らん―かん
僕は夢を見ない。
僕が夜に生きているからだ。
星と月の間に僕は紛れて、夜の中に生きている。
黒い服を着て、黒い靴を履いて、黒い傘を持って。
そうして僕は、人間に会いに行く。
人間には僕が見えない。
そのはずだった。
(あの子はいつもあそこにいるなあ)
真っ暗な橋の上。
欄干にもたれて、その女の子は泣いていた。
もう何日もそうしている。
昼間は分からない。僕は夜に生きているから。
(そういえば)
あの日からだ。あの子を見かけるようになったのは。
みんな笑っていて、みんなきらきらしていたのに、あの子だけが泣いていたんだ。
八月十五日、その日は川にたくさんの灯篭が流される。
まるで夜の空を小さくしたみたいで、僕は一年の中でその日が一番好きだ。
初めてあの子を見たのは、確かその日だ。
あの子を見つけたのは。
あの子を見つめるようになったのは。
(なぜいつも泣いているのかな)
泣いている人間は苦手だ。
しょっぱくて苦くて、しょぼしょぼしている。黒っぽい。
黒は好きだ。でも人間が黒っぽいのは好きじゃない。
普段ならあまり近づかないのだけれど、あの子がどうして毎日泣いているのか、気にはなる。
だからちょっとだけ隣に行ってみることにする。
泣いている人間は苦手。だからこれはちょっとした気まぐれ。
傘を開いて、ふわふわと降りる。
(着地成功、ぴったり隣)
『ねえ、なぜ君は泣いているの? 毎日ここで、なぜ泣いているの?』
人間に僕の姿は見えないし、声も聞こえない。
(返事は期待しない)
『君が泣いてると気になっちゃう。泣いている人間はいやなんだ。しょっぱいし、苦いし、黒っぽくてしょぼしょぼしてて』
「そんなのわたしの勝手でしょう」
人間に僕の姿は見えない。
(僕のことが見えるの)
「大体何よ、いきなり近寄ってきたと思ったら、嫌いだのしょっぱいだのって。余計なお世話よ。あなたまだ子供でしょ、さっさとお家に帰りなさいよ」
声も聞こえない。
(僕の声が聞こえるの)
『僕のこと見えるの? 声が、聞こえるの?』
「見えるし聞こえるわよ。……まさか、自分は幽霊だとか言うんじゃないでしょうね」
『幽霊じゃないよ』
「じゃあ死神? 私の魂を食べに来たの?」
死神!
あいつらに味なんてわからない。あいつらはお腹さえいっぱいになればそれで良いやって、そういう奴らだ。
(あんな奴らと一緒にされるだなんて、心外だ)
『僕は死神じゃないよ。あんなやつらと一緒にしないでよ。僕はもっと、グルメなんだ』
「……なんだ、死神じゃないの」
どうして残念そうにするのだろう。
(死神のほうが良かったような顔、しないで)
『死神に来て欲しかった?』
「そうね、あなたみたいなみょうちきりんな子供よりはね」
『失礼だなあ』
「本当のことでしょ。雨も降ってないのに傘なんて持って。ほら、お母さんが心配するわよ。お家に帰んなさい」
『僕にお母さんはいないし、お家も無いよ。この傘は雨が降らなくても毎日持ってるんだ』
「何を言ってるの?……交番に連れてった方が良いのかな」
『交番に行っても、お巡りさんに僕のことは見えないよ。僕のことが見えた人間は、ここ百年でキミだけ』
「なんなの? 気味の悪い」
『ねえ、どうして死神に来て欲しかったの?』
「あなたに関係ないでしょ」
関係あるよ。
(気になっちゃうんだ)
泣いている人間は苦手なのに、そばに行ってみたくなる。
(話しかけてみたくなっちゃうんだ)
『どうして毎日泣いてるの?』
「……」
『八月十五日からずっとだよ』
「どうしてそんなことまで知ってるの」
『ずっと見えていたから』
「わたしを見張ってたの?」
『ちがうよ。僕は夜に生きているから、昼間のキミのことは知らない。だけど夜にここで泣いているのは見えていたよ』
「なんなのよ、本当に」
『ねえ、どうして?』
どうしてそんなに悲しそうな顔をしているのだろう。
(僕に何かできたら良いのに)
「付き合ってた人が、死んじゃったのよ。もう会えない。つらいの。いっそ忘れてしまいたい。でも忘れることなんて出来ない。出来るわけないでしょう。だから」
『だから?』
「……だから、もう、死んでしまいたい」
『そっか、恋人が死んじゃったんだ。それで泣いていたんだね』
「そうよ。……どうしてこんなこと、あなたに話さなくちゃいけないのよ」
『死んでしまいたいほど悲しいから、恋人のことを忘れちゃいたいんだね』
「だからそうだって言ったじゃないの」
『なら、僕が忘れさせてあげる』
「は?」
僕は夢を見ない。僕が夜に生きているから。
(見つけた、僕にできること)
『僕なら恋人の事を綺麗さっぱり忘れさせてあげられるよ』
「何を言ってるの。馬鹿にしてるの?」
『馬鹿になんかするもんか』
馬鹿になんかしていない。
泣いている人間が苦手なだけ。
(笑っているキミを見てみたいだけ)
どうしてそんなに怒っているのだろう。
(それだけだから、そんなに怒った顔をしないで)
『この傘に入ってみて。綺麗さっぱり忘れられるよ』
「……いやよ」
『どうして? 忘れたいって言ったのに』
この傘に僕と一緒に入る。
そうすれば、つらい事なんて全部忘れられる。
僕は夜に生きているから。
(キミを助けてあげられるのに)
「なんなの。傘に入ったら、忘れられる? そんな簡単に忘れられるわけがない。そんな奇跡みたいなことがあったら、苦労しないわ。一体全体なんだって言うの! 人をおちょくって、何が楽しいのよ!」
『僕は獏バクだよ。おちょくってなんかない。獏は人間の夢を食べるんだ。だから、キミのつらい事、ぜんぶ夢にして僕が食べてあげる』
「……意味が分からない」
『分からなくてもいいよ。人間には僕が見えないし、僕のことを知らないんだ。今日話したことだってどうせ忘れてしまうよ』
「仮に、仮にあなたがそうだったとして、あなたになんの得があるの」
『得? そうだなあ、夢を食べればお腹いっぱいになるよ』
泣いている人間は苦手だけど。
(もうキミの泣いているところを見ないで済むよ)
「納得いかない。……そんな簡単に忘れたくもない」
人間って起きているときはこんな生き物なんだなあ。
泣いたり怒ったり驚いたり、天邪鬼で忙しいね。
(ああ、もう、めんどうくさい)
『もう、おしゃべりはお終い』
「え」
傘を開いて、僕はふわふわ浮き上がる。
そのままキミの上まで移動して、地上に降りれば、ほら。
(キミに泣いていて欲しくないんだ)
『僕の傘に僕と一緒に入れば、ぜーんぶ僕が夢にして、一つ残らず食べてあげる』
「あっ」
『おやすみなさい、良い夢を』
やっぱり泣いている人間は苦手だ。
(これで、明日の夜は笑っているキミが見られる)
しょっぱくて苦くて、しょぼしょぼしている。黒っぽくて、濁った味がする。
(それなら、ま、いっか)
『ごちそうさまでした』
僕は夢を見ない。
僕が夜に生きているからだ。
星と月の間に僕は紛れて、夜の中に生きている。
黒い服を着て、黒い靴を履いて、黒い傘を持って。
そうして僕は、人間に会いに行く。
星も月も人間も、きらきらしていて僕は好きだ。
僕は獏。夢を食べて生きている。
音楽から小説を書く 津久美 とら @t_tora_t
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