第2話 静かなひととき――虹乃彩星
いつも通りの時間にアラームが鳴った。僕は三秒もしないうちにアラームを止めた。
時計の針が七時を指しているのを確認してからカーテンを開けてみたが、晴れてはいなかった。期待通りの天気だ。風は穏やかで、雨が降りそうで降らないような天気。
スリーピーヘッド。制服に着替えてから今日は休日だったことに気がついた。休日なのに、平日と同じ時間に起きてしまった。もう一度寝る気もしない。
僕は私服に着替え直してから、一階に下りて顔を洗った。冷水がとても心地好い。
親は仕事でいなかった。せっかく早起きをしたのだから、静かな時間を堪能したい。
僕はひとりでコーヒーを飲むことにした。コーヒー豆を挽き、自分の淹れ方で淹れた。リビング中にコーヒーの香りが漂う。
庭に出て、のんびりとコーヒーを堪能した。蝉の鳴き声はほとんど聞えないが、小鳥のさえずりが聞えた。風が囁くくらいに弱く吹いて、頬がくすぐったい。向こう側から、薄暗くて大きな雲が風に乗って迫ってきた。目を閉じると、どこか遠くの森にいるみたいだ。
コーヒーを飲みきった頃に、前の通りから女の子が現れた。いつもタイミングがいい。僕らはテレパシー使いなのではないだろうか。彼女も、随分と早起きだ。
「おはよう、喜代野。随分と早起きだね」
「おはようございます。彩星も充分早起きです」
僕の家には門がないので、彼女はそのまま庭に入ってきた。僕の近くまで来て、隣いいですか、と言ってから腰を下ろした。
「喜代野はいつもこんなに早く起きてるの?」
「はい。早寝、早起きです。今日は、彩星も起きているような気がしたのでここに来ました」
「喜代野、朝ご飯食べた?」
「いいえ。まだです」
「なら、フレンチトーストを食べよう」
丁度お腹が空いていたし、二人で話しながら食べたかったのだ。
「休日は九時にならないと、喫茶店は開きませんよ?」
「うん。僕が作るんだよ」
料理は得意だ。
とりあえず喜代野を家に招き入れ、先程淹れたコーヒーを出した。
それから、エプロンは着けずに作り始めた。
まず、牛乳と卵をよく混ぜ合わせ、それから砂糖を少量入れた。香り付けにシナモンも。そこに分厚いパンを浸す。
パンを浸しているあいだに、もう一度コーヒー豆を挽いてお湯を湧かした。コーヒー豆を挽き終わったタイミングで、しっかりと浸したパンを弱火で熱したフライパンに、バターと一緒に入れた。
喜代野が、とてもいい匂いですね、と言って微笑んだ。
焼いているあいだにコーヒーを淹れた。バターの匂いを、コーヒーの香りが打ち消した。コーヒーを淹れ終わったタイミングでフレンチトーストが焼きあがった。少しお洒落な皿に盛りつけて、その横に市販のホイップクリームをたっぷりのせた。甘さ控えめのホイップクリームだ。
僕は、おまたせと言って喜代野の前にフレンチトーストと淹れたてのコーヒーを出した。彼女がコーヒーには砂糖を入れることを知っていたので、スティックシュガーも添えた。喜代野は嬉しそうに微笑んで、ありがとうございますと言った。そして二人声を合わせて――いただきます。僕と喜代野はフレンチトーストをナイフで一口サイズに切って、その上にホイップクリームをのせて食べた。とても美味しい。フレンチトーストが口の中でとろけて、そこにホイップクリームが混ざり合う。とても優しい味だ。
喜代野が膨らませた口をもぐもぐ動かして、飲み込んでから言った。
「とても、美味しいです。彩星の手料理を食べたのは、これで二回目です」
「そうだっけ?一回目はなんだった?」
「塩味のカップラーメンです」
ん?
「えっと……それは、手料理?」
「はい。彩星は、僕の手料理を食べさせてあげるよ、と言ってカップラーメンを出しました」
そういえば、そんなことがあった気もしなくはない。どう考えても手料理ではないが。
「ところで、今日はどうして早起きなのですか? いつもは遅刻ぎりぎりなのに」
何と言えばいいのか。いつも通り、話を変えて誤魔化すことにしよう。
「……もうそろそろ梅雨入りだね。喜代野はどうして梅雨があると思う?」
喜代野はいきなり話が変わったことに、何の戸惑いもなく答えた。
「さあ、なぜでしょう。草木を沢山育てるためですか?」
いつもの現実的な答えではなくて、僕の話しに合わせてきた。随分と慣れたものだ。
「もしかしたら、そうかもしれないね。僕は、神様が我慢していた涙が溢れ出してしまったからだと思ったよ」
「彩星はよく、神様を使いますね」
「うん。昔の人は全てが神のせいだと思っていたらしいよ」
喜代野は、ごちそうさまでしたと手を合わせながら言った。それから、僕の顔を見た。
「彩星は、昔の人なのですか?」
彼女からこのような話をしてくるのは珍しい。
「そうかもしれない。僕はずっと昔に生まれて、未来にやって来たのかもしれない。もしもそうだったら、君はどうする?」
「どうもしません。でも、もしもそうなら、ずっと昔の彩星の親が悲しみます」
喜代野は、とても優しい。多分、泣いている人がいたらハンカチを貸してあげるだろう。転んで膝から血を流している人がいたら、絆創膏を張ってあげるだろう。
「この前、遊園地で君と幸さんを見たよ」
「……まさか、見たのですか? 私が……」
そう。泣いているのを見てしまった。泣くくらいなら、ジェットコースタなんて乗らなければいいのに。
「うん、見たよ。とても、可愛かった」
いい意味で言ったつもりだったが、喜代野は少し頬を赤らめて、プンッとしてしまった。その表情も、いじけた小学生みたいで、可愛い。彼女は大人びて見えるが、表情はたまに幼くなる。
「えっと……。別に何か悪いことをしたわけではないんだから、そんなにムスッとしなくてもいいんじゃないかな……。あ、たしか、冷蔵庫に焼きプリンがあったんだ。食べる?」
僕がそう言うと、喜代野は目を輝かせて、ではいただきますと言った。また表情が幼い。
僕は冷蔵庫から焼きプリンを二つ出した。喜代野は焼きプリンが大好きだ。誕生日プレゼントは何がいい? と聞くと、「焼プリン」と答えるくらいに。
「彩星の家には甘いものが沢山ありますね」
とても嬉しそうに焼プリンを口に運ぶ喜代野を見て、安心した。
気がつけば、九時をまわっていた。
「喜代野は、今日の予定なにかある?」
「特にありませんが、彩星はあるのですか?」
「いや、特にないけど」
喜代野は少し間をおいてから微笑んで言った。
「なら、二人でどこかに出かけましょう。」
それもいいが、空の様子が少し心配だ。僕は喜代野の瞳をじっと見つめてみた。いつ見ても、美しい瞳だ。きっと、今まで綺麗な物を沢山見てきたのだろう。
「いや、今日は止めておこう。これから、大雨が降り出す予定なんだ」
昨日の天気予報で、今日は九時頃から大雨が降ると言っていた。つい最近、大雨が降ったばかりなのに。
「分かりました。では梅雨明けに、二人でどこかへ出かけましょう」
二人で、をつけるところが好い。
「うん。あと十分もすれば、雨が降り始めると思うから、もう帰った方がいいよ」
僕の家から彼女の家まで、十分もあれば着くだろう。
「はい。フレンチトーストと焼プリンとコーヒー、ごちそうさまでした」
喜代野がそう言って、モーニングセットみたいだな、と思った。彼女はゆっくりと立ち上がり、少し伸びてから玄関に向った。
「気をつけて」
「はい。今度は私の家に来てください」
僕はもう一度だけ、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。やはり、美しい瞳だ。
こうして、静かなひとときは過ぎ去った。喜代野が帰ってすぐに、雨は降り出した。彼女に傘を持たせれば良かった。――雨に濡れて、風邪をひかないといいが。
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