第4話 風鈴の音が聴きたくて――虹乃彩星

 あまり眠った気がしなかったけれど、アラームは朝を知らせた。そのアラームは規則正しく、定番の「ピピピピ」という音だった。好きな音ではないけれど、規則正しく鳴るのがなんとなく面白かったので、この音に設定している。

 カーテンの隙間からは木漏れ日のような光りが漏れていた。この前までは朝でも五月蝿かった蝉の声が、今では弱々しく聴こえた。夏祭りも一週間程前に終わってしまい、すでに、秋は近くまで迫っているような気がした。

 朝は食欲がない。いつものように、母が用意してくれた朝食を喉に押し込んで、コーヒーで腹の奥まで流した。せっかく母が用意してくれたのだから、食べないわけにはいかない。食べたくないのに腹に押し込むというのは食べ物を粗末にしている気もするけれど。まあ、僕の栄養にはなってくれているから、感謝して、あまり気にしないことにしよう。

 夏休み明けの今日は、早めに家をでた。

外に出ると、まだ空は青く澄み渡っていて、太陽の光が刺さってきた。夏を主張しているかのような入道雲は見なくなったけれど、まだ夏は終わっていない。扇子を持っていてよかった。最近は風がほとんどない。あの湿ったような、新緑の匂いを乗せてくる風が、懐かしく感じる。

 そんなことを考えながら、汗の滲んだ額を扇子で扇いでいると、少し前に喜代野の姿が見えた。僕は歩調を速めて彼女に追いついた。僕の足音に気がついたのか、彼女は後ろに振り返った。そして少し驚いたような表情を浮かべたあとに、微笑んで言った。

「おはようございます、彩星。今日は、雨は降っていませんよ」

 今日は早いですね、と言いたいのだろう。

「おはよう。今日は秋が迫っているような、まだ夏は過ぎていないような気がしたから、早く家を出たんだ」

「まったく意味が分かりません」

 彼女の困ったような表情が面白くて、つい笑ってしまった。

「うん。別に意味はないよ。ところで、なぜ日本は四季があるんだろう。別に季節を分けなくてもいいと思うんだけど、喜代野はどう思う?」

「四季に分けると部屋を整理しやすいからだと思います。それに、四季だけではありません。梅雨や秋雨などもあります」

「なるほど。たしかに四季で区切れば、一つの四季が終わるごとに部屋を片付けたり、衣替えをしたりできるね。僕は季節ごとに部屋を片付けたことはないし、衣替えもしないけれど、これからは季節ごとに部屋を片付けてみよう」

 学校に近づくにつれ、同じ方向に進む人が増えてゆく。それに比例して、静かな朝がだんだんと賑わっている。賑やかなだけでまだ夏は終わっていないな、ともう一度思った。


 教室内はクーラーが利いていて程よい涼しさだった。夏休み中に復習をしていなかったので、今日だけは眠らずに授業を受けることにした。だが、最初の十分間授業を聞いていただけで前回習ったことを思い出した。眠ってしまおうと思ったが、教師が小テストをやると言っていたので起きていることにした。起きていると、昼休みになるまでの時間が長く感じた。後ろの席に大人しく座っている喜代野は、授業中、ノートを書くこと以外になにをして時間を潰しているのだろう。あとで訊いてみよう。


 いつもより長い時間を掛けて、昼休みが訪れた気がした。僕は大欠伸をして軽く伸びたあとに、鞄から弁当箱を取り出した。夏休み明け最初の昼休みということで、喜代野と屋上で食べることにした。今度は、雨が降らないといいけれど。

 屋上にはすでに、一人の女子生徒がいた。高岡幸というのが彼女の名前だ。彼女は名前の通り、いつも幸せそうな笑みを浮かべている。彼女と喜代野は幼馴染だ。

「おおぉぉぉぉ! 夐と、それに彩星君じゃないかぁ!」

 彼女は美人だが、蝉より五月蝿い夏の天敵だと思い、内心で苦笑い。

「幸、もう少し静かに喋ってください。それと、口に含んでいるものを飲み込んでから喋ってください」

 それに比べて、喜代野はいつもお淑やかだ。たまに、プンッとするが。

 喜代野に、三人で食べましょうと言われたが、何だか気恥ずかしかったので、屋上の端でひとり、弁当を食べることにした。

 高岡幸が喋るたびに喜代野が、「もう少し静かにしてください」と言っていた。そして、喜代野が喋るたびに高岡幸が「敬語はやめない?」と言っていた。僕はそんな二人の会話をBGMにして、弁当を食べ終えた。

 屋上から遠くを眺めても、やはり入道雲は見えなかった。


 帰り道。喜代野は先生に頼み事をされたらしく、僕ひとりで帰ることになった。待ってようかと言ったが、時間がかかるので先に帰っていてくださいと言われた。

喜代野は帰り道で海沿いを通るので、いつものテトラポットの上で彼女を待った。最初は読みかけのミステリ小説を読んでいたが、読み終わってしまったので、水平線を眺めたり、テトラポットに打ち寄せる波を眺めたりして過ごした。

 小説を読み終わってから三十分程経って、水平線から遠い空が濃紺に染まり始めた頃に、後ろから、彩星、と声を掛けられた。喜代野は不思議そうな表情でこちらを見つめていた。

「随分と長かったね。なにを頼まれたの?」

 彼女は隣に腰を下ろしてから、僕の瞳を覗き込んだ。

「美術室の掃除を頼まれました」

「君、そんなに美術の先生と親しかった?」

「いいえ。幸が親しくて、幸に頼まれました。少し大変でした。それより、こんなところでなにをしていたのですか?」

「一緒に夏の終わりの夕日を眺めるために、君を待っていたんだよ」

 そう。今日で夏の夕日を見られるのは最後らしい。明日から八月の終わりにかけて、曇りと雨が続くと、今朝の天気予報で言っていたのだ。

「今日で夏は終わりなのですか?」

「違うよ。明日から曇りと雨が続くらしいから、夏の夕日を見るのが最後かもしれないということだよ」

 喜代野は、そうですか、と呟いてから、水平線に沈んでゆく夕日を眺めた。僕は夕日に照らされている彼女が少し微笑んでいることに気がつき、つられて微笑んでしまった。

 水平線からほんの少し上の空だけが夕日に染まっていて、あとの空は群青色に染まった頃に、テトラポットをあとにした。

 別れ道まであと二百メートルくらいのところで、喜代野が口を開いた。

「今日は待っていただいてありがといございました。おかげで、最後の夏の夕日を眺めることができました」

「うん。僕もしっかりと目に焼きつけておいたよ」

 少しの沈黙のあとで、いつもの別れ道。習慣付けられているように立ち止まり、一瞬だけ時間が止まったように向かい合い、目を合わせた。短い挨拶を交わして別れた。

 明日は肌寒くなるそうだ。ワイシャツを長袖に変えよう。

 今年の夏は、何か物足りない気がする。


 家に着いてから、食事の時間まで部屋の整理をすることにした。色々なものをクローゼットから出したり、仕舞ったりした。扇風機ともお別れだ。また来年の夏になるまで、顔を合わせることはないだろう。

 大体のものが夏から秋のものへと変わった。窓の外を見ると朧月が見えた。明日にはもう、雲隠れとなるだろう。

 十分ほどの休憩をはさみ、衣替えに取りかかった。といっても、そんなに沢山の服は持っていなかったので、二十分程で終了した。

 部屋の整理も衣替えも終え、クローゼットの扉を閉めようとしたとき、端にあった小さな箱に目を留めた。その箱をクローゼットから取り出して、机の上に置いた。

蓋を開けると、去年専門店で買った風鈴が入っていた。何か物足りない、と感じていたのはこれだ。今年は風鈴の音を一回も聴いていない。

 僕は夏に役目を果たすことのなかった風鈴が、何だか寂しげに見えて、切なくて、扇子で部屋の隅を扇いだ。風鈴の音が聴きたくて、夏の、湿ったような、新緑の匂いを乗せてくる風が、まだ溜っていそうな部屋の隅を必死に扇いで、風を集めた。



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