箱庭カプリチオ
ロッキン神経痛
箱庭カプリチオ
昔からおばあちゃん子だった俺は、小百合ばあちゃんの葬式で顔がくしゃくしゃになってもう二度と戻らなくなるんじゃないかと思うくらい泣いた。
享年89歳。死因は心筋梗塞。
忘れもしない8月8日木曜日の午後6時半。ばあちゃんは台所で母ちゃんと夕飯の支度をしている最中に急に倒れた。俺は隣の茶の間で一部始終を見ていて、生まれて初めて救急車に電話を掛けた。
相手を落ち着かせるためなのか、オペレーターのいちいち間延びした声にイライラした。指示を受けながら、母ちゃんが人工呼吸、俺が心臓マッサージをしたけれど、サイレンと共に救急隊員がやってきた時には既にばあちゃんは亡くなっていた。その当日まで、全く死の気配を感じさせない最期だった。
通夜。葬儀。
小規模ながらも近隣から集まった親戚が口々に、「ピンピンコロリ」だの、「悲しいけれど大往生じゃないか」だのと、とばあちゃんの死に割と肯定的な態度を示しているのが気にくわなかった。
俺にとっては初めての身内の死だったこともあって、大好きだったばあちゃんの死をそのまま受け止める心の容量が無かったのだ。
ちなみに、まだ小2の妹の
まだ若そうな坊さんの上げる念仏を聞いている間中、俺は全身の水分を涙腺から出し切る勢いで泣き続けた。
ばあちゃんの遺影は、ばあちゃんが好んで着ていたよれよれの24時間テレビの黄色Tシャツの代わりに、葬儀屋がフォトショップで綺麗な群青色の着物を着せたものだった。
写真の中の婆ちゃんは、本当に幸せそうで、これほど良い笑顔の写真は他になかったと母ちゃんが言う。
肌つやがずいぶんと若い頃のばあちゃんを見て、一体これはいつの写真だと問う俺に、母ちゃんは語った。
これは、ばあちゃんは生まれたてほやほやで猿の赤ちゃんみたいな俺を抱きかかえている写真を切り抜いたものなのだと。
そんな話を聞かされては、泣き止むことなんて出来るはずがなく、俺は脱水されたぬいぐるみみたいになるまで更に泣いた。
坊さんの説法も終わり、ばあちゃんを送る儀式は完成した。
あとは翌日、火葬場で荼毘に付されるだけだ。
人の身体を焼いて灰にするなんて野蛮だと俺は思う。
人は、特にばあちゃんみたいに良い人は、もっと美しい結晶になるべきだ。
残された家族のために、名前の刻印がされた真っ赤なビー玉をひとつコロリと残して、あとは空気中にキラキラと霧散するべきだ。それなら俺だって、人が死んでいくことに少しは納得出来るのに。
ドライアイスと一緒に箱に詰められるのも美しくないと思う。
あんなのまるで鮮魚みたいじゃないか。
俺は1人憤りながら、精進料理のお寿司も全然食べずに一足先に家に帰った。そしてただひたすらに眠った。
その翌日。
ばあちゃんの実存が、いよいよこの世界から消える8月11日。
その日は永遠にやってこなかった。
少なくとも、今日のところは。
◇
……。
本日269回目となるばあちゃんの葬儀の参列者は、坊さんを除けば俺と亡くなりたてほやほやのばあちゃんの2名だけだった。
「ここのサビのとこが韻踏んでて好きねんて、不生不滅不垢不浄不増不減是故空中」
15歳の夏の日から通算5年と2ヶ月が経っても高校の学ランを着ている未だ大人になれない俺は、葬式の最前列で、同じくいつまでも死に切れないばあちゃんと並び、武光さんの般若心経を聞きながら、合掌かつ合唱していた。
この5年間で随分と仲良くなったのだが、我が家から徒歩5分の距離にある常称寺の住職である武光さん(23歳)は、最初のばあちゃんの葬式がデビュー戦だったそうだ。
彼の祖父、つまりお寺の先々代の住職がばあちゃんの中学の同級生だという縁があったらしい。
俺が号泣した1回目の
思えば5年前は、お経に耳を傾ける余裕すらなかったものだ。
「
自分自身に両手を合わせながらばあちゃんが言う。
景くんとは孫である俺のこと。影久は父ちゃんのことだ。
「ああ、父ちゃん達は昨日から好美連れてディズニーランドに行ってるわ。帰りはリセットに任せるらしい」
「ぢずにー、あのお祭りみたいなとこか」
「そうや、また行きたいか」
「いやもう行かん、ばあちゃん暑い中で並ぶの嫌いやから」
「そうやったな」
生前1度もディズニーランドに行ったことのなかったばあちゃんを連れ、俺達は5度目のリセットの直後に一家で東京(含む千葉)観光をしたことがあった。
新幹線に乗るのも初めてだというばあちゃんが、時速300キロで流れる車窓を眺め、道中ずっと不思議そうな表情をしていたのを覚えている。
あ、ちなみにリセットというのは、この終わらない8月現象を指した言葉である。俺達は終わらない1週間前に閉じ込められていて、5年経つ今でも未だ解放される目処はたっていない。
つまり両親と妹達は、8月10日に寝て起きれば8月4日の朝に戻って我が家で目が覚めるというこのリセットの特性を活かした小旅行を現在催行しているという訳だ。
注釈ついでに解説しておくと、リセットの効果は花園市に住む人間に限っているらしい。
そのことに皆が気づいたのは、市内の経済活動が本格的に崩壊した2度目のリセットの時。市内の商店が軒並み休業状態に陥る中、食料を求めて花園市外に出かけた人々が、全く混乱の起きていない世界を見たのだ。
やれこの世の終わりだと戸惑う俺達をよそに、そこにはまるでゲームディスクの中のNPCキャラみたいに、平和な繰り返しの日常を送る人々が居た。
つまり何故か何の特徴も特産品もない田舎の地方都市である花園市に住む住民5万人だけが、繰り返す時間の中に取り残されている可能性があるってこと。
この仮説は市民にとって心細いことこの上ないが、そのおかげで我が妹君一行は本日も通常営業を行っている夢の国に行けているのも事実だ。ラッキーだね。
市民の中には、この現象を前に早々に心を病んでしまう人間が続出しているというのに、我が家の呑気さには身内ながらあっぱれである。さて、
「
俺は再びお経を口ずさみながら、ばあちゃんの遺影を見た。
本日の遺影は、ばあちゃんの所持している写真の中で最も若い頃から選ばれており、戦後流行ったというおかっぱツーブロックスタイル(別名ちびまるこちゃんカット)をキメた5歳のばあちゃんの白黒写真の引き延ばしが使われていた。実際の享年との年齢差は84歳と完全にギャグの領域である。
しかしこれは悪ふざけではなく(かなり疑わしいが)、毎度の退屈な葬儀に少しでも変化を、という故人ことばあちゃんの遺言が反映された結果だった。
というのも武光さんは、ばあちゃんの1回目の葬式以降、毎週欠かさず読経をしに来てくれているのだ。
もうこの際、葬式なんてやらなくても良い、と何度も言ってはいるのだけれど、その度に武光さんは穏やかな笑顔を浮かべて以下のように言う。
『好きで来ているので平気です』
もしくは、
『いつかリセットが終わった時に後悔したくない』
『きっと弥勒菩薩のご意志があるのです』
そう繰り返す彼は、全くお人好しなのか頑固者なのかその両方なのか分からないが、5年と2ヶ月の間、毎週自分のためにお経を上げてくれる人がいることは今日も祭壇で眠るばあちゃんにとっては有り難いことこの上ないのは確かだった。
お経が終わり、ばあちゃんが深々と武光さんにお辞儀をして「本当にありがとうございます」と決まったお礼を言う。目の端はいつもうっすらと涙。
武光さんも「極楽浄土に行ってもおかわりなく」なんて挨拶して綺麗に剃った頭を下げる。死者と坊さんの貴重な歓談シーンだ。
ちなみに。
さっきからナチュラルにばあちゃんが登場して俺と談笑しているけど、棺の中にはちゃんと婆ちゃん本体が眠っている。つまりこのばあちゃんは幽霊って訳。
仕組みはさっぱり分からないが、リセット前の3日間、つまりばあちゃんが死ぬ木曜日の午後6時半から土曜日の深夜0時まで、ばあちゃんは幽霊となって俺達の前に存在している。
当たり前だけど、最初からこうだった訳でもない。
5回目のリセットでモヤのようなものが皆に見え始め、10回を超える頃にはばあちゃんの声まで聞こえ、15回以降ははっきりと実体が現れてちゃんちゃん、今に至る。
一方、武光さんには最初からずっと幽霊のばあちゃんが見えていたらしい。
お寺生まれって凄いと俺は思った。
さて、
以前はこの後、業者が用意してくれた精進料理を一家で食べて家に帰るという流れがあったのだけれど、社会的混乱が始まった2度目のリセット以降はすっかり取りやめられてしまっている。
だから今日も俺達は業者から預かっている合い鍵で葬儀場の戸締まりをして、のんびりと歩いて帰路に着くことにした。5年と2ヶ月全く同じ昼下がりの午後。成長もしないのにそれでも栄養を取り込もうとする腹を撫でながら、今日の夕飯を何にしようかと考える。
「やっぱり週末はカレーかな」
リセット前に買い込んだせいで、何度使っても無くならないルウを使用したカレーは、俺の中ではリセット前の週末を飾る定番メニューになっていた。
「カレーなら、あれ、じゃがいもはラップせんと別に回しといたら美味しいわ」
意訳すると、電子レンジでラップをせずにじゃがいもを加熱すると、表面カリカリ中身はホクホクの美味しい具材になりますよって意味だ。
「ああ分かったわ。ばあちゃんも食べる?」
なんと幽霊モードのばあちゃんは、十分に実体化してからは飯を食べることも出来る。当人曰く、そんなに腹は空かないそうだが。
「ばあちゃんは良いわ、これから行くところがあるんや」
「え、一体どこ行くん」
「……人捜しや、まだどこにおるんか検討つかんけど」
そう言ってばあちゃんは家に着くなり、黒地に紫色の花の刺繍がビーズでされた老人特有のハンドバッグを持って再び外に出た。ばあちゃんは、たまにこう言って出かける。多分、死ぬ前に(死んでるけど)会っておきたい友人や恩師を探しているのだと思う。
それにしても、手荷物を持っていくなんて今回の旅は結構本格的なようだ。
「ええと、景君、アレどうやるんやったっけ?」
「こうだよこう、指を二本立てて額に当てんの」
靴を履きながら尋ねてくるばあちゃんに、俺はそう返して身振りで正しいポーズを伝える。するとばあちゃんは右手を裏向きピースの形にしておでこに当てた。ちょうど一昔前のギャルみたいに。ちょっと違ってるけどまあいいか。
「ほんなら、いってきます」
「いってらっしゃい」
ムムム、と難しい顔をした後でばあちゃんがふっと消える。
これは見たまま、瞬間移動と呼んでいるものだ。
なんと幽霊モードのばあちゃんは、ヤードラット星人に教えて貰わなくても悟空よろしく瞬間移動が出来るのだ。
以前に俺が、冗談のつもりで教えた技が上手くハマり、想像がつく場所ならどんな離れた場所にも行けるらしい。
パスポートを生涯持たなかったばあちゃんが、瞬間移動を使って聞いたこともない国を見てきたという話を聞く度、ちょっとだけ死んでみたいとも思うのである。
……。
ばあちゃんの言うとおり作ったカレーは美味しかった。
明日は、カレンダー上の8月11日の日曜日。つまり、またリセットが起きて8月4日の新しくない朝がやってくる。俺はタオルケットにくるまり、スマホで隅々まで読み尽くしたネットニュースをぼんやり眺めながら眠りについた。
◇
「ただいまー!」
今日も元気いっぱいの好美が2階から降りてくる。後ろから見慣れた寝癖をつけた両親も現れた。皆パジャマ姿だが、さっそく前日(今週末?)のディズニー旅行の思い出話を俺に話して聞かせてくる。
「またパーク内で例の迷子が居たからさ」
父ちゃんが寝癖を撫でながら言う。なんでも前にも同じ日に見かけた迷子を、今度は親からはぐれる前に助けたのだそうだ。
「ちょっとしたスパイ映画みたいだったよ。やっぱり、女子トイレではぐれてたわ」
母ちゃんもそう言って自慢げだ。時間が繰り返している以上、週末になればまたその子は迷子になってしまうはずだけれど。
それから一通り今回のショーがどうだとか東京で食べたものがどうだという話を話半分に聞いていると、今度は和室に繋がる障子が開いて、何故か既に寝間着から普段着に着替えたばあちゃんが現れた。
「おはよ、探してた人は見つかった?」
「ああ景くん、それより今何時や」
「ちょうど11時だけど」
「そうか、あんたらも着替えなさい。もうすぐお客さんが来るから」
ピンポーン
一体誰が、と言う前に玄関のチャイムが鳴った。
「初めまして、わたくし
玄関口。
黒い法被姿の若い男がうやうやしく頭を下げた。
ばあちゃん以外の家族全員があんぐりと口を開けているのも無理はない。高野山といえば和歌山県。つまり今言った彼の言葉を信じるなら、リセット現象が始まってから初めて、市外どころか県外から我が家に客人が来たということになるからだ。
市外の人間はリセットの範囲外にあるはずなのに。
「そんな、一体どうやって」
俺が無意識に声にしていた問いかけに、朧月はそれはごもっとも、と深く頷く。
「皆さんが驚かれるのも無理はありませんし、何よりこの私が一番驚いております。昨日、いえ市外の人間からすれば今週末ですが、こちらの小百合さまが幽体で私の元に現れて、花園市に起きている奇妙な現象のことを話してくださったんです。
私がいかように時を越えこの街に入ったかという苦労話はさておき……」
一呼吸。
「長い間、本当にお疲れ様でした」
言って頭を下げる朧月さんの前に、すかさずばあちゃんが出て深くお辞儀をする。
「死人の戯れ言にも関わらず、遠路はるばるようこそおいでくださいました。狭いところですが、どうぞ上がってやってください」
そうですか、では失礼して。
と、茶の間に向かう2人の後ろ姿を、まだ事態を飲み込めていない俺達が見守る。
なぜか首の後ろがじんじんと熱く、体中が汗ばんできているのは、繰り返しの日常に甘え切っていた俺がこの変化を前に、永遠の8月が終わるという予感を感じているからに他ならなかった。
◇
「率直に言いますと、これは時喰いの仕業に違いないでしょう」
そそくさと着替えた俺達一家を前に、湯気立つ棒茶を飲みながら、ひどく猫背な朧月さんは言う。しかし、残念ながら率直すぎた。
聞き慣れない単語以外の情報が何も伝わってこない。それは彼を招いたばあちゃんも同じだったらしく、はあ、と気の抜けた返事を返すに留まっている。俺はしんと静まってしまった茶の間で最初に口を開いた。
「なんですか、ときくいって?」
「時喰いとは魔物。それも非常に珍しい種類の魔物の名です。実はこの話を聞いた時から検討はつけていたんですが……実際この街に入るまでは信じられませんでした」
「まもの!?」
好美がすかさず高い声を出す、あからさまに嬉しそうだ。
「今聞き間違えじゃなければだけど、魔物って言いました?」
「ええ、言い間違えなくその通りで。申し遅れましたが私、このような者でございます」
言って素早く懐から差し出された両手には、一枚の名刺に以下の文言。
『全日本払い屋連盟 会長 朧月 誠』
「あの失礼ですが払い屋、というのは?」
今度は父ちゃんが、おずおずと話しかける。まだこの人物への対応を決めかねているといった感情が顔に出ていた。
「払い屋とは、魔を払い魔物を打ち払うこの世の掃除人です。要は、時代に取り残された陰陽師の類いとご理解ください」
おんみょうじ。
頭の中で古いCGアニメが再生される。悪霊退散、悪霊退散。
「時代に取り残されたなんて、謙虚なことやね」
どの程度事情を知っているのか、ばあちゃんはそんな相づちを打つ。
「否、これもありのままを申し上げたまでのこと。
なに、今皆さまのご表情を見ても分かります。ちまたに溢れる占い稼業と違い、陰陽師など胡散臭く感じて当然。
ましてや払い屋など聞いた事もないでしょう……トホホ。我々が連盟を称してお払い箱と自嘲し始めてから随分と久しいのです」
朧月さんは猫背を更に丸くして、黒い法被の袖で顔を拭ってしょんぼりとした顔をする。下唇が膨らんで今にも泣き出しそうだ。考えや気持ちがすぐ顔に出るタイプのようで、胡散臭いことは確かだけれど、どうやら悪い人ではなさそうだと思った。
「その、朧月……さん? 僕らは5年もこの異常な一週間に閉じ込められてるんです。だから今更何が起きても胡散臭いだなんて思いません。払い屋でも陰陽師でも結構です。それでその、時喰いっていう魔物? を倒せばリセットは止まるんですか」
異常な一週間とやらを、実は家族で最も率先して楽しんでいたはずの父ちゃんが、真剣な表情をして言ったこの言葉に、周りの皆は元より言った本人まで息をはっと詰まらせた。
リセットが、止まる。
「リセット。なるほど記憶を残して因果だけが全て元通りになる。この現象の本質を掴んだ呼び名です」
朧月さんはそう言って頷くと、俺達一人一人の顔を見るようにしてゆっくりと続けた。
「ええ勿論、魔物を打ち払えばリセットは止まります。問題はその時喰いがどこにいるかということですが……なに、これだけ大規模な災いです。すぐ見つかりますよ」
未だ思考停止している俺達を前に、彼はリセットは止まるとあっさり言ってのけた。
しん、と再び茶の間が静まる。朧月さんは俺達がそんな反応をするとは思っていなかったらしく、いかにも居心地が悪そうだ。
「あの、どうかしました?」
「すみません、私達ちょっとびっくりしちゃって」
母ちゃんが、深い溜息をつく。その溜息に俺達の複雑な思いが全部代弁されていると思った。少し間を開けてばあちゃんが続ける。
「まあ、こんなもん、きっちり終わらせんといかんのや。朧月さん、どうぞよろしくお願いします」
ばあちゃんが頭を下げるので、俺達も慌てて続いた。
リセットが、止まる。
それは水が高いところから低いところへ流れるように、世の中が当然の形に戻ることだ。
「いやあ、そんなにかしこまられると困っちゃうなあ」
このつかみ所のない男が、本当に時間を元の形に戻してしまうとしたら……。
困ったな、どうしよう。
何が困るのかも分からない、そんな不安のモヤが胸の中いっぱいに膨らんでいるのが分かった。
◇
「お集りの皆様方、受け入れがたいかもしれませんが今週末でリセットは終わると考えてください」
翌日、混乱を招かない範囲で人を集めてくれと頼まれて、近所に住む親戚や、竹光さんを自宅に呼び、朧月さんに話をしてもらった。
もしかすると誰も信じてくれないかもしれない、なんて心配は無用だった。
この長い繰り返しの中、小さな地方都市で一度も会ったことのない部外者が目の前に現れて、リセットを終わらせに来たと言っている。
あらゆる変化と無縁になっていた住民達は、この異変一つを取って信じるに足るものだと判断した。いや、信じたかったんだろう。
皆最初は不安な反応を見せ、話を聞いているうちにどこか達観したような表情になっていくのが分かった。ああついにこの時が来たのか、なんて安堵と諦めの入り混じった顔だ。
「高野山とおっしゃいましたが、一体どこの宗派のお寺でらっしゃるんですか」
朝の勤行を終えて来た法衣姿の竹光さんが質問すると、朧月さんは小さく笑った。
「払い屋の中には兼業坊主もいますが、私は特に決まった宗派には属しません。代わりに、あらゆる寺の軒先を借りてきました。だからと言っちゃなんですが、無名とはいえ腕に自信はあります。お宅の御本尊にも、さっき挨拶は済ませてありますよ。曰く「足元には十分気をつけよ」との言付もいただいております」
「なぜそれを……」
言って竹光さんは、周囲の怪訝な目に応えるように黙って法衣の裾をめくった。左足には巻かれた包帯が見える。
「今朝、本堂で転んだんです。私以外、誰も知らないはずなのに」
この不思議なやり取りで皆の朧月さんへの信用は決定的になったらしく、リセットが終わることを皆が何度も確かめ、「ええ、勿論」と彼が答えるだけになった。
しかし、その日を含めて3日間。時喰いという魔物とやらを討ち払ってリセットを止めると豪語したはずの朧月さんは、全くと言っていいほど我が家から外へ出ることはなかった。
「力を蓄えてるんですよ」
そんなことを言ってあくびをしながら、縁側のサッシにもたれかかって呑気に昼寝をしていたり。
かと思えば家の前でひらひらと舞う蝶々を楽しそうに追いかけてみたり。
そのくせ朝昼晩と、尋常じゃない量のおかわりをするもんだから、5年間買い足し不要だった我が家の冷蔵庫が、木曜日の朝にはすっかり空っぽになってしまった。
「もうすぐ、時間やな」
8月8日木曜日の6時25分、ばあちゃんが正座をして仏壇の前に座っている。これが最後になるかもしれないと普段バラバラに過ごしている家族も、今度ばかりは自宅でばあちゃんと同じ時間を過ごすことを選んだ。
「影久、家の謄本は押入れの金庫の中や」
「ううっ、母ちゃん……」
「桜さん、あなたは最高のお嫁さんや。これからも明るくこの子を支えてやってくれ」
「お義母さん、本当にありがとうございました」
「景くん、好美ちゃん。よう食べて大きくならんといかんよ」
「ばあちゃん! 死んじゃやだ!」
言って泣き崩れる好美。
俺はぐっとこらえて一言だけ。
「…分かった」
この時が来たらきっと泣かない。今度こそ、ばあちゃんに心配はさせないでおこうと俺は心に決めていた。
「いってらっしゃいませ、小百合さま」
最後に朧月さんが三つ指ついて頭を下げる。
6時30分。
横になったばあちゃんが、少しうっと顔をしかめてから静かに息を引き取る。すると半開きになった口元から白い煙が立ち上り、まるでランプの魔人よろしくしゅるしゅると幽霊ばあちゃんが現れた。
「はい、ただいま」
そう言ってにこりと笑う幽霊になったばあちゃん。
すぐ外に待機していた竹光さんを呼び、最初の葬式よりもずっと人が集まった葬式で、みんなで記念撮影までした。帰ってきてからは、好美たっての希望でトランプで大富豪をやった。何度やっても大体ばあちゃんが大富豪で、俺は良くて平民止まり。
朧月さんはルールが分からないからと嘯き、ずっと部屋の隅で眠り続けていた。
◇
翌朝、納豆をかき混ぜながら、ついに朧月さんが時喰いなる魔物を探しに行くと言う。
それにすかさず着いていこうとしたのが妹の好美だ。
彼女は待っていましたとばかりに早速動きやすい服装に着替え、自分のリュックまで背負うという張り切りぶりだったのだが、
「あ、景さんにご同行願います」
とそっけない一言で朧月さんにたしなめられてしまった。ただ断られるだけならまだしも、わざわざ兄へご指名がかかったものだから不機嫌になってしまうのも無理はない。
「もういいもん!」
と、好美は実年齢に似合わない幼い捨て台詞と共にどたどたと階段を駆け上がっていく。
「えっと、どうして俺を?」
玄関で支度をしている朧月さんに、まだスウェット姿の俺が問う。
「お母さまに、街で一番人が集まっている場所を教えて頂きたいとお願いしたところ、それなら景さんに連れていって貰えと言われたんです」
なるほど、そういうことか。
「街一番なら、ウチの高校で間違いないと思います。でもあそこ今、北斗の拳になってるから……」
「北斗の拳とは?」
「あ、世紀末ってことです」
「はあ」
あまり漫画に詳しくないのか、気の抜けた返事をする朧月さん。
「景、やばくなったら全力で走りな」
「景くん、分かっとると思うけどよう気をつけてな」
勝ち気な笑顔で見送る母ちゃんと、心配そうなばあちゃん。
「大丈夫だよ」
「そうだ、小百合さん。ちょっとお話を……」
ばあちゃんの耳元で、朧月さんが何かを話している。ばあちゃんは何度か頷いた後、
「承知しました」
とだけ答えた。
「用は済みました。さあさあ景さん、鬼退治に出かけましょうか」
やけに上機嫌な朧月さんを連れて向かうのは、家から自転車で約30分。山沿いに位置する花園北高校。通称ハナキタ。俺の在籍する高校だ。
地元ではそこそこの進学校だったのも今は昔。リセットが始まってからは訳あり人間が大量にたむろする場所になってしまっている。
俺はキコキコと油の足りない自転車に乗って、同じくギイギイと自転車のギアを軋ませながら付いてくる朧月さんを先導する。
「景さん、どうしてこんな裏道から行くんですか。地図で見るとあの通りをまっすぐ行くだけみたいですけど……」
自転車を降りて徒歩で用水路沿いに移動する俺に、朧月さんが背後から話しかける。
「大通りは危険なんです。連中がウヨウヨしてて……朧月さん、隠れて」
とっさに俺は何かを察知して、更に路地裏のビール箱の影に身をひそめた。
直後に、大通りの方からいかにもガラの悪そうな声が聞こえてくる。
「な、100人殺したらリセット抜けれるらしいんだって、な!」
「馬鹿、マサ君もよっぴー先輩も余裕で100殺してるだろ」
「そういや
「は? メッチャ良いことマジか。んならオレも200目指してみるか」
「な、頑張ろう、な!」
そんな物騒な会話をしている3人の声の後ろに、アスファルトを引きずる音と小さなうめき声が被さってくる。
「うう、ゆるして、ゆるして」
首元に食い込む縄を両手で押さえながらうめき声を上げている男の横顔には見覚えがあった。確か高校の化学教師だ。身体中、いたるところが傷だらけで、衣服もボロボロになっている。
毛のむしられたブロイラーのようになった頭髪も、きっとこの3人組にやられたのだろう。
目を背けたくなるほど悲惨な状態にある彼の首元から伸びる縄は、語尾に特徴のある一際大きい男の手元に繋がっていた。
「さっきから、うるさいんだ、な!」
突然激昂した男が、大きくジャンプして片足を化学教師の頭に乗せる。踏み抜く。
どこか間抜けな音と共に、化学教師は物言わぬ抜け殻になる。
俺は手遅れながら、その惨状から目を背けた。
これは、リセット後に発生した花園市の暗部だ。
永遠に続く時間の中、人の心を捨てて凶行に及ぶ者が現れたのだ。
最初はほんの数人だった者が、リセットが続くにつれ増えていき、今では100人から150人。彼らは自らをプレイヤーと呼び、この世界を仮想現実のように見立てて精神衛生を保ち、まともな人間を狩りの対象として襲い、時に殺してまわっている。
幸い花園市の中央部以南――つまり俺の暮らす街周辺は、地域住民が警察と連携して自警団を作り治安を守っているものの、無法者が俺の母校を本拠地にしている現状は在校生としてはたまらなかった。
「サダキヨ! 早速記録更新じゃねーか!」
「やってやった、な!」
「いや、こいつ殺すの何回目だよ。ノーカンノーカン、ちゃんと個数で数えねえと」
死体を前に、そんな冗談を言って笑い合う男達。この三人組は、川向こうにある花園南高校、通称ハナミナ(ハナキタと名前は似ているけれど、生徒の「質」は比較にならないほど悪い)の3年生。リセットの始まる以前から非常に評判の悪かった連中だ。
「狂ってる……」
小さく息を漏らしながら、何も手を出せない自分に苛立つと同時、俺は自分の目を疑った。
「お、朧月さんっ!?」
目の前で立ち上がり、狭い路地裏から真っ直ぐに大通りへ。連中の方へと向かっていく猫背の黒い法被姿。恐ろしい三人組の目線が、目の前に突然現れた男に、そして俺へと向けられる。
「何やってるんですか!!」
ついにたまらず路地から飛び出して、俺は朧月さんの肩に手をかけた。
「いや、ついね。我慢ならなくなっちゃって」
言って半身をこちらに向ける朧月さんの顔を見てゾッとする。
なぜかって? この人、この状況で笑ってるんだもの。
「これまで魔に囚われた人間なんか幾人も見てきましたけどね。ここまで濃いのは初めて出会いましたよ。しかもあんたら、魔に囚われるなんて甘っちょろいもんじゃない」
「誰だてめぇ」
「コスプレ? あ、ブリーチなん? 何とか言えや、あ?」
鬼のようなメンチを物ともせず、3人組に向き直った朧月さんは、人差し指を男達へ順繰りに差す。
「あんたも、あんたも、あんたも……全員立派な魔物だ」
表情は見えないけれど、きっと朧月さんはあのあまりにも不気味な笑顔を浮かべているに違いない。心なしか向き合っているプレイヤー達の顔が引きつっているように見えた。
「ハァ……まもの?」
「頭おかしいんか、おまえ、な!」
「あんま見かけねえ奴らだな。とりあえず殺しとくか?」
3番目の細身で長髪の男が、まるでこちらを見えていないかのようにリーダー格らしい筋肉質な男に問いかけた。奴らというからには、当然俺も含まれているんだろう。すると筋肉質な男は感情のこもっていない目で、朧月さんと、そしてその後ろで震える俺を一瞥して言う。
「まあ目つきがキモいからな。そろそろバケガク君も飽きてたし、次の奴隷にするか。リセット後も会えるように、拷問して住所吐かせてから殺そうや。サダキヨ、まずは死なない程度に頼むわ」
はい終わった、最悪の展開だ。
居所を掴まれてしまえば、逃げようがなくなる。
俺は校区の裏道も抜け道も全て熟知している。だからこの先も絶対に連中に見つからない自信があったのに。
ああ、どうしてこの人は突然飛び出したりなんかしたんだクソ!
身バレするくらいなら、いっそ今すぐ自殺するか? いや駄目だ、今回でリセットは最後になるんだから。もし仮にリセット出来たとしても、その間に身元を特定する手段なんていくらでもある。つーか普通に死ぬのは怖い! こうなったら、逃げるしかない。
「走ろう朧月さ
俺が逃亡の提案をし終わる前。
そして、サダキヨと呼ばれた頭の一層悪そうな大男が、あっという間に朧月さんの目の前に立ち、明らかに人間離れした両手の拳骨を彼の頭に振り下ろそうと構えた直後。彼の身体は、綺麗に横三分割になった。
ちょうどマジックショーで人体切断に使われる箱みたいに。
「だあああああっ!! だああっ!!……」
絶叫。動脈から噴出する血液。急激に低下した血圧による気絶、絶命。
輪切りの断面図が綺麗に地面に並ぶ人間離れした死体を前に、全員が絶句している。ただ一人の男を除いて。
「ククク、狩られる気分はどうですか。実に恐ろしいでしょう」
そう言って含み笑いを浮かべているのは……朧月……さん?
彼の着ていた黒の法被は肩口まで両袖を捲り上げられ、そこから茶、白、黒の細やかな体毛が生えそろった両の腕と、鋭く尖った4本の爪が見えていた。
それはまるで、というか見たまま
「あなた今、化け猫、と思いましたねぇ?」
「ヒェ!?」
間抜けな声と共に腰を抜かすのは、いかにも軽薄そうな長髪の男だ。その後ろで筋肉質なリーダー格の男は怯えと怒りを器用に混ぜたような表情のまま、黙ってじりじりと後退していく。
「待て……待て待て待て、俺が悪かった!? 頼むよなあおい!」
残された長髪の男は、懇願し、地面に落ちた蝉のように手足をばたつかせていた。ちらりと俺の方を見る目には、一体これは何なのだという混乱が映っている。でも残念ながら、俺もその答えは持ち合わせていない。見つめる目に対して首を横に振ると、男の表情が絶望に変わる。
「分かった! すぐに自首だ! 自首する!? 逮捕、逮捕してくれ!」
ついに目を白黒させながら俺と朧月さんを交互に見る長髪の男の目の奥に、「本当はこの後の運命が分かってるんだ」とでも言いたげな諦めの色がちらりと浮かび、直後に全ての色が消えた。一体どんな力が働いたらこんなことになるのか、今度は縦に綺麗に真っ二つになった人体が、前後ろに別れを告げる。
すると今度は続けざまにガツンガツンと2回、大きな音がした。
見れば朧月さんの側頭部に、明らかに今日使い込まれたばかりの血塗れ金属バットがぶつけられているところだった。
「痛いですねぇ~?」
その間延びした声に、勝利を確信して恍惚としていた男の表情が一瞬で迷子の少年のそれに変わる。
朧月さんは自身の大きな猫耳のあたりを優しく撫でている。
全く動じていない様子だ。
「さて、この世に言い残す言葉は何かございますか?」
「死ね、化け物が!」
「よろしい」
振られた金属バットを朧月さんが爪で弾き飛ばす。キィンと高い音がして、バットは棒切れみたいに飛んでいった。
「つ、次のリセットで必ずぶち殺してやる!」
そんな威勢だけは良い口が、下唇を残して消え去る。
ボールが跳ねるような鈍い音と共に、上唇より上の部分が近くに転がった。
「残念ながら、貴方に次はありません」
言って爪をぺろりと舐める朧月さん。
「さて景さん、隠れて進む必要はもはや無用と存じます。すぐに学校へ向かいましょう」
への字になった目、透き通るようなヒゲ、言葉を話す以外、本当に大きな猫そのものだ。爪を収め、肉球をぽんと合わせながら先を歩いていく平和な後ろ姿と、足元に散らばる骸を見比べた。さっきまで全身を支配していた死への恐怖が弛緩して、じわりと顔中に汗が吹き出てくる。
「……え、ええと」
あまりにも全てが現実離れしていると、人間一周して冷静になるらしい。
「どうかしましたか」
と直立した猫がこちらを振り向いて言うもんだから。
「語尾にニャンって付けないんですね」
やっと俺の口から出たのは、そんな馬鹿げた台詞だった。
◇
「さて、景さん。学校に着きましたね……ニャン」
「無理して付けなくて良いです……すいません、僕が悪かったです」
「そうですか、ご要望にお応えするのも時に大事になるのではと思う次第だったのですが」
「そんなことより! 朧月さん!」
「おっと危ない、しゃがんでください」
言って大きな肉球で頭を押さえつけられ、俺は激しく校舎のリノリウムに顔面をぶつけた。
直後にすぱん! と空を裂くような音がして、地面に一緒に添い寝するように八つ裂きにされたプレイヤーの死体が転がる。
「ヒィ!!!」
「いやあ、またも危機一髪でしたね。それより何か言いかけてたみたいですが」
「いえ……もういいんです……」
朧月さん、悪党とはいえ殺しすぎでしょう!
そんな言葉が虚しくなるくらいに、豪快かつ圧倒的に朧月さんはプレイヤー達を物言わぬ骸に変えていった。
本来の予定では、俺しか知らない第2校舎の裏、施錠していない窓から校舎に侵入して、天井裏からこそこそと中を伺うつもりだったのに、のに。
まさかあの大通りを堂々と歩き、しかも絶対に市内の人間が近寄らない校門側から校舎に入っていくことになるとは夢にも思わなかった。しかし、
『この国の法では3人も殺せば確実に死刑になると聞き及んでおります。ならばここに集まった人間達は、もはや刑を待つ死刑囚も同じ。法治の理から外れた
そう血走った目をしながらそう語る朧月さんを止められる人間がいるだろうか否いない。おかげで校門から校舎までの間に無数の死体が積み重なった死のワインディングロードが出来上がり、俺達の背後はちょっとした巨大迷路のようになってしまっている。
「ううう、臭いよお、人間の中身ってこんな臭いがするんだ、ううう」
「泣き言を言ってる場合ですか。ほら、派手に立ち回ったおかげで敵の頭領が来てくれましたよ」
ぴんと鋭い爪の生えた指差す朧月さん。その先に、明らかに様子のおかしな男が1人立っているのが見えた。
「星亜さん! あいつです、あの猫のバケモノです!」
「分かったぁ……、秒で殺すぅ……」
ふらふらとした足取りで廊下の向こうから歩いてくる星亜と呼ばれた男。
顔色が非常に悪く、肩まで伸びた髪は真っ白だ。
「待ってください、俺は、俺は違います、星亜さ、うわああ!」
悲鳴と共に、取り巻きらしい男の体が宙に浮き上がる。
見ればその体に、星亜の右手から伸びた指が突き刺さっていた。
皮膚の下に潜り込んだ指は、どんどん伸びていき、うねうねと動き、ほうぼうから外へと皮膚を突き破って這い出てくる。それはまるで関節が数十個に増えたような不気味な動きをしていた。
「あ、間違えたぁ……」
星亜が突き刺した指を引き抜くと、5本の指は巻尺のようにぐるぐると丸まっていく。そんな、まるでボーリングの球を片手に持ったようなシルエットをした男が、ゆっくりとこちらに歩いてくるではないか。
「朧月さん……今度こそ逃げましょう。あいつ、人間じゃない」
「おや、それは皮肉ですか」
心底楽しそうに、こちらも明らかに人間ではない朧月さんが言う。
「そんなこと言ってる場合じゃ!」
目をランランと輝かせている朧月さんの手を取って、元来た道を引き返そうとすると、今度はそのまま宙に持ち上げられて、俺は顔面を天井にぶつけることになった。
「朧月さん、そんな」
「これは、退屈しないで、すみそうですね……」
重力に従って落下した俺が、体の痛みも忘れたのは、あんなに圧倒的な力を見せていた朧月さんが身じろぎする間もなく、胴にあの不気味な5本指を突き刺されていたからに他ならなかった。
◇
「すみません、僕のせいで、こんな」
「いいですから、そこでじっと、しててください」
息も絶え絶えになった朧月さんの胸元から、爪の生えた指がもぞもぞと毛皮を破って這い出る。
「はい、捕まえたぁ……」
そして、まるで返しの付いた針で釣られた魚のように、朧月さんは遠く離れた男の元へ引きずられていった。
「お前ぇ、猫なのかぁ? すげーな、お前倒したらぁ何ポイント貰えるかな。俺さぁ、左手もぉ、ゴム人間にしたいんだよね。ゴムゴムのバズーカ、分かる? あれやりたい訳ぇ」
「く……貴方の右手はゴムなんかじゃありません。それはクサレユビ。魔に浸り過ぎた結果、身体が
「意味わからなぁい」
「なら分からせましょう。オン バザラ ギニ ハラチ ハタヤ ソワカ」
突然朧月さんが放った不思議な言葉。
「わららなぁい、なぁいなぁぁぁぁ」
すると星亜の口元から無数の指が、口をびりびりと引き裂くように現れた。あっという間に人間の皮を突き破った指の魔物と化した男を前に、俺は、じんと痺れる腰をふるい起こし、近くの教室へと駆け込む。
逃げるためではなく、戦うために。
ガツン!
「くそっ!」
ガツン!
「その人から離れろっ!」
無数の指に顔を掴まれ、息苦しそうに呻く朧月さんを助けるため、
俺は椅子を、机を、掴んでは投げる。
廊下に居る指のバケモノに向けて、渾身の力で投げつける。
きっとこれは人生一度きりの火事場の馬鹿力だ。
「なに、俺以外にぃぃ、主人ぃ公ぉしちゃゃってるわけぇ」
指の合間から突き出た口が、目が、カタツムリのようにこちらをジッと凝視する。そのあまりのおぞましさに、忘れていた痛みと恐怖が、体の中に戻ってくる。
「景さん、ありがとう。十分時間が取れました……オン ハンドマダラ アボキャジャヤニ ソロソロ ソワカ」
「なにぃ、が十ぅ分じゃぁ? あぁん?」
朧月さんが何かを唱え始めると同時、もはや全身からハリネズミのように指を生やした男の身体中の指という指が、電撃を受けたようにピンと張ったのが分かった。
「ナウマク サマンダ バザラダン カン!
ナウマク サマンダ バザラダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウン タラタ カン マン!」
「おお、お前ぇ、なにに」
「ナウマク サラバタタギャーテイビヤク サラバボッケイビヤク サラバタタラタ センダマカロ!
シャダ ケン ギャキ ギャキ サラバビギナン ウン タラタ カン マン!」
直後に空気が震え、無数の指達は動きを止めた。
どろり、血となり骨となりみるみるうちに溶けていく。
それを朧月さんは片手で振り払い、あるいは体から引っこ抜きながら、もう片方の手で印を結び、何度も空を切る。
「指ぃ、指、ゆびぃ、ゆびぃ……」
指の下から現れた本来の両腕で、溶けていく自分の体をすくうようにあがく星亜と呼ばれた男。彼は、まるで悪趣味な毛皮の絨毯のように、ただ皮と髪だけが廊下に広がる姿へと変わってしまった。
「中身は、向こう側に連れてかれたようです」
そう言って殺されかけた相手の残骸を前に、少し悲しそうな顔をする朧月さん。
肩で息をする彼は、いつの間にか元の人間の姿をしていた。
◇
「ええ、残念ながら彼は時喰いではありませんでした」
「はあ……ってはああ!?」
思わず大きな声が出る。
「気配は十分感じたんですが、どうやらこの校舎内に時喰いはいないようです」
血まみれの廊下で朧月さんがそう呟く。
「いないって、朧月さん、俺達あんなに苦労したのに!?」
「まあ、努力と成果は必ずしも一致するものではないと言いますから」
そう言って涼しい顔をしている朧月さん。ぐっしょり血に濡れた法被を脱ぎ、半裸になった体には、生々しすぎる傷跡が無数に残っている。それでも何故か楽しそうなのは気のせいだろうか。この人、分かってやってたんじゃないだろうな。
「それじゃリセットは……」
「いえ、校舎内にいないというだけで、時喰いの居場所はもう分かりましたよ」
朧月さんは、窓の外を指差した。
……。
「アパート、のようですね」
それは校舎のすぐ裏側に位置する、古い二階建てのアパートだった。
全体的に赤錆だらけ。踏めば抜けそうな階段が両側に付いていて、屋根のトタンも雨水を凌げるのかすら怪しい。それを眺めていると車酔いのように、足元がぐらぐらと揺れるような心地になってくる。
「オン アビラウンケン バザラダトバン」
朧月さんがそう言って、また例の空を切るような動きをする。すると突然視界がすっと明るくなった。
「少しは落ち着きましたか」
「一体なんですかここは」
「これは、この街に空いた鬼門です」
「きもん?」
「この世と魔界を繋ぐ玄関です。鬼門からは地脈に沿って霊道が、つまり幽鬼や魔物にとって快適な道が出来上がります。その霊道が学校の上を通っていたんで、ああいった場に変わってしまったんです」
朧月さんは目を細めて、さっきまで死闘を繰り広げていた校舎の方を見る。恐ろしい程に辺りが静かなのは当然、中にいた連中があらかた死んでしまっているからだ。
「霊道は、通常はちょっと気味が悪いなと思う程度の作用しかしませんが……時喰いと合わさり、時間の繰り返しと共に場の持つ力も増幅されたんでしょうね」
「増幅……」
「ええ、だからこの街は人間にとっては勿論のこと、霊にとっても大変危険な場所なんです」
すぐ頭によぎったのは、ばあちゃんのことだ。
徐々に実体を持ち、はっきり見えるようになったばあちゃんも、もしかすると。
すると俺の考えを察したのか、朧月さんが言う。
「小百合さんが無事なのは、霊体である日数が限られているのと、定期的に魂を清めて貰っているからに他なりません。あのお坊さんに感謝した方がよろしいですよ」
「そういうことやわ。ばあちゃんも、限界が近いと思っててな」
「ばあちゃん?」
声に振り返ると、目の前にばあちゃんが立っていた。片手で作ったチョキを一昔前のギャルみたいに額に当てて。
「死んでからな、幽霊にも何人か友達が出来たんや。何度かりせっとを繰り返す内に、みいんな
その人らから朧月さんの噂を聞いて、前から探しとったんよ。まさか本人が猫の姿をしとるとは思いもせんかったけどね」
「私もまさか、オフの日に見破られるとは思いもしませんでした」
「ありがとうね、朧月さん」
「いいんです、おかげで久々に楽しい遊びが出来ましたから」
聞けば朧月さんは、この幽霊になったばあちゃんにしか出来ないことのために、大体の目星をつけていた時喰い探しを今日になるまで放置していたのだという。
「やっぱり、学校は最初からついでだったんじゃないですか」
「ばれましたか」
ぺろりと舌を出して朧月さんが笑う。
「……さて、景さん。最後にお願いがございます。あの扉を、開けてください」
「あのって……あの扉ですか」
「ええ、私達ではいけません。生きた人間が触れて開く仕掛けになってますから」
「うわぁ、なんか嫌だな」
ひと目見て分かる、二階の左の角部屋。
ねっとりとした、それでいてまとわり付いてくるような変な気配がしていた。
「なに、さっきまでの連中に比べたら何も恐ろしいことはありません。
時喰いっていうのは、実は大変に優しい魔物なんですよ」
ぎしぎしと階段を上がり、手に錆び粉の付くようなドアノブを握る。
「鍵がかかってるけど……」
「そうですねぇ、普通にノックしてあげましょう」
言われるまま、トントンと軽くノックをするとドアの奥からタッタとこちらに駆けてくる気配がする。
がちゃりと鍵の音がして、こちら側に扉が開いた。
「お母さんじゃない……」
不思議そうな顔でこちらを見上げるのは、ごく普通の小さな女の子だった。
◇
「初めまして、私は朧月。こちらが小百合さんで、彼が景くん。みんなで君を迎えにきたんだよ」
「あたし、
「こんにちは、ミカちゃんに……トモくん」
朧月さんが、そう言ってミカちゃんとその奥に居る何かに挨拶をする。
俺とばあちゃんは、何も言葉が出てこなかった。トモくんと紹介されたのが、薄茶色い前掛けを付けた古ぼけた地蔵だったからだ。
玄関から小さな廊下を経て、前方に玉のれんのかかったキッチンが見える。その境目あたりに地蔵は立っていた。
「トモくん、どうしたの? いきなり黙っちゃって」
女の子が話しかけるが、当然石で出来た地蔵が喋るはずもない。
「多分、ちょっと疲れちゃったんですよ。休ませてあげましょう」
「そっか、分かった。中に入る?」
「お願いします」
明るい笑顔に促されて、俺たちは彼女の家に入った。
床には白い埃がうず高く積もり、やたらと小さな虫が飛んでいる。片付いてはいるものの、倉庫然とした生活感のなさが小さな女の子と合っておらず、逆に不気味だった。
でんと廊下の中央に鎮座した地蔵を横目に、腰下までの長さがある玉のれんをくぐってキッチンへ。
手で壁を探ってスイッチを入れてみるが反応がない。やはり電気が止まっているらしい。
「朧月さん……これって」
「これは、わたし」
手を合わせている朧月さんの代わりにミカちゃんが答える。
「ミカね、お腹すいて死んじゃったの」
キッチンの壁に寄りかかるように、骨と皮だけになった小さな子供の亡骸が座っていた。
「ほんにむごいことを」
ばあちゃんが口を抑え、涙をぽたぽたと流す。まだ亡くなって数日といったところだろう。魂が抜けきった身体は、口を半開きにし、床を見つめていた。
「でもね、今はもう全然へーき! ここでトモくんとお母さん待ってるの」
ゴトリ、と背後から音がしたので振り向くと、玉のれんをくぐり、床を滑るように地蔵が現れた。思わずぎょっとするが、トモくんは俺達3人と向き合った後、頭のてっぺんから勢い粉々に砕けた。
破片は更に小さく割れて、瓦礫は粉に、粉は砂に、しまいにはそれすら床にでも吸い込まれるように消えてしまう。
「あれっトモくんどっか行っちゃった」
途端にミカちゃんが、驚いた顔で部屋中を探し始めた。
「きっとこの子には、同年代くらいの男子にでも見えていたんでしょう」
どたどたと、足音もさせずに駆け回るミカちゃんを目で追いながら、朧月さんが静かに言う。
「時喰いは、元の形を持たない無力な魔物です。きっと、この子の身体がここで腐っていくのが哀れだと思ったんでしょう。両親が帰ってくるまで、あるいは誰かが見つけてくれるまで時間を固定して何度も繰り返させていたんです」
「朧月さん、俺……すぐに通報します。この子をこんな目に遭わせた親に、自分のしたことの重さを思い知らせてやります」
「ええ、是非そうしてください。我々も、我々の出来ることをします」
そう言って朧月さんは両手の形を何度も組み替えて、例の不思議な言葉を口にする。するとさっきまで暗かった部屋が、照明もないのにパッと明るくなり、ねっとりと身体中にまとわりつくような死臭が消えた。天気の良い日の昼下がりのような、風呂上がりにあたる扇風機の風のような、ほっと安心出来る幸せな気持ちが腹の奥から湧いてくる。
「見えてますか」
「ええ、見えます」
「それが極楽です。人の命が目指すべき終着点ですよ」
「ああ、ああ、なんて」
綺麗なんだろう。
窓も壁も黄金に溶けて、地平線の向こうまで小麦色の草木が揺れている。その現実感のない風景の奥に、うきうき顔のミカちゃんの手を引くばあちゃんの姿が見えた。待って、俺もそちら側に連れて行ってくれと一歩足を踏み出すと、
ばあちゃんは首を横に振って何かを口にした。
はっと夢から覚めたように、気づくと俺は暗い部屋の中で佇んでいた。
「小百合さまは、何ておっしゃってましたか」
すぐ脇から声をかけられ、心臓が跳ね上がる気持ちになる。
見ればそこに、汗と血で体をぐっしょり濡らした朧月さんが立っていた。
「私は世の理からも外れた人猫ゆえ、彼女を極楽に連れて行くことはおろか、見ることも叶わないんです」
そう言って、これ以上ない程、心の底から残念そうな顔をしている。
「いってきます」
「はい?」
「天国にいってきます、とだけ」
私も一度言ってみたい言葉ですねえ、と朧月さんは笑った。
箱庭カプリチオ ロッキン神経痛 @rockinsink2
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