完全試合
いとうみこと
その1
「隣、いいですか?」
佐藤康夫が見上げると、ひとりの男が立っていた。
「どうぞ。」
康夫は、散らかった皿を自分の方に寄せて重ねた。店主は野球中継に夢中で空いた皿を片付けようともしなかったので、狭いカウンターの上は数枚の皿で半分ほど埋まっていた。
「すみません、失礼します。」
そう言って座った男は、糊の効いた白いシャツの袖を肘まで折り返し、細身の濃いグレーのスラックスに、これまたよく磨かれた革靴を履き、肩よりも長いであろう黒髪をきっちりと後ろで縛っていた。広くもなく、清潔でもない、安いだけが売りの酒場にはあまりにも似合わない。
しかし、なぜこの男は俺の隣に座ったのだろうと康夫は思った。三つあるテーブル席は二つ空いていた。しかも、埋まっているひとつに座っているのは店主だった。
つまり、この店の客は、ついさっきまで俺だけだったのだ。
男の態度に少しの不信感と不愉快さを覚えた康夫は、脚を組み替えて体の向きを男とは反対側にした。テレビからは八回裏を三者凡退に抑えた投手を讃える解説者の声が聞こえてくる。このまま九回も抑えれば完全試合だ。
「お近づきの印に一杯いかがですか?」
隣の男の声に、康夫はもう一度体の向きを変えることになった。ちょうど自分の瓶が空になりかけたところだったので、そこは遠慮なくコップを差し出した。
康夫は男の向こう側のテレビに目を向けた。今日はピッチャーの調子がいい。派手さはないが、堅実でスタミナもある逸材だ。今のところ力んでいる様子もないし、相手チームのバッターにも冴えがない。このまま本当に完全試合を成し遂げるかもしれない。
「完全試合と言えば、佐藤さんもプロ入り一年目で達成されましたね。」
康夫は危うくコップを落とすところだった。隣の男は人懐こい笑顔を浮かべて康夫を真っ直ぐ見つめていた。どう見ても三十代か、仮に四十代だとしても、当時の自分の活躍を生で見ている年代では無かった。あれからもう五十年近くの時が流れているのだ。
「どうしてそれを?」
男は、半分空いた康夫のグラスにビールを継ぎ足すと、胸のポケットから一枚の写真を取り出した。
「私の父が佐藤さんの大ファンでして。」
それは随分と色褪せていたが、大切にされてきたのだろう、染みも皺もなくプラスチックケースにきちんと収まっていた。緊張しているのか、口を真一文字に結び、グラブとボールを胸の前に掲げた康夫の写真に、右上には完全試合という文字、左下にはサインがしてある。
「ファンの集いか何かで当たったと言ってました。父の宝物です。今では形見になってしまいましたが。」
あまりにも昔のことでよく思い出せないが、確かにそんなことがあった気がする。それにしても、なんだこの顔は。完全試合という偉業を成し遂げたのに、晴れやかさのかけらもないじゃないか。
康夫は半世紀も前の自分の顔に嫌気が差した。
「父はよく言ってました。人生でいちばん興奮したスポーツの試合はあの完全試合だって。佐藤さんが素晴らしいのはもちろんのこと、チームメイトの、絶対にタイトルを取らせるんだという気迫が球場全体に満ち満ちて、まるで別世界に迷い込んだような気がしたって。」
康夫はいつの間にか男の話に引き込まれていた。そうだった。あの日はまだ暑さの残る九月で、優勝が狙えるところにいた俺たちのチームにとっても大事な試合だった。
「お父さんは球場にいたんだね?」
「そうです。しかもネット裏だったそうです。」
康夫の脳裏に、当時の記憶がありありと浮かんだ。完全試合を意識し始めた六回に急に制球が乱れたこと。チーム一のベテラン捕手がタイムを取って「今日のお前には野球の神様がついてる。大丈夫、安心して俺に任せろ。」とミットの向こう側で囁いたこと。その後は嘘のように次々と三振が取れたこと。
「今考えても、夢のような試合だったよ。」
口元に微かな笑みを浮かべながら、康夫はなみなみと注がれたビールをすすった。
「しかし、その後がな。」
一年目の康夫は新人賞を獲得して大幅に年俸を上げ、更なる活躍を期待された。しかし、翌年はそれなりにチームに貢献したものの、一年目のような華々しさが無かった。
俺の実力はこんなものではないと常に思っていたので、その翌年もその次も、十分年俸に見合うだけの勝ち星を上げながら、康夫は自分の成績に満足することはなかった。何度マウンドに立っても、あの完全試合の時のようなゾーンには決して入れないのが悔しかった。そして二十七歳の時、肩の故障によって残酷にも投手生命を絶たれた。あの時の医者の説明を今でも夢に見ることがある。
「あの故障さえなければその後も活躍できたでしょうに、残念でしたね。」
康夫の心を読んだかのように男は言った。
「でも、その後はコーチとして多くの名選手の育成に携わったじゃないですか。」
この男は本当によく知っている。康夫は改めて男の顔をまじまじと見た。康夫は現役を引退した翌年からピッチングコーチとして働き始め、その後の野球界を牽引するピッチャーを数多く育てた。
しかし、だ。
どんなに名選手を育てようと、康夫の名が世間に知られることはなかった。もてはやされるのは、お立ち台に立つ者だけ。そしてチームを率いる監督だけだ。
「選手としてもコーチとしても有能な佐藤さんが、何故監督にならなかったんでしょう。」
ちょうどその時、画面に監督のアップが映ったのが見えた。
俺にはあいつのような華はないからな。
康夫はグラスに残ったビールをあおると、注ごうとする男を左手で制し、自分の瓶に残ったビールを注ぎ切った。
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