第一話 準備 三

 シュレルと別れていったん宿に戻る。

 宿屋の親父の前を通過しようとして、彼女が最初に「三泊四日」の予定で部屋を押さえてくれたことを思い出した。

 買った自宅の悲惨な現状からすると、修繕が終わるまではとても住むことが出来ない。すると、当面の間は宿屋住まいを継続するしかなかろう。

 そこで宿屋の主人に「さらに四泊、合計で七泊八日」の長期滞在で話をしてみると、地球のホテルよりは愛想がよくないものの、交渉自体はスムースに進行した。

 まあ、延長分の宿泊料は先払いで、日程を短縮しても返金はないという宿屋に有利な条件で合意したから、当たり前のことではある。

 いずれにしても、これで「概念や価値観に関して大きな差異がない」というシュレルの言葉の裏を、ある程度取ることが出来た。

 もちろん、仮にも女神様が間違ったことを言うわけがないのだが、実際に体験してみないとどうにも落ち着かないものである。

 太陽の傾き具合から、まだ夕食の時間までは間があると考え、部屋に戻ってシュレルから聞いた話を思い出しながら、それを記録に残すことにした。


 一.言語について


「話は最初から通じるようにしておく。でないとどうしようもないからな」

「シュレルの言葉の読み書きが可能、ということですか」

「そういうことだ。ああ、元の世界の言語体系もそのまま記憶に残しておくから、時と場合に応じて使い分けると良い」

「有り難うございます。ところで、シュレルにはいくつ言語があるんですか?」

「シュレル語だけだよ。私は面倒なことが嫌いだからね」

「ふうん。こちらの世界には高い塔を建てようとした者がいなかったのですね」

「どういう意味かね、それは?」

 それはさておき、不動産屋に行く途中に路地の露店で、質はさほどではないがまあまあ書きやすい紙のようなものと、鉛筆に近い黒色の筆記用具が売られていたので購入しておいた。

 それに日本語とシュレル語で同じ内容の文章を書いてみる。

 驚いたことに、いずれの言葉も支障なくすらすら読み書き出来た。

 言語体系すべてを頭に直接インプットするとは恐れ入ったものだが、それを応用すれば人格そのものを完全入れ替えすることもできそうに思う。

 そう考えて、少し背筋が寒くなった。


 二.経済について


「シュレルの貨幣も一つしかない。価値は――まあ、日本円の十倍ぐらいだと考えれば良い」

「何でそこで日本円基準が出てくるんですか? シュレルさんは日本に行ったことがあるのですか?」

「ないよ。前に転生させた日本人がそんなことを言っていたので、そう言ったまでのことだ」

「あ、私の他にも日本人がいるんですね」

「いるよ、日本人以外もだけど。まあ、あまり表立ってそんな様子は見せないように、とお願いしてあるけどね」

 なんだかご都合主義にもほどがあると思うものの、分かりやすいのは正直助かる。

 シュレルの通貨単位は「ルード」だから、一円が十ルードということだ。

 宿屋の宿泊料は七泊分で合計二十一万ルードだったから、一泊が三万ルード――三千円程度というところか。

 東京や大阪にある簡易宿泊所並だが、トイレと風呂が共同だから似たような価格設定なのだろう。ただ、部屋の大きさが七畳近くあるのは嬉しい。


 三.国家について


「シュレルには三つの巨大国家――コルセア王国、神聖ユリシア帝国、アドレリア共和国がある。それ以外に自治権を有する小国があちらこちらに点在していて、たまに小競り合いが起きることもある」

「平和というわけではないのですね」

「民族によって主義主張が異なるのは世の常だよ。加えて人間と妖精――シュレルでいうところの”フィクセル”と魔物――シュレルでいうところの”ガデル”が混在しているからな」

「妖精や魔物ですか?」

「人間の尺度から見た場合の分類だがな。比較的性格が温和で益になる魔法を使う者が妖精であり、好戦的で害になりやすい魔法を使うのが魔物というだけのことだ。本質的には違いはないし、人間と交配可能だ」

「交配……ですか」

 私が今いるのはコルセア王国の王都コルセニアで、人間の支配地だから街中にいるのも殆どが人間だった。

 フィクセルにしてもガデルにしても、もともとは人間から分岐した種族であるから外見上の特徴は僅かで、性格や魔法特性の違いだけで民族として分けられているという。

 ――なんだか勝手な分類だな。

 一瞬そう考えてから、実のところ地球の民族の考え方とさほど違いはないことに気がついた。


 四.魔法について


「シュレルでは、誰でも簡単な魔法ぐらいは使えるようになっている。例えば、料理に使うぐらいの火は出せるし、飲料水や氷を精製することも出来る」

「電気はどうですか?」

「強めの静電気程度ならば出せることは出せるが――電化製品はないから意味がないな。それから、あまり使い過ぎると魔素の濃度が低下してしばらく使えなくなることがあるが、まあ日常生活でそこまで必要になることはあるまい」

「家電って、また他の転生者から聞いたんですか? まあ、それはよいとして――怪我や病気の治療や遠距離瞬間移動なんかは出来ますか?」

「そこまでになると高位の魔法属性を持つ者でないと無理だね。無論、それでも物理法則の及ぶ範囲でしか実現はできないから、最高位でも細胞の活性を高めて傷口を塞ぐとか、鳥ぐらいの速さで空を飛ぶのがせいぜいだな」

「ふうん――あれ、それで魔王と互角に戦えるほどの能力になるのですか?」

「ならないね。全ての面において最高位の魔法特性を持つ魔王に対抗するには、人間がもともと持っている魔法特性だけでは難しい」

「えっ、じゃあ駄目じゃないですか」

「魔王に対応するためには、神――要するに私が特別に授けた魔法属性を持つ『魔道具』や、因果律を歪める『恩寵』が必要になる。しかし、シュレル固有の民に生まれながらの素質として与え過ぎると、変な方向に逸れてしまうのだ」

「変な方向……ですか?」

「そう。なにしろ、日常生活で便利に使えるからね。最初からそうだと、努力しなくなるからな」

「ふうん、そういうものですかね」

「だからこそ、転生者や転送者なのだよ。魔王を斃すことを条件として魔道具や恩寵を付与することが出来るからな。それでも、魔王と戦うには集団戦闘に持ち込まないと勝機がないぐらいの力量差があるがな」

「そうですか――って、シュレルさんが自分で斃せば、話は早くないですか?」

「いやいや、そうはいかないんだよ。魔王だって私の創造物なんだから、あまり恣意的に消したりしたら不味いじゃないか」

 なにが不味いのか、今ひとつ理解出来なかったが、まあ、女神なりのけじめというのがあるのだろう。

 ともかく、実際に魔法が使えるかどうか試してみることにする。

 部屋の中に小さな陶器があったので、それを机の上に置く。

 それからシュレルから教わったように「頭の中、後頭部のほうで”水”という文字を意識し、そこから額に向かって時計回りに回転させるように文字を移動させ、器に注ぎ込むところまで想像」してみた。

 すると、予想外にスムースに空中から水が湧き出して、器に注がれてゆく。飲んでみると冷たくて美味しかった。

 温度調整も可能なのだろうかと思い、続いて”お湯”という文字をイメージして同じようにやってみる。

 すると、風呂にちょうどよい加減のお湯が注ぎ込まれた。実に具合が良い。

 思わず両手を合わせてシュレルに感謝してしまった。(その仕草が正しいかどうかは分からない)

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ココロの魔術士 準備中 阿井上夫 @Aiueo

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