第6話 出会ってから、今まで――喜代野夐

 今までの約三年間。思い返してみると、とても、とても幸せな日々だったように思う。

 私と彩星が出逢ったのは、もう三年以上前のことだ。出逢った場所は、この街のよく目立つ、大きな図書館だった。

 私は雨の日の図書館が好きで、中学生の頃は雨が降るたびに図書館へ行っていた。


 その日は珍しく、館内が騒がしいくらいに人が集まっていた。私は空いている席がないか探し回り、二階の階段付近に椅子がふたつ並んでいるのを見つけた。そのうちのひとつが空いていて、もうひとつには同じ中学校の制服を着た男の子が座っていた。

 私はその男の子に話しかけた。

「あの、隣座ってもいいですか?」

 彼は私の方に振り向き、一度真顔になり、そして微笑んだ。

「いいよ。君、その制服を着ているから、僕と同じ中学校だね?」

 私は隣に腰を下ろし、早く小説を読みたい気持ちを抑えた。

「はい。おそらく」

 彼はまた質問をしてきた。

「三年生?」

「はい。」

 早く小説を読みたい。

「三年二組?」

「はい。……もしかして、同じクラスですか?」

 彼はにっこりと笑って頷いた。

「学級委員の、喜代野夐さんでしょ?」

 同じクラスの生徒の名前も顔も知らないというのは、学級委員としていけない気がする。

「あの、あなたの名前を教えてください」

 彼は面白そうに笑って言った。

「君、学級委員なのにクラスメイトの名前も知らないの?」

「はい。すみません」

「うん。僕は、虹乃彩星。よろしく」

 友人はひとりくらいいればいいと思っていたが、彼とは友人になってもいいかもしれない。何だか気が合いそうだ。直感的に、そう思った。

「よろしくお願いします。彩星、と呼んでも良いですか?」

「うん。いいよ。僕は、喜代野、と呼ぶことにするよ」

 私は嬉しくて、気づけば微笑んでいた。


 図書館を出ると雨はすっかり上がっていて、とても気持ちのいい空へと変わっていた。

彩星と帰り道が途中まで同じだったことと、家が近かったことに驚いてしまった。まだ出逢ってから三時間くらいしか経っていなかったけれど、随分と仲良くなった。

彼の暇潰しのような話しが、とても面白かった。

「本当に優しいということは、どんなことだ思う?」

 こんな風に、いきなり始まるのだ。

 私は質問に答える。

「思いやりがある、親切などと、辞書に載っていました」

 彩星は少し驚いたような声を出した。

「辞書に載っていたことを覚えているの?」

「はい。大体は暗記しています」

「へぇ、それは凄いな」

 彼はそう言ったあとに、話を戻すけど、と言った。

「そう。親切。でも、本当に親切な人は沢山いるわけではないんだ」

「どういうことですか?」

 海沿いに出ると、夕日が見えた。綺麗だ。

「大抵の人は、最初は誰かのためにやろう、と思っていたのに、最終的には見返りを求めてしまう。本当に優しい人は、最初から最後まで他人のことだけを考えて、手を差し伸べる人のことだと思う。あるいは、最初から最後まで自分のためだけに、他人に手を差し伸べる人も本当に優しい人なのかもしれない」

 前者の方は理解できたが、後者の方は理解できない。

「どうして、最初から最後まで自分のためだけを思う人が、本当に優しいのですか?」

 彼は得意げに言った。いや、満足げに言った。予想通りの質問だ、とでも言うように。

「全て自分のためにやったことだ、と言えば、相手は恩返しなんてことをしなくて済むからね」

「つまり、優しくしていることを相手が気にしないようにする、ということですか?」

「うん。たまに、自分だけが優しくされている、なんてことを思って、罪悪感を抱く人がいるんだ。それでは優しくしている意味がないからね」


 こんな調子で、彩星と顔を合わせることも、テトラポットの上で一緒に夕日を眺めることも、当たり前のことになっていった。

 そして中学校を卒業して、高校へ入学した。私と彩星は同じ高校に進学し、同じ組になった。

 一緒に弁当を食べることも、一緒に帰り道を歩くことも、一緒にテトラポットの上に並んで夕日を眺めることも、全て当たり前のことになっていた。


 そんな平穏で、ちょっぴり幸せな日々を過ごしていたある日。

 いつものようにテトラポットの上で夕日を眺めていると、彩星が独り言のように呟いた。

「来週、引っ越すんだ」

「……?」

 私は急な展開に戸惑っていた。

「遠くに引っ越すんだ。だから、もう会えないかもね」

「……それは、本当ですか?」

 馬鹿な質問だ。本当だから、こんなに真面目な表情をしているのではないか。

「うん。全部嘘」

 本当に引っ越してしまうのか。……ん? 私の聴き間違えだろうか。

「全部嘘だよ。だってほら、今日は四月一日だよ。エイプリルフールだよ」

 往復びんたでもしてやろうかと思ったが、やめておいた。なんとか冷静に。

「エイプリルフールでも、嘘を吐いていいのは午前だけです」

 彼は、単純に嘘を吐いたことになる。

「え? そうだったの?」

 私は少し間抜けな彼の性格が面白くて、つい笑ってしまった。でも、良かった。嘘で。

「はい。彩星は嘘吐きだったのですね」

 彩星は苦笑いをして、私の目を見た。漫画だったら後頭部に大きな汗を掻いていそうな表情を、彼はしていた。


 そして今。高校二年生の冬の、放り投げたかのように置いてあるテトラポットの上。

 夕日が沈んで行く頃。私にとっては今のこの時間は、とても特別な時間だった。そして、最後の時間だった。

 ――こんなにも沢山の時間を一緒に過ごしてきて、まだ三分の一程しか彩星のことを知らない気がする。彼は、少し間が抜けていて、優しくて、話が面白くて。そのうち錦織大社という神社の宮司になる人だ。まあ、これくらい知っておけば、とりあえずは親友でいられるだろう――なんてことを考えているうちに、夕日は沈んでしまっていた。というか、水平線の向こうまで群青色に染まっていた。なんだかとても切なかった。

 私は一番星を探しながら、彼の名を呼んだ。

「彩星」

 彼はチラリと私を見たあとに、水平線のずっと上を眺めて言った。

「どうしたの?」

 私は悲しい気持ちを押し殺して、いつも通りの声で言った。あの時の彩星のように。

「明日引っ越します」

 彩星は、少し真面目な口調で言った。

「……今日はエイプリルフールでもないよ?」

 私は彩星にぎりぎり聞こえるくらいの声で、呟くように言った。

「はい。本当に引っ越すのです」

 そして少し沈黙してから、彩星が口を開いた。彼の表情は見えなかったが、声でどんな表情をしているのかが分かった。

「そう。なら、今のこの時間を大切にしないといけないね」

 彼は、微笑んでいた。

「はい。でも、いつかは必ず会いに行きます」

 涙を堪えて、私も微笑んだ。

「うん。そのときまで楽しみに待っているよ」


 そして完全な夜が訪れて、彩星と私は別れ道までのんびりと歩いた。三年間ものあいだ一緒にいた人との別れは、こんなにも辛くて切ない。この三年間がどれだけ幸せだったのか、私は今実感している。

 別れ道で向かい合って、別れの言葉を交わし、握手をしてから別れた。家に着いても、握手をした右手に彩星の体温を感じた。

 いつか必ず会いに行こうと、心から思う。またあの場所――放り投げたかのように置いてあるテトラポットの上で、夕日と一番星を、彼と一緒に見るために。


 *


 五年後の十月十六日の黄昏時。

 あの放り投げたかのように置いてあるテトラポットに行くと、もみじみたいな紅のマフラーを首に巻いた彼が夕日を眺めていた。私は微笑んで、そっと、彼の横に腰を下ろした。



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