第7話 雨の降る日に

 両親が神社で働いていたので、幼い頃から僕はその神社で遊んでいた。

 晴れた日は境内で探検ごっこをし、雨の日は社から境内を眺めて過ごした。

 やがて小学生になり、家は神社とは別のところにあるので、神社に来るのは週に三回程度になった。

 小学生になって一週間程経ったある日、僕は雨の降る日に神社に行った。そして、母に宿題をやるように言われ、社で算数ドリルを開いていた。

 ふと窓の外に目を向けると、境内の中に一つの傘があった。その傘の持ち主の少女――と言っても僕と同じくらいの年だろう――は、一言で言うと、とても美しかった。少し茶色がかった髪は肩の上で切りそろえられていて、目は少し細く、つり目だった。

 小学生ながらも美しいと感じたのは、雨雲のあいだから顔を出した陽の光が丁度彼女に当たっていて、天から降りてきたみたいに輝いていたからかもしれない。

 それから雨の降る日に神社に行くと、必ずその少女がいた。

 僕は彼女のことを、神社の神様の使いなのだと思っていた。



 中学校に通うようになってから二度目の春が訪れた。

 始業式の日は朝から雨が降っていた。

 町は静まり返り、満開の桜は泣いているようにみえた。

 僕はその静かな町を傘をさして歩き、制服のズボンの裾を濡らしながら学校に向かった。

 風は穏やかで、雨は一定のリズムで傘に落ちていた。

 道にできた水溜まりに落ちる雨が波紋をつくり、その波紋はゆっくりと広がってゆく。それを眺めていると、水溜りの中に吸い込まれそうな感覚に陥る。それがなんだか、心地好い。

 学校に近づくに連れ、静まり返っていた町が暖かさを取り戻してゆく。泣いていた赤ちゃんがお母さんにあやされて笑うように。

 楽しそうに話す声や笑い声が増え、傘の数が増え、やがて学校が見えてきた。

 校門を抜けると少し冷たい風が吹いた。その風は傘の中に冷たい雨を運んできた。僕は足早で昇降口へ向かった。

 昇降口でクラス表が配布され、そこにかいてある自分の出席番号と同じ番号の下駄箱に靴を入れた。

 上履きをカパカパと鳴らしながら階段を上り、新しい教室のドアを開くと、一瞬、クラスメイト全員の目が僕に集まった。そしてすぐに何もなかったかのように僕から目が離れていく。

 友達が、いないのだ。だが残念だとか悲しいという気持ちはない。だってもう、独りになれたから。去年も独りだったから。

 というか、僕は友達の必要性を感じていない。どうせあと一年もすれば別れるんだし、友達ができたとしても、馴れ合うだけの仲だろうし。

 学校が終わるまで誰に話しかけられることもなく、休憩時間は静かに小説の世界へ逃げ込んで過ごした。


 学校は午後で終わり、昇降口で靴を履き替えていると声をかけられた。

「虹乃君」

 顔を上げると、そこにはニッコリと笑った少女が立っていた。

「はい……」

 反応に困っていると、親切に自己紹介をしてくれた。

「私は美並河原美雨。よろしく、虹乃神惺君」

「よろしくお願いします……」

 僕がそう返すと、彼女は不満げな顔になった。

「敬語はやめましょ。息苦しいから」

 彼女は歩きだし、何となく隣りに並んで歩いた。帰路の方向は同じだった。

「……わかった。敬語はやめるよ。で、なんの用かな?」

 彼女は空を見上げて微笑んだ。

「どうして、あなたの周りはこんなにも寂しいのかしら?」

 初対面でいきなりこんなこと言ってくる人なんて滅多にいない。友達がいない僕を馬鹿にしているのかもしれない。

「桜が散ってしまうのが悲しいからだよ」

 今は雨が止んでいるので、桜はもう泣いていない。

「そうね。桜が散ってしまうのは悲しいことだけれど、桜は散るから美しいと思えるものなのだと私は思うわ」

 わけのわからないことを言って早くどこかへ言ってもらうつもりだったのだが、どうもそういうわけにはいかないらしい。

 僕はついむきになってしまった。

「でも、散った桜は踏みつけられて、美しさをなくしてしまうよ」

「そうだとしても、みんなのために散って踏みつけられる桜はやはり美しいものだと思うわ」

 もしかすると、彼女はこういう喋り方しかできないのかもしれない。

 ――どうして、あなたの周りはこんなにも寂しいのかしら?

 その言葉は、彼女にとっての「友達になろう」だったのかもしれないなと、別れたあとにそう思った。友達になりたいときに「友達になろう」という言葉が正しいのかはわからないけれど。


 美並河原のあの言葉はやはり「友達になろう」だったらしく、二年生になってからの一ヶ月間で僕は彼女と親しくなった。

 彼女は少し茶色がかった髪を肩にかかるくらいまで伸ばしていて、目は少し細く、つり目だった。それと関係があるのかはわからないけれど、中学二年生にしては、彼女は大人びているように思えた。

 最初は話しづらかったのだが、綺麗だと感じたものを素直に綺麗と言えるところや、人のいいところを見つけるのが得意だというところが彼女のいいところだと気が付き、苦手意識はなくなった。

 そして一つ、共感できることがあった。それは、雨が好きだということだった。

 丁度今は五月雨の時期で、何日も雨が続いていた。

 そんなある日、六限目が終わってすぐに彼女は僕のところに来た。

「虹乃君、部活はやっているのかしら?」

「いや、やっていないよ」

 彼女は、そう、と言って微笑み、

「今日の放課後、一緒に行きたい場所があるのだけれど」

 と、内緒話のように言った。

 断る理由も特になかったので頷くと、校門の前で待ってると言って彼女は自分の席に戻ってしまった。

 どこに行くのだろう。雨の日に行く場所と言うと、図書館かフラワーセンターくらいしか思いつかない。

 まさか、都会に出て遊園地。なんてことはないと思うけれど。


 放課後、傘を差しながら二人で歩いた。駅とは逆の方向だったので遊園地の心配はなくなり、ほっとした。

 赤信号で立ち止まると、彼女は微笑んで言った。傘で隠れていて表情はわからなくても、口調から微笑んでいるのだとわかるくらいには親しくなっていた。

「傘があると、虹乃君との距離が遠いわね。そこが傘の欠点なのだと思うわ」

 なのだと思うわ。

 その口調で他の女の子が話していたら、少し怖いかもしれない。だが美並河原だと違和感がない。というか、もっと軽い口調の美並河原は想像しづらい。それは大人びているからなのか、それとも他の理由があるのかもしれない。

「それなら傘なんか差さなければいいよ」

「そうね。でも、雨に濡れて風邪をひいてしまうかもしれないわ」

「なら、大きな傘の下に二人で入るというのもいいかもしれない」

「虹乃君は私と一緒の傘に入りたいのかしら?」

「どうかな。そのほうが暖かくて心強いけれど、周りの目が気になるから遠慮しておくよ」

 彼女は傘を少し傾け、僕の方を見た。彼女はやはり微笑んでいた。

「周りの目によると、私と虹乃君は四月から付き合い始めたそうよ?」

「へぇ。それは光栄なことだね。友人もいない僕に彼女ができると思っているということは、友人よりも彼女のほうがつくりやすいということなのかな?」

 友人や彼女を「つくる」と表現していいのだろうか。もしつくるものだとしたら、農作物よりも精密な機械よりもつくるのが大変だ。

「どうかしらね。友人も恋人も同じくらい難しいと私は思うけれど」

「そうかもしれない」

「私は虹乃君の恋人ということでもいいのだけれど」

「……」

 彼女はたまにそういうことを口にすることがある。そういう時はどう対応したらいいのかわからず、結局黙ることになってしまう。

 だが、美並河原との会話は嫌いではない。なんだか、彼女の発する言葉――あるいは声――には、温かみがある。

 しばらくそんな他愛のない話をしながら歩いていると、やがて階段が見えてきた。森の中に続く、とても長い階段だ。その階段を上りきったところには、僕が幼い頃から通っていた神社――錦織大社がある。

 美並河原はその階段の前で足を止めた。

「もしかして、君が行きたい場所というのは、錦織大社?」

「ええ、そうよ」

 ――ああ、そうか。

「……実は、錦織大社の宮司が僕の父で、母はそこの巫女なんだ」

 美並河原は、もしかすると――



 僕の父、虹乃彩星と母、 夐はこの町で生まれ育った。

 ふたりの出逢った場所は図書館で、中学校から高校にかけて平穏で幸せな日常を送っていた。だが高校三年生の秋、 夐は引っ越してしまう。そして五年後、故郷に戻った 夐は、海辺のテトラポットの上で彩星と再会する。その後、父が錦織大社の宮司だった彩星は受け継いでそこの宮司になり、 夐は巫女として働くことになり、ふたりは結婚する。ふたりのあいだに生まれたのが僕、神惺というわけだ。


 長い階段を上りながらそう美並河原に話すと、彼女は嬉しそうな顔をした。

「なんだか、恋愛小説みたいね」

「そうかな。まあ。そういうわけで僕もそのうちここの宮司になるんだ」

 前を歩いていた彼女は立ち止まり、僕の方に振り返った。

「それなら、私も錦織大社の巫女さんになろうかしら」

 雨越しに見える美並河原は、なんだかとても神秘的に視えて、やっぱりそうだと確信した。

 僕が何も言わずにその光景に見惚れていると、彼女はクスリと笑ってまた歩き出した。

 階段を上りきると石畳の道が現れ、その先に錦織大社はある。

五月雨の時期になってからは来ていなかったので、雨の降る境内はとても新鮮に視えた。

 雨の匂いの漂う空気。

 雨の音しかしない静かな境内。

 落ち着いた木々たち。

 雨を跳ね返す葉の音。

 雨に濡れ静かに佇む灯籠。

 すべてがいつもと違うものに見えた。

 僕たちは本堂の前まできてお賽銭を入れ、神様にあいさつをしてから境内を歩いて周った。

 池の中を静かに泳ぐ錦鯉を眺めたり、灯籠とまだ緑のもみじを眺めたり、立ち止まって深呼吸をしたり。

 そのあいだ、僕と美並河原は一言も話さなかった。

 そして境内を一周して本堂の前に戻ってきて、僕は口を開いた。静かな空気を崩さぬように、落ち着いた声になるようにして。

「僕は幼い頃からここに通っていた。晴れの日も雨の日も。小学校になってすぐの頃、僕は毎日、雨が降りますようにと願っていたのを憶えてる。どうして、そう願っていたと思う?」

「さあ、どうしてかしら」

 美並河原の声は少し嬉しそうで、けれど落ち着いていた。

「ここの景色を眺めにやって来る、とても美しい女の子がいたんだ。でもその子は、雨の降る日にしかここに来なかった。僕はその子に会いたくて、雨を願っていたんだ」

 美並河原は僕を見上げて、クスリと笑った。

「私はね、小学校の頃からここの景色を眺めにここに通っていたの。そして雨が降りますようにと願っていたわ。どうしてだと思う?」

「さあ、どうしてだろう」

「ここに来ると必ず男の子がいたの。その子は晴れの日はここの境内で遊んでいたの。私は、その子はきっと神様の子供なのだろうと思うようになって、そう思うとその子を見るたびに胸がドキドキして、落ち着いて景色を眺められなかったわ。でも、雨の降る日にはその子はいなかったの。だから私は、雨を願っていたの」

 彼女がそう言い終わるとまた静まり返り、雨の音が強まった気がした。

「僕は、その女の子のことを神様の使いだと思っていたんだ。その女の子はもしかして、今僕の隣りにいる?」

「私が神様の子供だと思っていた男の子は、もしかして、今、私の隣にいる?」

 互いに、目が合った。

 僕は彼女に微笑みかけた。

 彼女はまたクスリと笑っただけで、なにも言わなかった。



 それからもう一度境内を周り、景色や空気をたっぷりと堪能してから長い階段を下りようとすると、後ろから声をかけられた。とても落ち着いた声で、聞き慣れた声。母の声だ。

「母さん。いたんだ」

 母は穏やかで微笑ましい表情をしている。

「神惺もついに彼女さんですか」

「違うよ。彼女は今年の四月に出逢ったばかりの、唯一の友人だよ」

「それは失礼しました。では、親友さんということでよろしいですか?」

「そういうことなのかな?」

 母は美並河原の方に向いた。

「はじめまして。神惺の母です。神惺と仲良くしてくださり、ありがとうございます」

 美並河原も笑顔で応えた。

「はじめまして。美並河原美雨です。よろしくお願いします」

 母は嬉しそうだった。

「神惺、こんなに美しい女の子と仲良くなれて、よかったですね」

「うん。よかったよ」

 これは本心の言葉だ。

 母とは別れ、僕と美並河原は長い階段を下り始めた。

「虹乃君のお母さん、とっても素敵ね。人前では息子にも敬語なんて、巫女さんをやっているからかしら」

「父によると、出会った頃から今までずっと、誰に対してもあんな感じだったらしいよ。というか、実際家でもそうだし」

「そう……とても素敵だわ。私も敬語にしてみようかしら」

「きみはそのままでいいよ。君が敬語はやめましょうって言ったんだから」

「そうね。でも、敬語は固くて息苦しいイメージだったのだけれど、虹乃君のお母さんはとても穏やかで柔らかい雰囲気だったわ」

「君が敬語になったら話しづらくなってしまうよ。本当のことを言うと、僕は君との会話を気に入っているんだ。だから、君はそのままの方がいい」

 美並河原は少し考え込んで、

「そう。あなたがそう言うのなら、そうするわ」

 そう言って、歯をみせて笑った。


 長い階段を下りて木々がなくなり、空が見えるようになった。

 そして、二人合わせて、あ、と声を漏らした。

 雨が止んできて夕日が顔を出していた空に、とても大きくて鮮明な虹が架かっていた。


 僕はこの時、前に父と母が話してくれたことを思い出していた。それは両親の物語でのことだった。

 雨の降る日に図書館で小説を読んでいたふたりは、雨が止んだことに気がつき図書館の外に出る。そこには、とても大きくて鮮明な虹が架かっていたそうだ。その日、ふたりはとても幸せだったと、そう言っていた。


 僕は今、とても幸せだった。

「とても綺麗だわ」

 美並河原が静かにそう言った。


 ちょっとしたことがこんなにも幸せに感じて、その幸せを誰かと分かち合えることができる。僕はそれが、とても嬉しかった。


「きみと仲良くなれて、本当によかったよ」

「私も、虹乃君と親友になれてよかったわ」

 彼女が僕を親友と言ってくれたことが、本当に、本当に嬉しかった。

 美並河原となら平穏で幸せな日常を送ることができるかもしれないと、僕はそう思った。

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