背中あわせのふたり

野森ちえこ

SIDE 真依子:未知の世界

 その重く厚い防音扉をグ――ッと引きあけた瞬間、真依子まいこは『声』の圧力にはじき飛ばされそうになった。



 えんえん、わんわん、おいおい、しくしく。



 ジャージやスウェット姿の若い男女が十数人、車座になって号泣している。

 阿鼻叫喚とはこのことか。それともなんかヤバい儀式か。いずれにしろここは即まわれ右して帰るべきところだと思われるのだが。どうしたものか床に縫いとめられてしまったみたいに足が動かない。


 号泣集団からはずれてひとり佇んでいる男性がパンッ! と、手を打ち鳴らす。


「笑い!」


 泣き声がやむ――瞬間、笑い声が爆発した。



 ゲラゲラ、くすくす、あはは、うふふ。



 ――……怖いんだけど!


 真依子の脳裏に浮かんだのは『狂人』の二文字。



 ふたたび男性が手を打ち鳴らす。


 ゲラゲラ笑っていた集団が、今度は唸り、叫び、咆哮する。



 泣きから笑いへ。笑いから怒りへ。そしてまた、怒りから笑い。笑いから泣き。泣きから怒り。


 数分。あるいは数十秒単位で切りかわる圧倒的な感情の渦にのみこまれて、真依子はまばたきひとつできず、息をつめて立ちすくんでいた。




 ◆◇◆◇◆◇




 高校に入学して半年もたたないうちに真依子は学校に行けなくなった。


 なにかがあったわけではない。誰かになにかをいわれたというようなこともない。そもそも地味で存在感のない真依子はイジメの対象にすらならなかった。


 ただ――ある日突然。教室というあの狭い空間で全員がおなじ方向をみつめて座っているということに、わけもわからず胸が苦しくなって、息ができなくなった。


 違和感はずっとまえから、たぶん小学生のころから持っていた。だけどその正体がわからなくて、考えると不安になるからずっと知らんぷりをしてきたのだ。見なければ『ない』のとおなじだと思っていたから。でも、そうじゃなかった。

 それはいつしかパンパンにふくらんでいて、ちょっとした拍子に破れてはじけて――あふれだした。




 朝。学校に行くために家を出ようとすると吐き気がこみあげてくるようになって。一日休み二日休み、一週間に一度も行けなくなって。

 両親はなにもいわなかった。べつに理解があるからじゃない。無関心なだけだ。高校をやめたいといったときも『そう』と気のない相槌を打っただけ。


 反対もされず。理由も聞かれず。


 そうして高校をやめてアルバイトをはじめたのだけど。コンビニ、ファミレス、スーパー、食品工場。どれもこれも長続きしなかった。

 おせっかいなパートのおばさん。『若いやつら』と、ひとくくりに断ずる社員のおじさん。高校を中退している真依子になにかと説教したがる大人はどこにでも一定数いて。そのたび真依子は気持ち悪くなって、時には実際に吐いてしまってアルバイトに行けなくなる。


 高校に行けない。

 アルバイトも続かない。

 ふつうのことができない。

 おかしい自分。

 だめな自分。


 朝がくるたび、目がさめてしまったことに落胆して。

 落胆する自分がよけいみじめに思える毎日。


 従姉いとこ結希ゆきから電話がかかってきたのは、そんなある日のことだった。




 ◆◇◆◇◆◇




 真依子の四歳上で現在二十歳の結希は、たまたま観にいった舞台ですっかりその魅力にとりつかれてしまったらしく、高校では演劇部に所属し、卒業と同時にその道を目指してとある劇団の門を叩いた。


 明るくてキラキラしていて、前向きで行動力もあって、みんなに愛される結希が真依子は苦手だった。なにもかもが正反対。真依子が持っていないものを彼女はすべて持っている。そばにいるだけで、劣等感を刺激される。


 そんな従姉に呼び出されたファミレスで、なぜか真依子は両手を合わせた彼女に拝まれていた。


「お願い! ほとんどボランティアになっちゃうけど、交通費とお弁当は出るから」

「やだよ。っていうか、なんであたしなの」


 簡単にいえば、結希の頼みは『来月の公演で受付けの仕事を手伝ってほしい』ということだった。まったく意味がわからない。


「当日券とか物販とか現金もあつかうから、へたな人に頼めないのよ」

「それにしたって誰かいるでしょう。あたしなんかよりちゃんとした大人が」

「いつも頼んでた『ちゃんとした大人』だったはずの人が突然『自分探しに行ってくる!』って旅に出ちゃったの」

「…………」

「ちなみにその人は三十八歳の会社員。いや、旅に出ちゃったから元会社員か。ね? 年くってるからって大人だとはかぎらないのよ」


 そんなドヤ顔されても困る。


「だから真依、お願い。舞台の裏側なんてなかなか見る機会ないでしょ? 貧乏劇団でキチキチだけど、結構ちゃんとしたところだから」

「……そういうの、ほんといらないから」

「え?」

「口では『お願い』っていってるけど、本音では『真依子のためなんだから従え』って思ってる」


 結希はむかしからそうだ。引っ込み思案な従妹の面倒をみてあげる。助けてあげる。やさしくしてあげる。

 悪意のない『してあげる』がこちらをどれほどみじめな気持ちにさせるかなんて、考えたこともないだろう。


「そうだね」


 意外にも結希はあっさりとうなずいた。


「ちょっぴりね、そういう気持ちはあるよ。だってやっぱり心配だもの。……こんなこというともっと怒るかもしれないけどさ。たぶんね、真依は人よりアンテナの感度が鋭いんだと思う」


 言葉をかえるなら『感受性』が強い。というより、強すぎる。


「だから、あたしの中にある傲慢さとかもぜんぶキャッチしちゃうし、人間関係でも神経ガリガリ削られちゃう」


 ……生きづらいよね。と、ほとんどひとりごとのように結希はつぶやいた。まるで『あたしもそうだ』といっているみたいだった。





 なんだか――うっかりまるめこまれてしまったような気がしなくもない。


 あれから結局『とにかく一度稽古場にきて』というところまで話がすすんでしまった。


 否定されると思ったことをあっさり肯定されてしまったからか、怒りとか不満とかいろいろシュンとしぼんでしまって、気がついたときには結希の頼みを聞くハメになっていたのである。


 そして一夜明けて今日。電車と徒歩で約一時間かけて訪れた劇団の稽古場で、真依子は阿鼻叫喚な光景を目のあたりにすることになったのだ。




 ◆◇◆◇◆◇




 号泣して大笑いして激怒する。ヤバい集団がヤバい儀式をしているのではないかと思うようなあれを、結希は『チューニング』と表現した。


「役者はね楽器なの。同時に演奏者でもある」


 出したい音(感情)を、必要なときに必要なだけ出せるようにするための訓練であり、感情を『ひらく』準備運動でもあるとかなんとか。


 ひとり輪からはずれて指示を出していたのが劇団の主宰者らしい。ずいぶん若そうに見えたけれど、真依子の四十二歳になる父親よりも上で四十六歳というから驚いた。

 おおらかな雰囲気と鋭い視線。そしてなにより、まだ子どもといってもいい年齢の真依子に対しても敬意をもって接する姿勢が意外で。結希が尊敬してやまないというこの主宰者は、これまでに会ったことのないタイプの大人だった。



 そして。十分の休憩をはさんで再開された稽古はまた、一般人の真依子にはなにがなんだかよくわからなかったけれど。



 飛んで跳ねて。

 歌って踊って。

 笑って泣いて。

 叫んでわめいて。



 圧倒的なエネルギーを心地よく感じている自分が不思議だった。


 まるでこの場所が、空気が、両手を広げて真依子を受けいれてくれたみたいだった。



     (つづく)


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