死骸はそれをもの語るものであった。男は白岩に身を投げる機会にとうとうありつけずに死んでしまった。女は涙を堪えきれなかった。
男は最期まで落伍者のまま死んでしまったのである。誰にも省みられることもなく、ささやかな悲願も空しく、ひとり孤独に溺れ死んでしまったのである。女の胸の内を空虚が襲った。激しく涙し嗚咽する姿を見て、海難救助隊の一人が女に濡れそぼった布切れを手渡した。
「彼が最期まで握りしめていたものです」
マフラーであった。東京で男が寒さに身を竦める度に必ず女が首に巻いてやっていたマフラーである。和歌山の冬は東京のそれよりも暖かかったが、男は頑固としてこのマフラーを首から解こうとはしなかった。行き交う人々から身を隠すためとは知りながらも、女の編んだマフラーを一時も手放そうとはしなかった男に、ある種のいじらしさを感じずにはいられなかった。女はすっかり濡れそぼったマフラーを受け止めると強く胸に抱いた。
夜とは打って変わって今度は海風が崖の絶壁を轟々と叩きつけ、それに調子を合わせるようにして白波が寄せては引いている。女は海難救助隊のボートに揺られながら、遥かに三段壁を見上げた。
おおい、おおい、とこちらに向かって叫ぶ者があった。きっと自殺者を止めようとする有志の団体の一員に違いない。彼は知っているのだろうか。
真冬の海に身を投じなければならない者の心中を。
波間に漂いながら我が身を省みる者の葛藤を。
どうしても歩み寄れない人間同士の虚しさを。
己の内に巣食って止まない利己主義(エゴイズム)を。
彼はそれらの一つだけでも知っているのだろうか。白岩を見遣ると女はこの期に及んで安堵している自分がいることに気が付いた。女は落伍者のために命を落とすということの馬鹿馬鹿しさひしひしと感じていた。それと共に自己犠牲という大義名分の裏に秘められた危うさ、それに陶酔していた己の浅ましさと愚かしさを痛いほどに噛み締めていた。
胸に刻まれた「欺瞞」の二文字を抱えながらも、自然じねんと女の追憶と情愛は和歌山へと都落ちした落伍者より、東の都で独り、磨り減り傷つきながらも我武者羅に刃を突き立てる精悍な男に向けられていた。女はそれが無意味な陶酔だと理解していながらも易々とは、その想いを拭い切れずにいるのであった。最早、女は誰のために涙を流しているのか分からなかった。男のためであろうか。それとも小宰相になれなかった己自身のためであろうか。
女はこれからも苦悩して生き続けなければならないだろう。死の瀬戸際で女が垣間見たものは飽くなきまでも底知れない利己主義(エゴイズム)であった。男は落伍者のまま命を落とした。しかしそれは幸いであったに違いない。なぜなら、男は少なくとも無垢のまま死ぬことができたのだから。
都落ち 胤田一成 @gonchunagon
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