その2

 康夫は入団以来ずっと同じ球団に所属した。球団を愛する気持ちは誰にも負けない自信があった。三十代も四十代も、時に退屈なサラリーマン生活のように思えたが、いつかは監督としてグラウンドのど真ん中に立ち、再び注目を浴びることを夢見て耐えた。しかし、口下手でリーダーシップとは縁遠い康夫には、監督どころか、解説者の誘いすらなかった。


 せめて引き止めてもらえるうちにと退団し、その後は家業の酒屋を手伝う傍ら子どもたちに野球を教えてきた。自分の手でプロ野球選手を育てるのが新たな夢になった。


「野球はもうだめだ。」

 康夫は、店の片隅の冷蔵ケースから慣れた手つきでビールを取り出すと、栓を抜いてカウンターに戻った。テレビでは、九回表の攻撃が始まっていた。

「だめと言うと?」

相変わらず無邪気な目で男は訊いた。

「今時の子は野球になんぞ興味がないからな。」

 自分が子どもの頃には、男の子の殆どが野球に夢中だった。ボールさえあれば、どこでも野球が始まったものだった。

「今の子はサッカーの方が好きだろ?水泳やら体操やら、スケートを習う子までいる時代だしな。」

 康夫は勢い良くグラスを傾けた。酔いが回って来たのか、日に焼けた首筋まで赤黒く染まっている。


「練習の最中でも、やれ塾だ、習い事だと平気で抜ける。親が連れて帰るんだ。週末の練習も、ニ日は多過ぎる、一日にしてくれだとさ。そんなことでプロ野球選手が育つもんか。」

 康夫は憤懣やる方ないという顔をした。缶ビールなら握り潰していたかもしれない。


「確かに、野球人口はする方も見る方も減る一方ですね。野球中継だって今じゃあまりやりませんし、さあこれからって時でも放送を延長しませんからねえ。もう野球は終わりでしょうね。」

 男の言葉に康夫はムッとした。お前のような奴に何がわかるんだと喉まで出掛かったが、ビールと共に飲み込んだ。こんな奴に言ったところで何かが変わるわけでもないと思った。


「それで市議会選挙に出たんですか?」

 康夫は驚いて、今度はグラスを倒しそうになった。

「そんなことまで知ってるのか。」

 男は康夫の反応が楽しくて仕方ないとばかりに明るく答えた。

「新聞社の友人から聞いたんですよ。お陰でこうして佐藤さんに会えました。あ、申し遅れました、私は榊と言います。」

 男はそう言うと、銀のケースから一枚の名刺を取り出してふたりの間に置いた。肩書きにはフリーライターとあった。


 それを見た康夫の顔色が変わった。

「俺をネタにしようっていうのか。」

 康夫が気色ばむと、榊は大袈裟な身振りで否定した。

「とんでもない。佐藤さんにお会いしたい一心で来たんです。そもそも専門外ですから記事にするつもりは毛頭ありません。お約束します。」


 康夫は物書きの言うことが信用ならないことをよく知っていたが、書くなら書けばいいと思った。俺は恥ずかしいことは何もしていない。


 康夫は半月前の市議会議員選挙に立候補していた。中学の同窓会で、体を壊して議員を引退する友人から、後継者にならないかと誘われたのだ。康夫たちの年代では康夫はヒーローだった。今でもこの町の高校から出た唯一のプロ野球選手だし、プロ入り一年目の快挙は語りぐさになっていた。

「大丈夫、康夫程の知名度があれば楽勝だよ。」

 初めは乗り気ではなかったが、酒の勢いもあって承諾してしまった。今思えば馬鹿なことをしたものだ。


「残念でしたね。当選したら、スポーツで地域に貢献するつもりだったのでしょうか?」

 康夫の公約の中でいちばん声高に主張したのが、地域のスポーツ振興だった。この町にはこれと言って強いスポーツがない。スポーツだけではない、他の地域に誇れるものが何ひとつないのだ。

 だから康夫は、「スポーツの町、健康の町、誰もが生き生きと暮らせる町」をスローガンにした。


 しかし、この町の経済はスポーツなどに金をかけられる状況では無かったようで、地域経済、福祉、子育てを標榜する候補者が、康夫が得るはずの票をみんなかっさらっていった。結果、康夫は最低の得票数で落選したのだった。


 康夫を推していた友人たちはひっそりと離れていき、まるで康夫が調子に乗って出馬したかのような噂が立った。元々反対していた家族は殊更冷たかった。


「俺はただ、人の役に立ちたかっただけなのに。」

「本当にそれだけですか。」

「他に何があるっていうんだ。」

「佐藤さんは強欲ですからねえ。」


康夫は一瞬自分の耳を疑った。

「今、なんて…」

「強欲だと言いました。」

 榊は康夫を真っ直ぐに見つめると、微笑みをたたえながら繰り返した。


 康夫は混乱した。隣にいる好青年から出た言葉とは到底思えなかった。俺は頭が良くないが、強欲の意味は取り違えて無い筈だ。強欲とは「欲深いこと」だよな、間違いないよなと心の中で何度も繰り返した。


「強欲ってどういう意味だ。」

「言葉通り、欲深いことですよ。」

「そうじゃない!なぜ俺がお前にそんなことを言われなきゃならんのだ。」

 康夫はだんだんと腹が立ってきた。榊を好青年だと思った自分にも腹が立つ。


「そう思ったからそう言ったんですよ。お気に障りましたか。」

「当たり前だろう。俺のどこが強欲だって言うんだ。俺は昔から自分を抑えて周りのために生きてきたんだ。いつだってたくさんのことを諦めてきたんだ。今だって何も欲しがっちゃいない。それを強欲だと?いい加減にしてくれ!」


 次第に大きくなる声に、店主がこちらをちらちら見始めた。しかし、榊が手を挙げて制止するような素振りをすると、店主は再びテレビ画面に視線を戻した。


「では、何故出馬を?」

「だから言ったろう。担ぎ出されたんだよ。俺だって誰かの役に立てると思ったんだ。」

「終わった人と思われたくなかったのでは?」

「何だと!」


 思わず振り上げた康夫の腕を、榊は素早く掴んだ。その優し気な見かけからは想像できない身のこなしだった。康夫は軽く恐怖を覚えて、掴まれた腕を振りほどくと力無く座り込んだ。


「すみません。ちょっと言葉が過ぎましたか。」


 榊はあくまで笑顔を崩さなかった。康夫のコップにビールをなみなみと注ぎ目で勧めた。

 康夫は促されるままひと息に飲み干すと、大きなため息をついた。


「あんたにそんなこと言われる筋合いはない。」


 康夫はこれまでの人生を思った。小さい頃から勉強はできなかったが運動神経は抜群で、夢中になった野球でたまたま甲子園に出場し、初戦敗退だったにも関わらずスカウトの目に留まった。それからは何もかもトントン拍子に進んで、あれよあれよという間にプロ野球選手になっていた。

 しかし、輝いていたのはほんの一瞬だった。まるで打ち上げ花火のように華やかに咲き、あっという間に燃え尽きて、その後は誰からも見向きもされなかった。そう、もう何十年も、誰にも注目されることなく生きてきた。

 今じゃこんな場末の酒場に入り浸り、初めて会った男にまで馬鹿にされる始末。

 そんな人生なんかクソ食らえだ。


「佐藤さん、あなたは大きな勘違いをしておられるようだ。あなたは実にたくさんのものをお持ちではないですか。」


 突然、店主が叫び声を上げた。

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