物言わぬ友人

帳 華乃

愛する苔を知らぬ者達へ。

 高層とも言えない八階建てのマンション。その三階の一室に住んでいる男がいた。三十代前半だろうか。少し白髪が見え隠れしている。女っ気のない部屋は整頓されているが、所々に埃は積もっている。

 そんなありふれたワンルームにも、印象に残る物が一つ。窓辺に置かれた小さくて丸い苔と、スティールの霧吹きだ。


 僕には趣味と呼べる物が限り無く少ない。が、一つだけ、苔の世話が挙げられる。

 二年程前の今頃に、何らかの用事があってホームセンターへと足を運んだのだが、その時に幾つかの理由があり購入した。


 多くのホームセンターでは出入口の前、つまり外に植物が陳列されている。その隅でひっそりと(恐らく肩をすぼめながら)販売されていた。どれ程隅かと言うと、建物の影がかかっている上に、特定の、それもかなり遠い位置に車を停めなければ視界にも入らないと言った具合である。

 その不憫さに心惹かれた。ついでに言えば、苔達の寂しそうな声が聞こえた様な気がしたのも理由の一つである。僕には恋人が居らず、長くても一年程交際したら去っていく為、寂しさを頻繁に感じていた。友人は少ないが居る。だが飲みに行く程度の仲で、共に旅行へ行くといった話すら上がらない距離感であった。

 その為共感だか同情だかをしてしまったのかもしれない。


 どの様な切っ掛けであれど、僕は苔に陶酔してしまった。限りなく脇役でありながらも強く生きているものだから、勇気にも近い生命力を分け与えて貰った。仕事で疲れた精神すら癒してくれる。たったこれだけでも恩義を感じるが、彼等は更に、その力強さを僕にわけてくれた。それは大きな自信に繋がり、生き甲斐にすらなったのだ。

 僕は彼等を、『物言わぬ友人』と呼ぶようになった。


 植物は常に人間と対等であってくれる。

 我々が必要に応じて水やら栄養やらを与えると、彼等は空気を綺麗にした。その空気を吸い込むと気分は清々しくなり、肺は新鮮な空気に喜ぶ。

 そんな目に見えない恩恵を、確実に人間にとって良い影響を与える苔達の健気で控え目な性格を、僕は好んだ。少なくともその様に妄想する事を好んだ。


 今日のような湿度の高い雨の日は、霧吹きも不要だろう。苔は高い湿度に大変喜んでいた。一方僕は偏頭痛に悩まされている。真逆の心持ちでの過ごし方となるが、共同体にも似た感覚を覚えるから、雨は嫌いじゃない。同じ天気を共有している事が、嬉しかった。

 梅雨はいい。冬は乾燥を避け、苔にとって良い環境にする為に、暖房を使用できない。その点だけは難儀を示してしまう。


 苔に触れた事があるだろうか。

 ふさふさと柔らかく、同時に湿り気を感じる……と言えばわかりやすいが、魅力があまり伝わらない。苔の魅力を語るには言葉がまだまだ足りない。僕が知っている言葉は、少なすぎる。

 苔には多くの種類があり、勿論生息地も多岐にわたる。

 沢山の種類の中から僕は、岩、と言っても小さな物だが、それに生えている物を選び、購入した。

 丸々とした形状に惹かれ、何故か見つけた瞬間に愛着を持ったのだ。選んでいる時に店員に声をかけられたのも、購入した決め手であろう。


「霧吹きで時折水を与えれば、綺麗な緑色を保ってくれますよ。他の植物に比べるとかなり地味ですが、手はあまり掛かりません。苔マニアという言葉が存在するくらいに、隠れた趣味としてとっても人気がありますよ」


 その勧誘にまんまと僕ははまったのだった。店員は「苔をお世話する上で困った時は、気軽にご相談ください」とビジネススマイルを浮かべた。

 僕はレジへ向かい、会計を済ませたのだった。


 帰ってからインターネットで苔について調べてみると、夏、特に梅雨の時期が最も活き活きとするらしかった。

 僕は夏が大嫌いだ。暑さの予兆である梅雨が嫌いで、虫も嫌いで仕方がない。じめじめと身体にまとわりついて、逃れようのない暑さ。じりじりと肌を焼く熱さ。蝉の煩い声で夜も眠れない。そんな夏の全てが嫌いで、だから冬を好んだ。

 そんな夏嫌いも、苔のお陰で少し克服する事となる。僕にとっては大きな変化だった。


 苔を霧吹きで湿らせ、毎日眺めているうちに、会社での疲れも癒されるようになった。

 日々を苔と過ごすうちに、苔無しでの生活が考えられなくなる。ペットとして犬や猫を買うのと何ら変わらない。植物は物言わず、自ら動くことは無いが、確かに生きているのだから。


 あの緑色の小さな植物が胞子を飛ばし、どうにか命を繋いでいる。そんな健気さに手を差し伸べたくなるのは僕だけだろうか。いや、魅力に取り憑かれた人は決して僕だけではない筈だ。今は多肉植物が流行りで、あちこちのお店で人気商品のポップが貼られている。苔ブームがいつ来るやも知れぬ。

 それなのに陰気だの根暗だのと偏見を囁く奴らこそ、陰気ではないのか!

 ……少しばかり感情的になり過ぎたが、何事にも偏見は持たないに越した事は無い。これは、僕の座右の銘だ。

 視野が狭いと考えも狭まる。それは仕事にも人付き合いにもあまり良くない影響を与えると思うのだ。


 彼は、決して友人がいないわけではない。偏見を持たないという座右の銘は、確かに良い影響を与えている。誰にでも優しく、仕事での悩みも相談されれば向き合う。『誰にでも優しい』この事が、彼を恋愛から遠ざけている事を、彼は知らない。でも、それだけが独り身である理由ではない。

 彼には大きな欠点がある。それはここ迄彼の語りを聞いた者ならわかるだろう。

 彼は、好きな物に関して、並大抵でなく、面倒臭いのである。

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