第7話 男は覚悟が大事なんや
鉄子さんによると、父がミナミの料理屋に知人と行ったとこに、母和子は仲居でいた。父はその日はそれで帰ったが、母の境遇を心配して、また行き、外で逢うようになった。元々和子さんが嫌いで別れた訳ではない。その落ち込みようは大変で、2代目がそこにつけこんで、居座り、後釜に入ったが、店の売上金をへそくった。父はそれが許せず追い出した。鉄子さんはそんな父に本当に同情した。鉄子さんにしたら、やはり良子さんに盗られたという思いは消せなくて、「エトランゼ」の開店になったと思う。
鉄子さんはどちらかというと、父と和子の中が戻り、良子さんに同じ思いをさせたい気があった。同情したふりして、良子さんに情報を提供しているが、腹のそこは見えている。前母だ、一緒に暮らしたのだから、そのぐらいはわかる。
良子さんがえらい神妙になって、僕に訊いた「なんちゅうても、あんたを産んだお母ーちゃんや、逢いたいやろぅ」。目には涙が滲んでいた。
僕は、元木の定さんに相談した。定さんのいいとこは、「子供はそんなこと心配せんでもええとか、知らんでもええとか」子供扱いをしないことだ。僕は定さんからいい言葉を聞いた。「勝ちゃん、男やろ。決断の覚悟のときやで!」
「良子さん、お父ちゃんに話したい事があるねん。一緒に本店に行ってくれへんか」といい、向かいの前母鉄子さんに立会人をたのんだ。「お父ちゃんに話しがあるよって、行くわ」に一人で来るものと思っていたのが、前と現が一緒に現れたので「何事!」と父は泡くったようであった。
僕は父に言った。男の覚悟で言った。
「お父ちゃん、今まではお母ちゃんが変わっても、僕はなんにも言わなんだ。子供の口が出せることでもないし、お父ちゃんが嫁さんと決めたら自動的に母になりはるもんやと思ってた。産んだ母は僕に何にも言わずに出ていった。お父ちゃんも辛かったけど、僕かて辛くて寂しかったんやでぇー。もう、お母ちゃんが変わるのは嫌や。初代の母をもう一度おカーチャンとはよう呼ばん」
父は何も云わなかった。良子さんは泣いていた。鉄子さんの目にも涙が滲んでいた。
良子さんは〈田村〉を〈多村〉にかえた。良子さんと、鉄子さんは昔のことを忘れたように、商店街の道の真ん中で立ち話をするようになった。良子さんは雨が降っても笠は持ってこなくなった。僕は中学校に進み、高校は大阪市内の進学校に進んだので、本店に帰り、父と一緒に暮らすことになった。鉄子さんは入学祝いやと云って、パーカーの万年筆をプレゼントしてくれた。僕の欲しかったものだ。
良子さんは週に一泊2日で帰ってくる。僕は勉強部屋をかねて、鉄子さんや、良子さんが使っていた、裏のアパートの部屋を借りてもらった。今は〈住み込み〉とかは無くなったが、彼女らの苦労や、大変さは私の娘なんかには話してもわかるまい。
田辺本通り商店街は今やシャッター通りになって商売はきかなくなった。父は60才で亡くなった。良子さんはそれを期に藤井寺の店を売り払い、老いた両親のいる、北海道礼文島に帰った。毎年利尻昆布を送って来てくれる。鉄子さんも店を引いて、お花やお茶と芸事に明け暮れていると、耳にした。商店街で育った私だったが結局商売の道には入らなかった。
藤井寺に行ったら8軒の菊水商店街を覗いてやってほしい。〈タムラ〉や〈エトランゼ〉はないが、商店街は今もあるはずだ。
***
エー 大和と河内の国境
中にひときわ悠然と
ヨーホイホイ エンヤコラセ
ドッコイセ
そびえて高き金剛山よ 建武の昔大楠公
その名も 楠正成公 今に伝えた民謡
河内音頭と申します 聞いておくれよ
荷物にゃならぬ 聞いて心も
うきうきしゃんせ
気から病が出るわいな
歌の文句は小粋でも 私しゃ未熟で
とってもうまくも きっちり実際まことに
みごとに読めないけれど
八千八声のほととぎす
血をはくまでも つとめましょ。
了
資料:
今 東光(こん とうこう、1898年3月26日 - 1977年9月19日)は、横浜生まれの天台宗僧侶(法名 春聽)、小説家、参議院議員。大正時代後期、新感覚派作家として出発し、出家後、長く文壇を離れるが、作家として復帰後は、住職として住んだ河内や平泉、父祖の地、津軽など 奥州を題材にした作品で知られる。
天台宗総本山延暦寺座主の直命により大阪府八尾市中野村の天台院の特命住職となり西下する。天台院は当時檀家が30数軒の貧乏寺であった。その住職を、
「オイ。ワレ。こんどの和〈オ〉っさん(和尚さんの意)。エライ、ヤマコ張っとる《ペテン師》やナイケ。」などと噂し合ったという。摂河泉、畿内古代道を渉猟し、檀家信徒と接する衆生教化の日々の中に、河内人の気質、風土、歴史への理解を深くし、東大阪新聞社『河内史談 第参輯』1953 に「天台院小史」を執筆。「河内はバチカンのようなところだ」「歴史の宝庫だ」と、作家魂が蘇生、個人雑誌『東光』を刊行した。のちに文壇復帰のきっかけとなる「闘鶏」を取材執筆しながら、「ケチ(吝嗇)・好色・ド根性」といった河内者の人間臭と、土俗色の色濃い河内地方の方言や習俗に親しんでいった。のちにエンターテイメント作家としての代表作のひとつとなる『悪名』の主人公、朝吉親分のモデルとなった、岩田浅吉との出会いもこのころであった。
前年1956年に裏千家の機関誌『淡交』に1年間連載していた『お吟さま』で第36回直木賞を受賞し、一躍流行作家として文壇に復帰する。
檀家の話は、ケンカだ。バクチだ。ヨバイだ、ジョロカイだって、そればかりでしょ(笑)。放送局(BK:NHK大阪)が取材に来て録音してっても放送できないっていうのヨ(笑)。」「それでいて、夜中になると、そのテープ、みんなで聞いてはゲラゲラ笑ってるんだって(笑)。あのテープ、どこかに残ってないでしょうかね。」(「驚きももの木20世紀」「知ってるつもり」等、民放取材にこたえての夫人談)
『悪名』は1961年に勝新太郎、田宮二郎出演の映画(大映)となりシリーズ化されるほど大ヒットした。
1973年11月の瀬戸内晴美の中尊寺での出家得度に際しては、師僧となり「春聽」の一字を採って「寂聴」の法名を与えた。
1968年には参議院議員選挙全国区に自由民主党から立候補、当選し1期務めた。
河内・菊水商店街物語 北風 嵐 @masaru2355
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