その4

 湧き上がる歓声に包まれて我にかえると、康夫は大観衆の真ん中に立っていた。どこかで見覚えがある景色、そう、あの完全試合の日のマウンドだった。自分はまだ十九歳になったばかりの若々しい姿でバッターに対峙していた。九回裏ツーアウト、あとひとりで完全試合だ。

 康夫は落ち着いていた。振りかぶって、得意のストレートを投げた、はずだった。しかし、ボールはふわりと浮き上がり、すかさずバッターが強打した。見る間にそれは夜空へと吸い込まれ、悲鳴とも歓声ともつかないどよめきが球場を覆い尽くした。その瞬間康夫の見るもの全てがスローモーションになった。手を伸ばしてボールを奪い合う観客、呆然と立ち尽くすチームメイト、頭を抱える監督、そして、ネット裏で苦虫を噛み潰したような顔の榊の父親。


「違う、これは夢だ。俺は完全試合を達成したんだ!」


 康夫の叫びも虚しく、夢は醒めなかった。


 完全試合を棒に振った後は、運に見放されたのか、肝心な場面に限って一発を食らった。段々ローテーションから外れるようになり、焦って色々試すも、やがて無理なフォーム改造が祟って肩を壊し引退に追い込まれた。

 野球しかやってこなかった康夫は途方に暮れた。野球関係の仕事を希望しても、ことごとく断られた。家業を手伝いながら、こんなはずではなかったと世の中を恨んだ。酒に溺れて筋肉は落ち腹が出て、かつての精悍な面影は微塵も無くなった。

 酒場のテレビには一之瀬が映っていた。また完投勝利だ。俺だってあんな風だったんだ、いや、あれ以上だったと悔し涙が出た。やがて一之瀬は解説者としても注目を浴び、若くして監督に就任した。テレビカメラに囲まれ、何度もフラッシュが焚かれ、グラウンドの真ん中で胴上げされていた。一之瀬は康夫に気づくと、小馬鹿にしたようにふふんと笑った。


「やめろ、やめてくれ!」


 その時、誰かが肩を叩いた。

「康夫さん、大丈夫かい?」

 目を開けると、酒場の店主の顔があった。心配そうに康夫の顔をのぞき込んでいる。いつの間にかカウンターに突っ伏して寝てしまったようだ。康夫はゆっくりと体を起こした。汗でシャツがべったりと体に貼り付き、喉が酷く乾いていた。

「ちょっと飲みすぎなんじゃないのかい。そろそろ看板だよ。」

 そう言うと、水の入ったグラスを康夫の目の前に置いてから、カウンターの上を片付け始めた。


 康夫はぼんやりとした頭で今見た夢を思い返していた。ふと自分の腹を見ると、だらしなく膨れている。両手はぶよぶよと柔らかく、頬はたるみ、顎は二重になり、夢の中の自分の末路そのものに思えた。


 本当に夢だったのか?


 余りにも生々しい映像のせいで、康夫は自分を見失っていた。


「大将、俺は誰だろう?」

 余程不安そうな顔をしていたのだろう、店主は目を丸くして駆け寄ると康夫の両肩を掴んで揺すった。

「康夫さん大丈夫かい?だから酒は程々にしてくれって言ってるんだよ。あんたは佐藤康夫。わかるかい?元プロ野球選手で、完全試合を成し遂げた俺たちのヒーローだよ。うちの孫だって、あんたみたいな選手になりたいって、一生懸命練習してるんだ。まだまだ呆けてもらっちゃ困るよ。」


 康夫は店主をじっと見た。目の前にあるのは、こんな自分を本気で心配してくれている顔だ。

 康夫は思い切り自分の頬をつねった。痛い!とんでもなく痛かった。と同時に、何か温かいもので心が満たされていくのを感じて、ふいに涙がこぼれた。

「甲子園…プロ入り…完全試合…コーチになれたのも、一之瀬に出会ったのも。そうか。あはは。そういうことか。あはは。」

 

 店主は余計にうろたえた。


「おいおい、いったいどうしたんだい。頭でもぶつけたのかい。」


「違うんだ。すまない。違うんだよ。嬉しいんだ。たくさんあったんだよ。有り難いんだ。すまない。大丈夫だよ。ありがとう、ありがとう。」


 尚も不安そうな店主の向こう側に榊を捜した。しかし、狭い店内にその姿はなかった。


「ここにいた若い男はどこへ行ったかね?礼を言いたいんだ。」


 店主はいよいよ困ったという顔をした。


「何言ってるんだよ、康夫さん。あんたはずっとひとりだったじゃないか。」


 ふたりの間に沈黙が流れた。




 康夫はまだ気付いていなかった。胸のポケットにあの記念写真が入っていることに。そしてその顔が、今は誇らしげに笑っていることにも。

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完全試合 いとうみこと @Ito-Mikoto

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