第5話 もみじの紅と、冬へのマフラー――喜代野夐

 予報通り雨と曇りの日が続き、太陽が顔を出した頃には、すっかり秋へと突入してた。

この前まで耳障りだった蝉の声は、とても昔に聞いたような気がして、何だか懐かしく感じる。

 街を歩いている人々も、学校中の生徒も、教師も、半袖のワイシャツから長袖へと変わっていた。私の鞄の中からも、扇子はもう消えていた。皆の服も、町の風景も、空気の色さえも、秋の模様となっていた。

 彩星と別れたあとの家まであと少しの帰り道で、私はひとり、そんなことを思いながら歩いていた。

 リビングのものも夏から秋のものへと変わっていた。何だか昔からずっと秋で、暑い思いをして過ごしていた夏は夢だったように感じる。私の部屋も秋の雰囲気に溶け込んでいた。前まで風鈴を飾っていた窓際だけがぽっかりと空いていて寂しげに見えたので、いちょうやもみじのイラストのカーテンで寂しい空間を埋めてしまった。


 二週間後。

 今日は、何記念日かは興味がないので忘れてしまったけれど、休日ということは確かだ。休日の日にかぎって、雨が降っていた。つい最近太陽が顔を出したばかりなのに。でも、霧雨よりは少し強いくらいの雨で、窓の外を眺めるのが心地好かった。雨の音はいつ聴いても安らぎを感じる。大雨でも、小雨でも関係なく。

 こんな日には、家で静かに小説を読むのがベストだ。そう考えていたところで、私の携帯電話にメールが届いた。画面には「彩星」とかいてあった。

――今日、予定ありますか? なければ、今から一緒にどこかへ行きましょう。

 私は素早く返事の文面を記入し、返信した。

――了解しました。これから彩星の家に行きます。

 どこへいくのかは分からないけれど、とりあえず鞄を持って家を出た。

 ビニール傘に落ちてくる小さい雨の粒は、すぐに隣の粒と混ざって大きくなった。ビニール傘は、少し穴が空いていた。もう新しい傘を買ったほうがいいだろう。

 彩星の家の前まで来て、インターフォンを押した。中から玄関に向って足音が聞こえた。そして、ドアが開く。

「おはよう、喜代野。いきなり呼び出して大丈夫だった?」

 大丈夫だからここにいるのではないか。それに、今は正午を少し過ぎたくらいだ。

「この時間帯は、こんにちはです。こんにちは、彩星」

「少しだけ待っててもらえるかな?」

 私が、分かりました、と答えると同時にドアは閉まり、三分程経ってから再びドアが開いた。

 歩き出してから少し経って言った。

「どこへ行くのですか?」

「それはもちろん、雨の日に楽しめるところだよ」

 具体的には教えてくれなかったが、大体予想はつく。


 向った先は、ここ周辺ではよく目立つ大きな図書館だ。やはり、ここだった。雨の日に楽しめる場所なんて、図書館かフラワーセンターくらいだ。

 彩星と私は二階へ上がって、読みたい小説を取ってから階段付近の椅子に腰を下ろした。読んでいるあいだは、ほとんど会話はなかった。

 強い雨ではなかったが、雨音は室内にいても充分に聞こえてくるくらいだった。

 何時間か経ってふと腕時計を見ると、十四時半を回っていた。彩星は寝息をたてていた。先程までは足を組んで小説を読んでいたのに。私は小説を棚に戻しに行くついでに、彩星の読んでいたものも元に戻した。

 それから彩星を起こそうとしたが、椅子から落下しそうになって驚いたように目を覚ました。私はつい笑ってしまいそうになったが、図書館は静かにしなければならないので頑張って堪えた。

「おはようございます。では、そろそろ行きましょう」

「……うん。行こうか」

 雨は少し強くなっていた。


 帰り道。少し遠回りをして帰ることにした。いつもは通ることのない、多くの自然に囲まれた道だ。葉に雨が落ちる音がいつもより多く感じた。道路の端にできた水溜りに綺麗な水門が幾つか広がっていくのを見ていると、水溜まりに吸い込まれそうになって、くすぐったいくらいに面白かった。

 ふいに彩星の向こう側にある森に目を向けると、石段があるのを見つけた。

「彩星。あの石段がどこに続いているのか、知っていますか?」

 そう言って、私は彩星から、石段のある方向に目を向けた。彩星もつられてそちらを見た。

「うん。あの石段を上りきると、神社があるんだ。そういえば、今年の初詣以来その神社には行っていなかったよ」

 私は立ち止まって、微笑んだ。

「では、行きましょう」

「あの石段は結構長いよ?」

「大丈夫です。……行きたくないですか?」

 彼は少し苦笑いをしたあとに、にっこりと笑った。

「うん。行ってみよう。本当に長いよ?」

「はい。行きましょう」

 彩星が前を歩いて、私が後ろに付いた。たまに彩星と私の傘が擦れ会うのを見て、何となく微笑んでしまった。

 途中、まだ若いもみじを眺めたり、立ち止まってどれだけ上ってきたかを確認したり、葉の擦れる音や色々なものに雨が当たる音に耳を澄ましたりした。

 二十分くらいかけて、やっと上りきった。その先には石畳の道が伸びていて、その周りに燈篭や池があった。さらにその先を進むと、やがて大きな社に辿り着いた。

「こんなに大きな社があるとは知りませんでした」

 それはとても大きくて、所々に苔が生えていて、とても美しかった。いかにも、優しくて偉い神様が祀られていそうだ。

「久しぶりに見たけれど、変わらず、とても美しい」

 私は悪戯っぽく笑って言ってみた。

「幸よりも、こちらの方が美しいですか?」

 彩星は、驚いたような顔をしてから、困ったような顔になった。先程から、苦笑して、笑って、驚いて、困って。彼の表情が忙しい。吹き出してしまいそうになったので、それをなんとか言葉に変えた。

「冗談です。人と神社は比べるものではありません。でもそこで、幸、と言わずに困っているのは、幸が可哀相です」

「君がそんな冗談を言うとは思っていなかったから、驚いたよ」

 彼の表情は困った顔から、微笑に変わった。


 お参りをしたあとに、境内をぶらぶら歩いたり、池を覗いてみたり、もう一度社を眺めたりした。境内には燈篭が六つあって、池の中には錦鯉が四匹いた。

 石畳を社と反対側に進む前に、神社の名前の刻まれている石を見てないことに気がついた。

「ところで、この神社の名前はなんというのですか?」

 彩星は大きな社を眺めながら言った。

「ここは、錦織大社、という神社だよ。祀っている神様は、錦之御霊という神様だ。その遣いがここの池にいる錦鯉で、この社ができた時からいると言われているよ」

「知りませんでした。どうして彩星はそんなことまで知っているのですか?」

 彼は少しだけ間を置いて言った。

「うちの父親の方の祖父が、ここの宮司なんだ。そのうち僕も、ここの宮司になる予定だよ。もう時期父親の番が来るんだ」

 三年間も一緒にいて、そんなこと知らなかった。やはり、あの時彩星が言ったことは正しかったのかもしれない。

――僕は君のことを全く知らない。君だって僕のことは何も知らない。

 そうだ。彼がここの宮司になるのなら、私は――

「彩星が宮司になった時、私は巫女さんになります」

「本当に? これからここの歴史について学んだりするの?」

「はい。ここの歴史だけではなく、神社のことについても、神様についても沢山学びます」

「そう。なら、そのときが来るのが、とても楽しみだよ」

「はい。楽しみです。本気ですよ?」

 彼は私の目を見て、うん、と答えてから、微笑んだ。私もつられて微笑んだ。

 これから少しずつ、学んでいこう。

 石段を下りきってから腕時計を確認すると、丁度四時になる頃だった。

 家に向って歩いているあいだ、私も彩星も微笑んでいるだけで、一つも言葉を交わさなかった。でも、私にとってその沈黙は温かいものだった。

いつもの別れ道で、やはり習慣付けられたように立ち止まって、二人向かい合った。

「今日は誘っていただいて、ありがとうございました。今日だけで色々なことを知りました」

「うん。僕の方こそありがとう。とても楽しかったよ。そうだ、来年の初詣は一緒に錦織大社に行こう」

「はい。それでは、また明日学校で」

 私は彩星が見えなくなるまで手を振った。


 家に帰って、すぐに風呂に入った。

 ずっと傘を持っていたからだろう。右手が少し痛い。でも、今日一日を振り返ると、その痛みには価値があるように思えた。

 そういえば、彩星の傘にも穴が空いていた。次の休日は二人で傘を買いに行こう。

 筋肉痛になった右腕に、湿布を貼ってから寝た。


 翌日。

 朝からしっかりと晴れていた。外に出ると程よく暖かい。今日はワイシャツの上に、ブラウスを羽織ってみた。一週間前に買った、新しいブラウスだ。

 ふと前を見ると、彩星がいた。私は小走りで、彼に追いついた。

「おはようございます、彩星。最近は早いですね」

 彼はこちらに振り向いた。

「おはよう。最近は早く起きてしまうんだ。冬に近づくにつれて、朝の空気が澄んで行くからね。澄んだ空気を朝に吸えると、とても気持ち良く一日を始められる気がするから」

 なるほど。明日の朝は起きたらすぐに外の空気を吸ってみよう。

 歩いていると、他の人達も服が厚くなってきていることに、今気がついた。今年は早く、冬が来そうだ。


 学校にいるあいだ、冬のことと彩星のことについて考えていて、ノートを書く手が止まってしまった。

 彩星の誕生日は、十月十六日だ。それまでに、最高の誕生日プレゼントを用意しよう。なるべく気づかれないように、でも誕生日に間に合うように。授業中沢山迷って、下校時間になる頃にやっとひとつに絞った。


 帰り道では、いつもの別れ道で彩星と別れ、それから来た道を戻った。彩星には見られたくなかったのだ。向った先は、裁縫道具が売っている店だ。買うものは決まっている。マフラーを作るのに必要な道具だ。

 素早く会計を済ませ、彩星に逢わないか心配になったので、家まで小走りで帰った。

 家に着くと、早速マフラーを作り始めようと思ったが、マフラー作りは初めてだったので今日は練習だけにした。

 練習は順調で、編むスピードも速くなった。明日からマフラー製作にとりかかろう。


 九月後半になって、やっと三分の二程がマフラーの形になった。思っていた以上に難しかったが、順調にできている。最後まで気を抜かずに、慎重に編んでいこう。このままのペースで編んでいけば、十月十日までには終わるだろう。できるのが楽しみで、心の中がうきうきしているし、実際、私自身も周りから見ても分かるほどうきうきしていただろう。

 学校に行くまでになんとかうきうきを牢屋に閉じ込めて、出て来れないように鍵を閉めた。

 登校中、彩星を見かけたけれど、うきうきが脱獄してしまいそうだったので、裏道を通って行った。

 学校にいるあいだ、彩星はほとんどの授業で眠っているので安心した。早く下校時間にならないかなと思いながらノートを書いているうちに、うきうきは少しずつ脱獄して行ってしまった。こういう日にかぎって、一日が長く感じるのはなぜだろう。

 帰りは彩星に、用事がある、と伝えて先に帰ってしまった。その時に、「何かいいことでもあった?」と訊かれたが、「特に何もありません」と答えた。

 帰ってすぐにマフラー作りにとりかかった。学校での時間は長く感じていたのに、マフラーを編んでいる時間は急行列車のように過ぎ去って行った。


 何日も何日も待って、やっと十月十六日がやってきた。

 今年の秋は、もみじが紅葉している冬、という感じがした。一気に寒さが訪れた。彩星へのプレゼントにはとても都合がいい。帰り道の寒さが増した時間に、テトラポットの上でマフラーを巻いてあげよう。我ながら、とてもいい計画のように思う。

 出来上がったマフラーを鞄に入れたか五回程確認してから家を出た。

 彩星と最近よく逢う場所に来ても、彩星はいなかったので少し安心した。が、後ろから声を掛けられた。

「おはよう、喜代野」

 感情が飛び出てしまって、いつもより弾んだ声になってしまった。

「おはようございます、彩星。今日は私の方が早かったですね」

「喜代野、何かいいことでもあった?」

「いいえ。ありませんよ?」

「でも、いつもより声が大きいし、妙にニヤニヤしてるよ?」

 それは奇妙だ。恥ずかしい。堪えようとしたが、余計に奇妙な顔になってしまった気がした。

「そうですか?」

「……うん。まあ、そんなに気にすると表情があれだから、あまり気にしない方がいいかもね」

 彩星は苦笑いをしてそう言った。

 朝から恥ずかしい思いをしたからか、とても暑かった。今はなんとかうきうきを閉じ込めている。日が暮れるまで、まだ沢山の時間がある。

 下校時間になるまで、一週間くらい待った気がした。


 やっとうきうきを思いっきり出すことができる。あと少しでテトラポットに着く。もうほとんどの空が群青色になっていたけれど、海沿いはまだ夕日の色が残っていた。

「少し、いいですか?」

「うん」

 私はテトラポットの上に腰を下ろした。その左隣に彩星も腰を下ろした。

「一気に寒くなったね」

「はい。ですから――」

 いよいよだ。うきうき開放。飛び切りの笑顔をつくれたきがした。

「ですから、これを彩星に巻いてあげましょう」

 そう言って、私は彼の首に手作りのマフラーを巻いてあげた。

「お誕生日、おめでとうございます」

 彼は驚いて、それから飛び切りの笑顔をつくった。

「ありがとう。これ、君が作ったの?」

「はい。私が作りました。使っていただけたら、嬉しいです」

「うん。大事に使うよ」

 マフラーをこの色にして良かった。彩星にぴったりだ。


 そして完全な冬に突入して、彩星が私の手作りマフラーを着けているのを見るたびに、とても嬉しくなる。もみじみたいな紅のマフラーにして、本当に良かった。



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