SIDE 結希:大好きな場所

 座席数三百ほどの小劇場。平台を固定し、床材のリノリウムを敷き、背景を組み立てていく。テキパキと、みんなの手でからっぽの舞台に『世界』がつくられていく。


 この時間が、結希ゆきはとても好きだった。




 ◆◇◆◇◆◇




 現実の世界で素顔の自分は見せられない。

 いい子を演じて。

 笑顔をつくろって。

 周囲にのぞまれる優等生でいること。


 苦しい自分を隠して。

 泣きたい自分を押さえつけて。

 はりつけた笑顔をふりまく毎日。


 そんな、ある日のことだった。

 演劇に出会ったのは。


 当時好きだったアイドルが舞台にゲスト出演するというのを聞いて観にいったのが最初だ。中学三年生になってすぐのことだった。


 おおげさでわざとらしい、うそっぱちの世界。なのに、本物があった。スポットライトの中に、真実が見えた。

 うそっぱちだからこそ出せる本物があって。つくりものだからこそ伝えられる真実もあるのだと、はじめて知った。


 劇場の扉の向こうにある世界。

 その魅力に、とりつかれた。


 毎年コツコツためてきたお年玉も、毎月のお小遣いもぜんぶつぎこんで――大劇場とか、有名人が出るようなものはさすがにめったに行けなかったけれど、小劇場なら結希にも手が届く。月に一度は必ず舞台を観に行くようになった。



 そうして劇場にかよえばかようほど。



 ――向こう側に行きたい。



 切実に、そう思うようになった。



 あの、うそっぱちで本物の世界。その中で生きられる瞬間があるのなら。この現実の空虚な世界でも、どうにか過ごしていけるかもしれない。

 そう思って、演劇部が活発な高校に入学して。まちがっていなかったと確信して三年。卒業後は進学せずに、尊敬する演出家が主宰している劇団の門を叩いた。


 両親には大反対されたけれど、このときばかりは結希もゆずらなかった。

 最終的に、五年やってなんらかの結果が出せなければきっぱりやめる――ということを条件に認めてもらった。


 そして。それからさらに二年がたったころ。母親の話から、従妹いとこ真依子まいこが軽い引きこもり状態にあると知った。




 ◆◇◆◇◆◇




 四歳下の真依子は、幼いころからあらゆることに『敏感』だった。ふつうなら気にもとめないようなことを気に病んで、ささいな言葉に打ちのめされてしまう。


 大人たちは『扱いにくい子ども』だと、真依子を遠ざけるようになった。それは、じつの両親でさえも例外ではなかった。



 内気でおとなしくて、だけどイヤなことはイヤだといえて、人に媚を売ったりすることもない真依子は、いっけん結希と正反対だ。が、じつのところ、ふたりのちがいは、表面を『つくろえるかどうか』だけなのではないかと思う。


 笑顔の裏にあるかすかな支配欲とか、やさしい言葉の端々に見え隠れするちいさなトゲとか。感じなくていいことまでいちいち感じとって神経をすり減らしてしまうのは、結希も真依子とおなじだったから。

 それはたぶん、人にいえば『被害妄想』といわれるレベルで。実際『つくろえない』真依子を、大人たちは『被害妄想が激しい子ども』と切り捨てた。


 とても他人ごとだとは思えなくて、結希はこれまでもなにかと真依子の世話を焼いてきた。そのせいで本人に嫌われてしまったのは皮肉だけれど。それもしかたないと思っている。

 うまくつくろえない真依子の面倒をみることで、自分のほうがまだマシだ――という優越感があったのは事実だから。敏感な真依子に嫌われるのは当然だった。



 いつも受付けを頼んでいた女性が『自分探しの旅』に出てしまったのは事実である。変わり者やはみだし者が多いこの世界、特にめずらしいことでもない。

 当然ながら、頼むあてならほかにもあった。そうしなかったのは、『口実』だったからだ。ふつうに『遊びにおいで』といっても絶対きてくれないだろう真依子を引っぱり出すための口実。

 なにしろ、まるではかったかのようなタイミングだったから。利用しない手はないと思ったのだ。

 もちろん、事前に主宰と団員にも相談して許可はとっていた。



 もしかしたら、ようやくみつけた居場所を自慢したいだけだったのかもしれない。それでも、知ってほしかった。結希を結希のまま受けいれてくれたように、ここにいる人たちはみんな、真依子を真依子のまま受けいれてくれるはずだから。世の中には、こういう人たちもいるのだと。大丈夫だと。伝えたかった。




 ◆◇◆◇◆◇




「結希姉」

「うん?」


 セットが組まれ、今は照明さんが明かりをつくっている。結希と真依子は客席の一番うしろで、ひとつひとつ明かりがつくられていくのをぼんやりながめていた。照明づくりは、じつは一番時間がかかる作業なのだ。


「劇場って……なんか不思議な場所だね」

「……そうだね」


 役者、スタッフ、観客――あらゆる人間のあらゆる感情がしみこんでいる劇場という場所は、神聖で生々しくて、不思議な気配に満ちている。


「……あたしね、役者としても観客としても『暗転』の瞬間が大好きなんだ」


 客電が落ちて、オーバーチュアが高まって、ぽっかりと暗闇に包まれる、あの一瞬。日常から非日常に切り替わる。現実と非現実が反転する。あの、瞬間。


「あと、最終日にセットバラして、からっぽになった舞台から、からっぽの客席を見るのも好き」


 そのとき感じるのは、お祭りのあとのような、少しのさみしさと、走りぬいた充実感と、なにかが洗いながされたようなすがすがしさ。


「……それってつまり、ぜんぶ好きってことなんじゃないの」


 あきれたような真依子の言葉に、結希は笑ってうなずいた。


「そうだよ。ぜんぶ好き」


 からっぽの舞台に世界をつくっていく時間。現実がひっくり返る瞬間。すべてがおわったあとの満たされた切なさ。結希は、そのぜんぶが大好きだ。


 劇場には、人のすべてがある。この場所からは、たぶん一生離れられない。


「……結希姉」

「ん?」

「……ありがと」

「え……えっ!?」


 真依子は正面に顔を向けたまま、けっして結希のほうを見ようとはしなかったけれど。その耳は、薄暗い客席にいてもわかるくらい真っ赤になっていた。


 結希が真依子に伝えたかったこと。

 それがちゃんと伝わっていたのだとわかる。


 不器用な従妹の感謝の言葉がうれしくて、結希はちょっと泣きそうになった。




 ◆◇◆◇◆◇




 公演から数か月。真依子は週に一、二回のペースで稽古場に顔を出すようになっていた。


 どうやら役者よりも戯曲に興味が出てきたみたいで、劇作家でもある主宰にいろいろ相談しているらしい。



 この先、真依子がどんな道をえらぶのか。

 この先、結希がどこまで行けるのか。


 わからないけれど、結希はあまり心配していない。


 現実と非現実が反転する劇場に。

 うそっぱちの中の本物に。

 生きる力をもらっているから。


 真依子もそうだ。生きづらい現実に息苦しくなっても、ひとりで閉じこもってしまうようなことは、きっともうないはずだ。



 だってほら。


 この重く厚い稽古場の防音扉をグ――ッと引きあけた瞬間。


「結希姉! あたしが書いた脚本、稽古でつかってくれるって……!」


 真依子のはじけるような笑顔が目に飛びこんできた。



     (おわり)


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背中あわせのふたり 野森ちえこ @nono_chie

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