その3
康夫は驚いて店主を見た。そしてその視線の先のテレビを見た。画面にはマウンド上に膝をつき、天を仰ぐピッチャーの姿があった。アナウンサーの「あとひとりのところで!」という絶叫が聞こえた。ゆっくりとバッターが一塁へ走ってゆく。フォアボールだ。
完全試合の夢が潰えた瞬間だった。
康夫の鼓動が速くなった。胸を押さえつけられたように息が苦しい。大観衆の中、殆どの時間をヒリヒリするような痛みに耐えながら投げていたあの頃が甦った。たった一球で人生が変わってしまいさえする、マウンドはそんな場所だった。
やがてピッチャーはグラブで地面を押しながらゆっくりと立ち上がると、もう一度天を仰ぎ、目を閉じ、大きく深呼吸をしてセットポジションをとった。
康夫は立ち上がって、画面に向けて指示を出した。
「そうだ、落ち着け、お前ならできる、大丈夫だ。次のバッターにお前のスライダーは打てない。低めに集めろ。」
結局、次のバッターをサードゴロに打ち取って試合はあっけなく終わった。お立ち台に立ったピッチャーの目は赤く腫れていた。
「完全試合は僕の悲願でしたから、あと一歩のところで達成できなくて本当に残念でした。」
そう言うと、まだ若いその投手は、高校球児のように袖で顔を拭った。その姿を静かに見守っていたアナウンサーが声を掛けた。
「それでも、ノーヒットノーランは大したものだと思いますが。」
「そうですね。それは誇りに思います。でも、最後は自分に負けました。それが悔しいです。全力で支えてくれたチームメイトにも、応援してくれたファンの皆さんにも申し訳ないです。」
そこまで言うと、帽子を取って深々と頭を下げた。球場全体から惜しみない拍手が降り注いだ。
「どうやら彼には野球の神様が降りなかったようですね。」
その言葉に、画面に引き込まれていた康夫は我に返った。
「そのようだな。」
それ程長い時間立っていたわけでもないのに、膝が軋んだ。
「だが、あいつは若い。基礎もしっかりしているし、まだまだチャンスはある。」
俺と違って、と付け加えようとしてやめた。所詮年寄りの僻みだ。
「そうでしょうか。」
榊はすぐさま異を唱えた。
「私にはもう二度とチャンスは巡って来ないように思えますが。」
榊が口元に余裕の笑みをたたえていたので、康夫は少しムキになった。
「そんなことはない。あいつには才能がある。」
「ではお聞きしますが、佐藤さんは完全試合の後、もう一度そのチャンスに恵まれましたか?」
「それは…」
康夫は言い淀んだ。実際のところ、その後はノーヒットノーランだって達成してはいない。
「完全試合にチャレンジできるのは、一生に一度あるかないかのことではないですか?しかも、殆どの人が失敗するでしょう。」
「何が言いたいんだ。」
「佐藤さんはもちろん優秀な選手でした。しかし、それと同じくらい強運の持ち主だったということです。あなたには野球の神様が寄り添ってましたからね。」
康夫はあの日のキャッチャーの言葉を思い出した。
「お前には野球の神様がついている。」
確かに、その言葉を聞いた途端体の震えが止まり、視界が明るくなった。今日の俺には野球の神様がついていると理屈抜きで実感できた。あんな体験は後にも先にもあれっきりだ。
「もしあの時野球の神様がいたとしても、一回こっきりだ。その後は見放されてたよ。」
康夫は自嘲気味に言った。テレビからは野球中継の終わりを告げるアナウンスが聞こえてきた。画面に先程の投手の肩を抱く監督の姿が映し出された。
「あの一之瀬監督にお会いしたことがあります。」
「え?」
康夫はもう一度テレビを見上げた。画面は既にCMに切り替わっていた。一之瀬は康夫がコーチ時代に育てた投手だ。三度も最多勝を取り、先発を外れたあとはセーブ王としてその名を轟かせた球界の至宝とも呼べる存在で、今では常に優勝を狙えるチームの監督となっている。何とも華々しい野球人生だ。
「入団当初、監督はさほど注目されてなかったそうですね。」
康夫が三十代の頃だ。一之瀬は大学野球で活躍したあと、ドラフト三位で入団した。ひょろりと背が高く、角度のある球を投げるしコントロールも悪くなかったが、どうにも球に力がなかった。そのため一軍での起用は早々に見送られ、当時康夫がピッチングコーチをしていた二軍で調整することになった。
康夫は早くから一之瀬の可能性に気付き、身体作りからフォーム改造まで徹底的に指導した。
そして、三年目にして一之瀬の才能は大きく花開くこととなったのだ。それはまた、康夫の一軍昇格をも引き寄せた。康夫にとっては、コーチ時代の輝かしい実績のひとつだ。
「監督は仰ってました。佐藤コーチがいなければ今の自分はいないと。」
確かに、当時康夫が一之瀬にのめり込むのを上はよく思っていなかった。上は即戦力が欲しかったので、康夫の悠長なやり方が気に入らなかったのだ。あからさまに妨害する者までいた。しかし康夫は決して信念を曲げなかった。
そして、一之瀬はその期待を何十倍にもして返してくれた。その活躍も振る舞いも、全てが素晴らしかった。しかしそれは一之瀬の不断の努力に依るもので、自分はただサポートに徹しただけだと康夫は思っていた。
「買いかぶりだよ。」
「そうでしょうか。監督の佐藤さんに寄せる信頼は相当なものだと感じましたが。」
それは一之瀬が初めての監督就任に内定した三年前のことだった。久し振りに康夫の元を訪れると、思いがけず一軍のピッチングコーチを依頼した。
康夫はその場で断った。球界を去ってから既に十年以上が経っていた。今更あの勝負の世界で自分が通用するとは到底思えなかった。それに一度は自ら捨てた場所だ。尚も一之瀬は食い下がったが、康夫は頑として首を縦に振らなかった。今更老醜を晒すつもりはないと突っぱねた。
一之瀬は今でも時折康夫に連絡をよこした。年賀状だったり、中元や歳暮だったり、自分のチームの試合が康夫の町の近くである時は、そのチケットを送ってきたりもした。
そして、その末尾には必ず、うちのチームに来てくれませんかとの誘いの文言があった。
康夫は有り難いと思う反面、少し煩わしくもあった。その言葉を見る度に、心の奥底の、とっくに忘れたはずの何かをかき乱される気がした。
「球界に復帰される考えはないのですか?」
「ないね。今更こんな老いぼれに何ができるって言うんだ。」
康夫は即答した。
「お辞めになる時は、随分慰留されたと聞きましたが。」
「社交辞令さ。」
榊は首を横に振ると深く息を吐いた。
「佐藤さん、あなたは自分がどれだけ多くのものを手にしているか全くおわかりになっていません。」
榊は立ち上がると、真っ直ぐに康夫を見下ろした。
「あなたは野球の神様に愛されて、現役時代はその才能を遺憾なく発揮されました。それにとどまらず、自分が受け取った以上のものを次の世代に伝えもしました。実に素晴らしいことです。それなのに、当の本人はちっとも幸せそうではない。そんな風では、野球の神様が悲しみますよ。」
見上げる榊の顔がぼやけ始めた。その声が遠ざかっていくにつれ、康夫は自分の体を支えられなくなって、カウンターに体を預けた。
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