平穏で幸せな日常
隠れ豆粒
第1話 雨上がりの空――喜代野夐
「僕は君のことをまったく知らない。君だって僕のことは何も知らない」
まるで放り投げたかのように置いてあるテトラポットの上で、彼はそう言った。もう、出会ってから三年は経ったはずだが。
「私はあなたのことを知っているつもりです」
「それは違う。君が知っている僕は表面上の僕であって、本当の僕ではない」
「では、本当のあなたを知るにはどうしたら良いのでしょうか」
私は彼のことを知りたいと思う。出会ってから三年は経ったはずだが。
「本当の僕なんて、僕以外誰も知らない。本当の君だって、君しか知らない。いや、自分でさえも自分のことなんかわからないんだ」
「私は、あなたは優しくて、落ち着いた雰囲気だと思います。本当のあなたはどうなんですか?」
彼は微笑んで、もう四分の三程は沈んでしまった夕日を眺めている。いや、一番星を探しているのかもしれない。
「君が知っている僕は、やっぱり表面上の僕だ」
「では、本当のあなたはどんな性格で、普段どんなことを考えているのですか?」
彼は少しだけ間を置いてから、私の瞳を真っ直ぐ見た。
「君はこの街中の明かりをどう思う?」
いきなり話しが変わるのはいつものことだ。
彼を知ることができる、と思ったが……私の質問はどこかへ消えてしまったのだろう。とりあえず彼の質問に答えておいた。彼は私の質問に答えなかったが。
「良いと思います。明かりがなければ夜は真っ暗です」
彼はまだ、一番星を見つけていないようだ。
「僕はね、人の手で作られた明かりが大嫌いなんだよ。今すぐこの世界から消し去りたいくらいに。この明かりがあるから、皆星の光りに気付かない。君も星の光りなんて忘れていただろう?」
べつに気付かないわけでも、忘れていたわけでもないけれど、たしかに星の光りで照らされたことはない。
「あなたは、星の光りが好きなんですか?」
「僕らの生活が便利になるたびに、何か他の物が奪われるんだ。街中の明かりが無ければ、星は空の隅々まで見える」
彼が私の質問に答えないことは、気にしないようにしよう。
「……君は僕のことを大切だと思う?」
いきなり話しが変わるのはいつものことだ。
「もちろん、大切です」
「それなら、君が青い鳥を手に入れたとする」
「それは、手に入れると幸せになる、というあの青い鳥ですか?」
「……君は青い鳥を手に入れたのだから、幸せになれる。そこで僕は、君の持っている青い鳥を譲ってくれないか、と頼むんだ。そうしたら、君は僕に青い鳥を譲ってくれるのかな?」
つまり、私の幸せを譲ってくれ、ということだ。
「あなたならどうするのですか?」
「僕は、譲るよ」
初めて質問に答えてくれた。
「大切な人が幸せになれたのなら、それは僕の幸せでもあるからね」
なるほど。彼の話しはいつも理解できないし、くだらないが、なんとなく納得できる。
「青い鳥は幻だ。幻なのに、翡翠は青い。青い鳥は幻なのに、青い鳥は目の前にいる。なぜ青い鳥なのだろう。なぜだと思う?
彼はいつも私を苗字か君で呼ぶ。いつか「
「翡翠は橙色の部分があるので、青い鳥ではないと思います。完全に青色の鳥がいなかったから、幻の物を手に入れられるから、幸せだと感じるんだと思います」
「なるほど。たしかにそうだけど、幻を手に入れられたのなら、それは幻とは呼ばないんじゃないかな」
……何で私は彼の暇つぶしのような話しで、こんなに真剣に考えているのだろう。
「それに、青色じゃなくて虹色でも良いと思うんだけれど。虹を見たら喜代野だって、幸せ、だとか、ラッキー、って思うでしょ?」
「虹を見ることができたら、たしかにラッキーだと思います。けれど、虹は他の人も見つけています。他の人が見ていたら、特別だとは思いません」
「でもね、上を向いて歩いている人しか、虹には出逢えない」
大抵の人は前をみて歩いているから、虹に気が付くと思うが、歩きスマホをしている人は虹を見れない……スマホに依存してしまった人は可哀想だ。そういうことを言いたいわけではないと思うけれど。
「さあ、一番星も見つけたことだし、そろそろ帰ろうか」
私はもう五番星くらいまでは見つけていたが、彼の話をもう少し聞きたかった。
「私はまだ見つけていません。私が見つけるまで話しを続けてくれませんか?」
「分かった。……僕があと少しで役目を果たすとしたら。僕はどんな役目を果たすと思う?」
「私を幸せにしてくれる、とか? 私の為にあなたの青い鳥を譲ってくれるとか?」
「そうだね、僕も君には幸せになって欲しいと思う。でも、こんなちっぽけな僕が君を幸せにできるかな?」
あなたが一緒にいてくれれば私は幸せです、と言おうと思ったが、なんとなく恥ずかしい気持ちになったので、言わなかった。
「一番星、見つけました」
「……そう。じゃあ、また明日」
「はい。さようなら……あなたの役目は、皆のために虹を架けることですか?」
「そんなロマンチックなことができたら良いね」
彼の後姿を見送ってから、もう一度テトラポットの上に腰を下ろした。――彼はきっと虹を架けることができるだろう。
翌日、戦争と平和についての授業をした。前の席に座っている彩星は、ぐっすりと眠っている。私は授業に興味がなかったので、机に落書きをしながら先生の話を聞き流していた。――私は全てのテストで満点を取る自信があるし、高校生活で満点以外取ったことがない。だから、こんな授業を受けている意味も、私は見つけることができない。スポーツや、料理、裁縫等が苦手なわけでもないので、技能で成績が下がることもない。つまり、成績もいつも満点ということだ。でも、私は成績というものがあまり好きではない。私は人間性を評価した方がいいと思う。成績がよくても、性格の悪い人は、悪意を抱えている人は、沢山いる――なんてことを考えているうちに、授業が終わってしまった。私は前でぐっすりと眠っている彩星を起こそうとした。背中をつんつんとシャープペンシルで突いてみた。反応はない。今度は指で突いてみた。すると、大きな欠伸を一つしてから、私の方に振り返り、「もう終わったの?」と訊いてきた。
「はい、戦争と平和について、でしたよ。ノート写しますか?」
授業を聞き流していても、ノートは全て書いてある。自慢ではないが、もちろん、ノートも最高評価だ。
「うん、あとで見せて。さあ、昼ご飯だ。久しぶりに屋上でも行こうか?」
おぉ、私の心でも読んだのだろうか。丁度、私も屋上に行きたい、と思っていたところだ。流石は、三年間一緒にいるだけのものはある。「僕は君のことを全く知らない」と言ったくせに。
「では、すぐに行きましょう」
屋上は私と彩星以外誰もいなかった。屋上の海がよく見える所で昼食を食べることにした。二人合わせて――いただきます。ここでまた、彩星の話が始まった。
「さっきの授業、戦争と平和だっけ?」
「そうですけど……」
から揚げが美味しい。
「君は、平和ってどんなことか知ってる?」
「戦争や争いごとがなく、世の中が穏やかに収まっていること、心配事や揉め事がなく穏やかなこと、だったと思います」
「それは、辞書か何かに載っていた、平和の意味だよね?」
「そうですけど……」
卵焼が美味しい。
「平和という言葉がどうして生まれたんだろう。戦争や争いごとがなければ、平和と言う言葉はなかったんじゃないかな。どう思う? 喜代野は……」
今は弁当の美味しさに夢中で、それどころではないのだが。
「そのような言葉は沢山あると思いますよ。例えば、重いがなければ、軽いはありませんし、不味いがなければ、美味しいはありません」
「うん、そうだね。でも、もしも戦争や争いごとが全くなかったら、人はどうやって平和を言葉に表したんだろう」
「それは、毎日が平和ということですよね? それなら、平和という言葉は最初からないのでは?」
「そうだね……。たしかに、言葉に表すまでもない。うん。納得した」
それはよかった。
梅干が甘酸っぱい。
しばらく沈黙が続いた。彼は黙々と弁当を食べている。彼も弁当の美味しさに夢中になっているのだろうか。
「ごちそうさまでした。……雲が広がってきましたね」
「うん。雨が降ってきそうだ」
先程まで綺麗に見えていた海も、暗くなっている。
少しすると、雨音が聞え始めた。
「降ってきたね。教室に移動しよう」
もう少し屋上にいたかったが、仕方なく教室に戻った。
教室に戻ると彼は速攻で昼食を食べ終え、それから二人で図書室に向った。
図書室では、二人とも何も喋らずに小説を読んだ。静かな図書室に雨音が聞えてくる。まるでBGMのようだ。とても心地好い。今日は雨だからか、とても落ち着く。
図書室にはいつもと変わらず、私と彩星の他に四人しかいなかった。その内の一人は女の子で読書が目的ではなく、勉強が目的だった。なかなかの美人だ。あとの三人は男子で、読書をしているように見せかけて、勉強に熱心な女の子を見ている。見ているというより、見惚れている。この光景はほとんど毎日目にしている。そして、その美女は、私の幼馴染の高岡幸だ。彼女とは違うクラスだが、今も仲が良く、たまに二人で服を買いに行くことがある。彼女は私に会うたびに、「夐、敬語やめない?」と言ってくる。それで敬語をやめたことはないけれど、幸はそれが口癖になっているようだ。私に会ったときのお決まりの挨拶、と言ったほうがいいだろうか。
たしか、今週の土曜日にどこか遊びに行こう、と彼女に誘われていたのだった。特に用事もなく、家にいても暇なだけなので、遊びに行くことにしよう。
昼休みが終わりに近づいた頃、幸に声を掛けた。
「こんにちは、幸。今週の土曜日、一緒に行くことにします」
彼女は視線をノートから私に移して、大きく笑った。いい笑顔だ。いつもと変わらぬ笑顔。
「ああ、夐。敬語はやめない?」
もちろん、やめる気はない。
「……何時に、どこで集合ですか?」
「うん。じゃあ、朝九時に私の家集合で、そっから電車で」
一体どこに行くのだろう。ジェットコースターに乗るようなことにはならないといいが。
「分かりました。では、楽しみにしています」
幸と別れて、図書室を出ると、丁度彩星がトイレから出てきた。
「喜代野、まだ図書室にいたんだ」
「はい、幸と喋っていました」
「幸って、あの勉強してた子?」
「そうですけど、どうかしたのですか?」
「いや、なかなかの美人だなって思ってさ」
彩星でも美人だと思うのか。
「そうですか」
と、少し強い口調で言ってみた。
「……ああ、もちろん喜代野も可愛いよ……」
慌てているようだ。それに、可愛いと美人では全然違う。そういうところは、三年間一緒にいても分からないのだろう。
放課後。まだ雨は止んでいなかった。彩星と私は折り畳み傘を広げ、ゆっくりと歩き出した。二人で雨音を楽しむように、静かに歩いた。並んで歩いていると、道を塞いでしまうので、彩星の少し後ろを歩いた。
途中で本屋に寄ることにした。
小さな本屋だが、色々なジャンルの小説が売っている。あまり気にしたことがないが、漫画や雑誌も沢山揃っているのだろう。
雨のせいか、今日はあまり人がいない。いつもなら五、六人は店内で立ち読みをしている。
彩星はミステリ小説が好きだ。私は小説なら何でも読む。
私は、ミステリ小説を探している彩星をおいて、小説売り場以外の所に行ってみた。 沢山売っていたが、特に面白そうな漫画や雑誌は売っていなかった。
ミステリ小説の売り場に戻ると、彩星は先程と同じ格好で棚を眺めていた。
「何を探しているのですか?」
「……特に何も探してないよ。喜代野のお勧めとかある?」
「私は、密室、が面白かったですよ?」
自分で勧めたものだが、題名がいかにもミステリっぽいものだ。私はミステリ小説よりも、ファンタジー小説が好きだ。
「そう、じゃあそれ読んでみようかな」
「貸しましょうか?」
「自分で買うよ。コレクションにもなるし」
彩星が会計を済ませているあいだに、今読んでいるファンタジー小説のシリーズで新刊が出ていないかを見てみた。もう売り出されているはずだが、売っていなかった。まだ入荷していないのだろうか。
私はほとんどの小説を一日で読みきってしまう。今日の昼休み中に読んだ小説も、五分の二は読んでしまった。
「さあ、帰ろうか」
新刊を注文しようか迷ったが、彩星がそう言ったので帰ることにした。
まだ雨は止まなかった。というか、少し強くなっていた。
「結構強くなったね、雨。折り畳み傘だと小さいな」
風も強くなったので、斜めに降ってくる雨を傘では凌げなくなった。
しばらく歩いて、別れ道になった。
「それでは、また明日」
私はそう言って、右側の道に進んだ。彩星は、じゃあね、と言って、左側の道に消えて行った。
アラームが鳴る前に目覚めてしまった。何だか、少し損した気分だった。私を起こしたのは、昨日より大きな音になった雨だった。心地よく眠っていたのに、と怒りたいが、相手は雨だし、どうせアラームに起こされるのだから同じだと思い、怒りはしなかった。
母に挨拶をしてから、朝食を食べた。朝食を食べ終わる頃に、いつもは早く家を出る父が起きてきた。今日は仕事を休みにさせてもらったそうだ。雨の中外に出ずに済んだからだろう、ラッキー、とでも言うかのように鼻歌を歌っていた。誰にも聞えないようにしているつもりだろうが、思いっきり聞こえている。
私は早めに家を出た。予想以上の大雨だった。途中、彩星を見つけたので声を掛けた。
「おはようございます、彩星。いつもより早いですね」
いや、いつもが遅すぎるのだ。彼はいつも遅刻ぎりぎりに教室に入ってくる。だが、本当に遅刻したことは一度もない。
「おはよう、喜代野。流石に今日は大雨だからね。僕だって……」
彩星の言葉を遮るように、大きな雷が落ちた。私は驚いて、誰にも聞えないくらい小さな悲鳴を上げた。それは悲鳴と呼ぶべきだろうか。
「……すごく、近くに落ちたね。少し急ごう」
彼は、大丈夫? と言って、私に手を差し出してきた。私は少しの照れを隠すように傘を深く持ち、彩星に顔が見えないようにしてから、手を出した。
学校に着くまでに、数え切れないくらいの雷が落ちた。学校内の女子が悲鳴を上げている。普段は影で人の悪口を言っている人たちが、「私はか弱い女の子です」とでも言うように。鼻で笑いたくなるくらいに、自分勝手な生き物だと思う。
授業中はいつもと変わらず、彩星はぐっすりと眠っていて、私は先生の話を聞き流していた。今日はノートを書く量が多い。だが、問題はない。
授業が終わると同時に彩星が起きた。なんて都合の良い身体をしているのだろう、と思い、私はつい感心してしまった。
「授業、終わりました。ノート、今日は書く量が多いですよ?」
彼は欠伸をしてから、うん、と言って、お腹を鳴らした。よく考えてみると、彩星は後でゆっくりとノートを写せるから、楽なのではないだろうか。……まあ良い。気にしないことにしよう。
昼食は教室で食べた。相変らず、卵焼が美味しい。彩星は教室だとあまり喋らない、と思ったが、話し掛けると彩星の口が動き出した。
「雨、結構降っていますね。いつ止むのでしょうか」
彼はもぐもぐと口を動かしながら、窓の外を眺めた。そして、ごくりと飲み込む。
「朝のニュースでは、過去最大の嵐になるって言ってたけど」
相変らず、梅干は甘酸っぱい。
「それは大変ですね」
少し遠くで雷が鳴った。
「雷様が怒っているね。喜代野は、どうして雷様が怒っていると思う?」
雷は自然現象であって、雷様が怒っている訳ではないが。
「人間が地球を汚染しているから?」
「うん。僕もそう思ったけれど、付け加えると、地球を汚染していると知りながら、それを続けているから。さらにそれに対して反省どころが、自分を可愛く見せようと、可愛く見せるために悲鳴を上げているから」
それは多分、「私はか弱い女の子です」とでも言うかのように、悲鳴を上げている女子達のことだろう。私もそれには共感できた。
あくまで想像だが、自分達が地球を汚染しているから雷様が怒っているのに、それを、自分を可愛く見せることに利用している。
それにしても、早く止まないだろうか。これでは、幸と出かける明日の予定が潰れてしまう。
また眩しいくらいに空が光り、大きな雷が落ちた。それと同時に、照明が消えた。またどこかで悲鳴を上げている女子がいる。呆れた人たちだ。私はそうならなくてよかった。
電気はすぐに回復したが、雷は校庭の一番高さのある木に落ちたらしく、木が軽く燃えていた。先生達が急いで外に出て行くが、外に出て行ったときには、もう木は燃えていなかった。
帰りは、彩星の親が迎えに来た。私も一緒に乗せて行ってくれるそうだ。私は一言親にメールを送り、返信の確認をしてから学校を出た。
ほとんどの生徒は親に迎えに来てもらっていたので、道路が少し渋滞していた。
家に着いてもやはり雨は止まなかった。読む小説がなかったので、早めにベッドに入った。明日予定が中止になったら、図書館に行こう。
今日は雨音ではなく、雷の音に起こされた。雷で起こされるのは、とても不快だ。
雨は止まなかったので、図書館に行くことにした。リビングではすでに、母がテレビを見ていた。海が荒れる恐れがあり、川が氾濫する恐れがあるそうだ。近くに川はなかった。
図書館に行きたい、と母に言うと、車で送ると言ってくれた。帰りは気をつけて帰ってくるように、と何度も言われた。迎えに行こうか、とも。
図書館は十時に開くのだが、二分程遅れて開いた。早速二階へ行って、ファンタジー小説の置いてある所に向った。さすがは図書館。私が読んでいるシリーズの新刊が五冊も置かれていた。人気な小説だが貸し出されていなかったのは、この大雨の中で、来るのは私くらいだからだろう。今日は一日中、小説を読もう。
三時間程経つと、後ろから声を掛けられた。もちろん、知っている声だ。
「喜代野も来てたんだ」
「はい、私が来てから図書館に来たのは、あなたで二人目ですよ、彩星」
「君何時に来たの?」
「十時ぴったりです」
「早いな。今読んでるの、あのファンタジー小説の新刊?」
「そうです。……続きを読みたいんですけど……」
彼は、ごめんごめん、と言って、ミステリ小説の置いてある所に行ってしまった。
丁度ページをめくった時に、今までの中で、一番大きな雷が落ちた。照明も落ちた。この図書館は窓がないので、真っ暗だ。しばらく待ってみても、照明は回復しなかった。
彩星が私の所に来て小説を読み始めてから一時間が過ぎた。彼は小型の懐中電灯を持っていたので、それで照らして小説を読んだ。二人で。真っ暗の中で雨音を聞きながらだ
と、とても小説を読みやすい。彩星が読んでいたものは読みかけだったらしく、すぐに読み終わってしまった。私はきりのいいところで本を閉じ、彩星に話しかけた。
「……なかなか点きませんね、明かり……」
「うん。でも、落ち着くし、このほうがいいと思う」
彼はそう言って微笑んだ。明かりが小さくてよく見えないが、多分微笑んだ。
しばらく話していると、図書館のスタッフが懐中電灯を持って私たちの所に来て、声を掛けてきた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。まだ、明かりは点かないのですか?」
スタッフは少し困ったように言った。
「実は、雷の影響で街全体が停電になっているんです。私にはよく分かりませんが、大事な部分がショートしてしまったみたいですよ。直すのに時間がかかるそうです」
「そうですか……」
そろそろ帰ろうと思っていたところで、彩星が言った。
「もう少しここにいても大丈夫ですか?」
それにスタッフは笑顔で答えた。
「大丈夫ですよ」
彼はスタッフがいなくなったあと、あまり喋らなかった。静かな時間が過ぎた。
どれくらいの時間が経っただろうか、腕時計を確認すると、十六時半を過ぎていた。気がつけば雨音が聞えなくなっていた。私と彩星は座ったまま眠っていたようだ。私は彼の肩を、ぽんぽん、と叩いて起こした。
「雨、止んだみたいですよ?」
彩星が大きな欠伸をした。
「……うん。外に出てみようか」
彼がそう言ったあと、二人で足元を懐中電灯で照らしながら一階に下りた。扉を開き、外に出た。すっかり雨は止んでいた。
そして、二人合わせて、あ、と声を漏らした。空にはとても大きな虹が架かっていた。
「とても、綺麗ですね」
彼は、うん、と言って、歩き出した。とりあえず、彼について行った。
彩星は時々空に顔を向けて虹を見ながら歩いていた。私も同じようにして歩いた。
向った先は、放り投げたかのように置いてあるテトラポットの上だった。彩星と私は、テトラポットの上に腰を下ろした。
海は荒れていなかった。海の左に虹が架かっている。最高の景色だ。私はこの景色を写真に収めようとは思わなかった。彩星も写真は撮らなかった。
「僕が虹を架けなくても、虹は自然に架かるものだね。自然に架かるから、虹は美しいのだと思う」
「そうですね」
彼の言う通りだと思った。でも、彩星が架けた虹も見てみたいな、とも思った。
私と彩星は、虹が消えるまで空を眺めていた。虹が消えたあとも彼は帰ろうとはしなかったので、一緒にいることにした。虹が消えたあとは海を眺めて二人で話しをした。
気がつくと、辺りは暗くなっていた。
「そろそろ帰りますか?」
彼は首を振った。そしてこう言った。
「その前に、空を見上げてみてよ」
私は海に向いていた視線を、空に向けてみた。思わず息を飲み込んだ。そこには、今までに見たことのない空があった。空は星で埋め尽くされていた。虹よりも、ずっと、ずっと綺麗だ。
「……どうして……」
彩星は空見上げて、雰囲気を崩さないように言った。
「街の明かりがなくなったからだよ。とても綺麗だね」
しばらく、もう一度は見ることのできない夜空を眺めていた。雲ひとつない、星だらけの夜空を。それは、平和という言葉よりも平和で、梅干よりも甘酸っぱくて、多分、青い鳥を手に入れた時よりも、幸せな時間だった。
それから数日後。幸と一緒に出かけることになった。結局、向った先は遊園地で、ジェットコースターや、お化け屋敷で悲鳴を上げて涙を流すことになった。
幸は名前通りの様子だった。一緒に行く相手が彩星でなくて、本当によかった。
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