第3話 騒々しい蝉の声――虹乃彩星

 梅雨の影響でここ最近曇りと雨の日が続いていたが、今日の朝カーテンを開けてみると、雨は上がっていて、晴れていた。快晴と言えるほどの天気ではないが、外に出ると鋭い夏の日差しが刺さって、とても暑い。もう既にアスファルトも乾いていて、なんだか、なにもかもが雨と一緒に洗い流されたみたいだ。

 まだ八時だというのに、蝉の声が四方八方から攻撃してきた。蝉の声を聞くのが久しぶりで、耳が痛いくらいだ。

今日は「梅雨明けに、二人でどこかへ出かけましょう」という約束を果たすには、少しきつい暑さだ。少し歩くたびに、額に汗が滲む。

 約束の十五分前に待ち合わせ場所に着いた。あと十五分ものあいだ、日差しに刺されながら何もしないで立っているには、無理がある。――近くの喫茶店に入って待つことにしよう。

 丁度、アイスコーヒーを半分ほど飲んだ頃に、彼女が歩いて来るのが見えた。僕は残りのアイスコーヒーを飲み干し、素早く会計を済ませ、小走りで彼女の所まで行った。

「おはよう、喜代野。今日は暑いね」

 彼女はバックから取り出したタオルで、額に滲んだ汗を拭ってから言った。

「おはようございます、彩星。今日は、久しぶりに三十度まで上がるそうですよ」

 それは大変だ。もうすでに、二十五度くらいまで上がっていそうだ。今以上に暑くなると思うと、クーラーの利いた部屋でダラダラしたくなる。

「さあ、行きましょう」

 彼女はそう言って、暑さなど関係ない、とでも言うかのように歩き出した。僕も暑さに負けないくらいに強く歩いた。

 電車の中に入った瞬間に、身体が生き返った。クーラーが利いていて、呼吸をすると、肺が冷たい空気で満たされる。とても心地好い。雨音程の心地好さではないが。

 電車に乗っているあいだ、僕と喜代野は小説を読んで過ごした。喜代野はファンタジ小説を、僕はミステリ小説を。

 気がつくと、先程まで僕と喜代野しか乗っていなかった車内が賑わっていた。途中、僕は眠ってしまいそうになったけれど、喜代野に寝顔を見られたくなかったので頑張って堪えた。

 目的地に着くと、とりあえずコンビニで飲み物を買った。喜代野はカフェオレを、僕はアイスコーヒーを。喜代野は一口カフェオレを飲んでから言った。

「ここから歩いて行きますか?」

 僕はアイスコーヒーを舌の上で少し転がしてから飲み込み、微笑んで言った。

「そうだね。暑いのはあまり好きじゃないけど、歩いて行ったほうが楽しいと思う。それに、まだ時間に余裕があるからね」

 彼女は、もう一度カフェオレを飲んでから言った。

「分かりました。では、行きましょう」

 駅から出ると、蝉の鳴き声がより一層大きくなった。蛙の合唱の方が、僕は好きかもしれない。蛙の合唱など聞いたことがないが。

「何故こんなにも五月蝿く鳴くんだろうね、蝉は」

 喜代野は、周りの景色を眺めながら答えた。

「蝉もきっと、暑さに困っているのだと思います」

「でも、蝉は自分の意思で土の中から出てきて、鳴き喚いているんだよ?」

「では、本当は春に土から出る予定だったのに、と寝坊してしまったことを悔やんでいるのだと思います」

「うん。僕は神様に、僕達をもっと長生きさせて下さい、とお願いしているのだと思う」

 喜代野は、また神様ですか、と呟いて、僕の目を見て微笑んだ。

「蝉は、可哀相ですね。もし、私が一週間しか生きられなかったなら、多分、生きている自覚すらないと思います」

「そうだね。蝉の命は、短すぎる。蝉には失礼だけど、僕は人間でよかった」

 しばらく歩いて、途中にあった公園で休んだ。木陰の下にあったベンチに座ってから、喜代野は丁寧に汗を拭き取り、深呼吸をした。僕もタオルで汗を拭き取って、残りのアイスコーヒーを飲み干した。

「そろそろお昼にしますか?」

 丁度、空腹でお腹がセンサーを鳴らしていたけれど、目的地まであと少しだ。

「いや、着いてからにしよう。調べてみたけれど、結構人気な店があるんだって」

「分かりました。では、すぐに出発しましょう」


 向った先は、水族館だ。夏に行く場所としては、二番目くらいにベストな場所だ。もちろん、一番目は夏祭り。

 早速、空腹を満たすために、水族館の脇にある飲食店へ向った。魚料理が多いのかと思っていたけれど、カレーやかつ丼などが沢山あった。魚料理はアジフライくらいしかなかった。メニューを隈なく見てから注文をした。喜代野はアジフライ定食を、僕はホットドックを。

 十分程で、品が運ばれてきた。二人合わせて――いただきます。食べているあいだは、珍しくほとんど喋らなかった。多分、食べるのに夢中になっていたからだ。

 結構なボリュームがあって、美味しかった。

 デザートに、ソフトクリームも注文することにした。喜代野はチョコ味を、僕はバニラ味を。

 ソフトクリームを待っているあいだ、僕がバニラ味を注文したことについて、彼女が口を開いた。

「ソフトクリームと言えば、チョコ味です」

「へぇ。僕がソフトクリームと言われて最初に思い浮かべるのは、やっぱりバニラ味かな」

 喜代野は、ソフトクリームを待ちきれない、といった表情を浮かべていた。

 ソフトクリームが運ばれてきて、溶けないうちに食べようとすると、喜代野が、一口ずつ交換しましょう、と言ってきた。最初から、チョコとバニラのダブルソフトクリームを注文すればいいのに。仕方なく、一口だけあげた。

 会計を済ませて外に出ると、先程まで聞えなかった蝉の鳴き声が、いきなり耳に入ってきた。あまりにも五月蝿かったので、足早に水族館内へ向った。


 水族館内は、やはり程良く涼しくて、とても静かだった。耳を澄ますと、子どもの声が聞こえてくる。この時期に静かな空間を味わうには、最適の場所だと思う。

「早く行きましょう。最初は、一番大きい水槽の所に行きましょう」

 喜代野はそう言って、ルンルンと歩き出した。ご機嫌でなにより。僕も彼女のあとに続いた。大きな水槽の中では、魚達が気持ち良さそうに泳いでいた。のんびり泳いでいる魚もいれば、勢い良く泳いでいる魚もいた。見ていてとても心地好い。雨音の次くらいに。

 喜代野はいつにも増してご機嫌だった。

 次に向ったのは、イルカのいる場所だ。――イルカはいるか? なんちゃって……。

 喜代野は、水槽の前にある柵から身体をのりだして観ていた。

「イルカって、どうしてそんなに人気なんだろう。僕は、サバの方が人気になると思うけれど」

 僕がそう言うと、喜代野は頭にはてなマークをつけて言った。

「サバ? 絶対にイルカだと思いますよ? イルカの方が可愛く人形にできて、お土産屋さんが儲かります」

 なるほど。たしかに、サバの人形を買う人はいないかもしれない。


 二時間半くらいかけて、水族館内を一周した。それから、イルカショーを観た。思っていたよりも迫力があって、面白かった。イルカショーが終わると、喜代野は満足した様子で、お土産を買って行きましょうと言った。お土産屋さんに行くと、イルカの形をしたクッキーや、ペンギンやイルカの人形があった。女の子は何歳になっても、やはり人形がいいのだろうか。喜代野はニコニコしながら、人形の前に立っていた。

「喜代野はどれを買うの?」

「シロイルカか、ペンギンの人形で迷っています」

「僕はシロイルカの方が良いと思うけど」

「では、シロイルカにします」

「僕が買ってあげるよ。他にも、クッキーを買おう」

「いいのですか?」

 僕が、うん、と答えると喜代野は、ありがとうございますと言って目を輝かせた。 会計を済ませるためにレジへ行くと、レジの脇にサバのストラップがあった。何だか売れてなさそうで可哀相だったので、買うことにした。


 帰りの電車で、喜代野は眠ってしまった。彼女の寝顔を見るのは初めてではないが、それでも初めて見たときのように、美しかった。僕はミステリ小説の続きを読んだ。

 元いた駅に着いたので喜代野を起こそうとしたが、僕の出番はなく、タイミングよく起きた。

 駅の改札をぬけて、二人向かい合った。

「今日はありがとうございました。また二人でどこかへでかけましょう」

 やっぱり、「二人で」をつけるところが好い。

「うん。じゃあ、また今度」

「はい」

 僕と喜代野は手を振って分かれた。

 黄昏時になっても、蝉の鳴き声は尽きることなく騒がしかった。

 サバのストラップは、筆箱にでもつけよう。

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