乙ベルと海象

狛夕令

第1話

 「ただいま~」

 魔獣対策課勤務のサユリ・乙ベルは今日も疲れていた。

 激務に次ぐ激務、死闘に次ぐ死闘、修羅場に次ぐ修羅場。もう何日ゆっくり休めていないだろう?

 しかも、帰るべき家庭すら彼女にとっては癒しの場所にはならない。まだ〝暗黒極北地下帝国オドベヌス〟が送り込む尖兵・氷河魔獣と戦っているときのほうが、相手を殺しても構わないだけ気楽と言えた。


 「帰りが遅いぞサユリ!」

 玄関で待ち受けていた夫・イフチアンドルに叩かれた。

 血を流し、骨を軋ませ、文字通り我が身をすり減らして戦っているというのに、国家機関からの褒賞はこの男だけ。


 「痛い! バットで唐竹割しないでよ」

 「酒臭い⁉ 飲んで帰ってくるなと言っているだろう!」

 「飲まなきゃやってられないわよ! 家にいればいいだけのあんたに宮仕えの辛さの何がわかるっていいうのよ!」

 「仕事してればいいだけの身分で家事を馬鹿にするな!」


 美男子だが気の短いイフチアンドルは、問答無用でバットで打ち込んでくる。それも一撃一撃が常人なら頭蓋骨陥没もありえる威力で。

 「誰のおかげで生活できると思ってんのよ⁉」

 「経済力を盾に男の言論を封殺するなあ!」

 「痛い痛い!」


 一体、自分は何のために戦っているのだろう? 

 とてつもない理不尽を感じる。一家を養う立場であるにもかかわらず、妻子から罵倒され軽んじられる〝損な役〟は男の専売特許のはずだ。

 「また深酒したら殺す!」

 「上等よ! 殺せるもんなら殺してみろっての!」

 サユリは凄んでみせた。自分はいつまでも不当な暴力を振るわれていい人間ではない。だって女ですもの。


 「な……なんだその目は……」

 殺気をまとった凝視を受けてイフチアンドルもたじろいだ。

 「クソ主夫のあんたと戦士のわたし、どっちが強いと思ってんの?」

 「D、D、D、DVだあ⁉」

 バットを投げだして夫は自室にたてこもった。



 「苦しいですアヴァローキテシュヴァラ」

 その夜遅く、サユリの身勝手極まりない主張に、あわれイフチアンドルの心は薄紙のように千々にちぎれ飛び、涙を堪えつつ実家への手紙をしたためた。

 部屋の窓枠に鳥がとまった。催促するように鳴く。

 「頼んだよトウゾクカモメくん」

 イフチアンドルは鳥寄せの術で北極へ向かう渡り鳥を引き止め、手紙の入ったペンダントを首にかけ、お礼に鯵を一尾与えた。


 二日後、イフチアンドルの出身地である北極の地下に激震が走った。

 「父上! 父上!」

 軍服姿の王女が靴音も慌ただしく玉座へ駆けてきた。

 「おまえにしては騒々しいな」

 偉大なオドベヌス王が長女の興奮ぶりを軽く咎める。

 「イフチアンドルが人間の妻からモラハラを受けているらしいのです!」

 「何だと⁉ 本当まことであるか⁉」

 「弟自ら手紙をよこしました」


 『父上、姉上、僕は悪妻に随分苦しめられています。自分は正義の味方ごっこで世間にもてはやされ、僕は家事だけしていればいい身分だなどと暴言を吐き、少しでも反論すると腕力をちらつかせるので生きた心地がしません。捕虜の身ながらオドベヌスと人類を取り持つ努力もしてきましたがもう限界です。このままだと僕は殺されます。父上、姉上、どうか軍勢を率いて助けに来てください』


 オドベヌス王以下、極北地下帝国の民は手紙の凄惨さに憤った。姉のトゥピラク王女などはスチームアイロンのように湯気を飛ばした。

 「こいつはけしからん」

 「王子をおさんどん扱いしていたとは無礼な奴」

 「家庭を預かる男を恫喝するなど女の屑だ」

 「すみやかに制裁を」

 「乙ベルをやっつけよう」

 「父上、弟の奪還は私にお任せを。皆の者続け!」


 軍指揮官でもあるトゥピラク王女が号令をかけると、オドベヌス人は即座に一致団結、雪崩を打って地上へ飛び出した。

 「毛皮をまとえ!」

 荒ぶるブリザードも何のその、海獣の毛皮をさっと被れば、軍勢は一瞬で見事な牙を持つの大群に早変わり。顔ぶれもセイウチばかりか、アザラシ、トド、オットセイと様々だ。


 スコットランドの伝説にセルキーと呼ばれるアザラシの妖精がいる。極北のオドベヌス人の正体はセルキーと近縁の水棲人間の種族であった。

 厚い氷に覆われた大地を滑って、北極海へ次々身を躍らせる。

 ざぶーん。ざぶーん。ざぼーん。


 翌朝、サユリ・乙ベルは一人息子のハンスに起こされた。

 「ママ、お家の外にセイウチがいっぱいだよ」

 「──⁉」

 勢いよく跳ね起きて、サユリは窓から状況を目視した。

 いるわいるわ。セイウチを初めとする鰭脚類ききゃくるいがうじゃうじゃと。自宅に程近い海岸から上陸してくる。


 サユリはもう何もかもわかってしまった。

 「あのカス夫! 実家へ手紙を書いたな!」

 「もしかしてパパのお友達かな?」

 「あんたは外に出たら駄目よ!」

 素早く戦闘服に着替えてサユリは迎撃に向かった。


 「ドグラガアアアア」

 「ドグラガアアアア」

 オドベヌス人たちの怒号が海辺の街に響き渡る。アスファルトの道路を数百頭の鰭脚類がひしめき合いながら前進した。

 めざすは王子が軟禁されているサユリ・乙ベルの家。

 「よく来たわね過保護王子の取り巻きども!」

 コンクリートの壁から女の顔と砲口がぬっと現れる。肩に担ぐ特大リボルバーでサユリは迎え撃った。


 「くたばれヒレアシ野郎!」

 四頭のセイウチが吹っ飛んだ。だが、仲間がすぐ我が身をクッションにして受け止めてやったので、致命傷を負うことだけは免れた。

 「皆の者下がれ! 私が前衛に立つ」

 オドベヌス人は後退し、トゥピラクとサユリの一騎打ちの形となった。


 「よくも樹氷の御子と謳われた弟を苦しめてくれたな」

 「わたしがバットで殴られたのよ! それもほぼ毎日!」

 「論理のすり替えをするなあ!」

 日光も歪むほどの気合でトゥピラクは鰭で地面を叩きジャンプ、セイウチの巨体がサユリの真上から迫る。

 サユリは焦った。特大リボルバーで撃つには近過ぎる。かといって拳銃では、極地の極寒に耐える海獣の毛皮は貫けず、牙に当たれば跳ね返る。

 「豆鉄砲でオドベヌスをれると思ったか!」


 オドベヌス人が続々と塀を乗り越えてくる。とても防ぎきれる数ではない。

 もう駄目だ──と思ったときにはサユリはセイウチやトドの雪崩に飲み込まれ、ぐしゃぐしゃに潰れていた。


 「姉上!」

 救出されたイフチアンドルはトゥピラクと抱き合った。

 「かなり痩せたな。さぞ辛かったであろう」

 「でも、僕は本当に助かりました」

 冷酷な妻の暴虐に怯えつづけた王子はやっと自由を得た。親族との再会を果たした感動の光景にオドベヌス人は誰もが頬を熱く濡らした。


 「北極へ帰ろう。父上がお待ちだ」

 「パパ、ボクも連れていってくれるの?]

 所在なさげに問う息子にイフチアンドルは優しく微笑んだ。

 「勿論だよ、おまえは半分はオドベヌス人なんだからね。姉上、この子を甥として認めてくれますね?」

 「おまえの子なら認めぬはずあるまい。おまえに生き写しの愛くるしい坊やではないか。父上も喜んで承知してくださる」

 「ありがとう姉上。さあ、行こうハンス」


 その後、オドベヌス人と人類との間で講和が結ばれた。

 イフチアンドルはサユリと離婚、正式な法手続きに則って親権を勝ち取り、息子ともども北極で幸せに暮らした。ハンスもサユリのことなど完全に忘れてしまったらしく、ママはどうしたのなどと口にしない。

 めでたしめでたしとは、まさにこのことではあるまいか。


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