第7話

 暗闇の中で目を覚ました。目覚まし時計を見て午前一時前であるのを知る。昨日と同じ時間に目を覚ますなんて気分が悪い。

 エアコンのタイマーは切れていた。設定時間を間違えたらしい。全身が汗だくだ。喉の渇きはそれ以上につらい。

 ねっとりとした闇が揺らいだ――ような気がした。

「誰?」

 人の気配を感じて暗闇に目を凝らす。

 ドアが開いており、その手前に制服姿の美凉が立っていた。白いブラウスが闇に浮かんで見える。スクールバッグを肩にかけているけれど、まさか迎えに来たのだろうか。

「美凉、どうしたの? どうやってうちに入ってきたの?」

 ベッドから起き上がろうとしたわたしは、自分の恥ずかしい姿に気づいた。仰向けのまま、足元に丸めておいたタオルケットを肩までかける。

「鍵なんてかかっていなかったよ」

 ベッドの脇に歩み寄った美凉が、タオルケットを剝ぎ取って床に投げ捨てた。

「何をするの? ひどいじゃない」

 わたしは憤慨し、起き出して美凉の前に立った。同時に、タンクトップの裾を右手で下に引っ張り、ショーツを隠す。

 その右手を美凉が握った。

「行こう」

「行こう……って、どこへ?」

 わたしは美凉の顔を見た。

「すぐそこだよ」

 普段の澄まし顔とは違う。けだるそうな表情だ。その冷めた視線がわたしをとらえている。

 美凉に手を引かれて階段を下りた。けれど、一階に下りたところで、わたしは美凉を引き止めた。

「外へ出るの? こんな格好じゃ無理だって」

 両親に気づかれないように声を潜めた。お父さんにこの姿を見られたくないことも、声を潜めた理由の一つである。

 美凉も口を小さく開いた。

「大丈夫。何も心配はいらない」

 美凉はわたしを玄関の外へと連れ出した。

 サンダルさえ履けなかった。美凉だってソックスのままだ。振り返ると、玄関に美凉の靴はなかった。裸足でこの家まで来たのだろうか。もっとも、玄関の周辺はすでに乾いており、二人とも足が泥まみれになることはなかった。

 美凉がそっと玄関ドアを閉じると、わたしは空を見上げた。昨夜とは違い、星空が広がっている。十三夜月が夜の世界を皓々と照らしていた。

 焦げ臭さが鼻を突いた。鎮火はしたけれど、灰と化した残留物が、依然として異臭を放っているのだ。

 道路も我が家の玄関先と同様、概ねは乾いているようだ。部分的には水たまりが残っているけれど、この暑さでは朝には消えているだろう。

 正面の奥を見ると、山村さんの家はなく、大きな暗闇があった。焦げた塀に囲まれた敷地内には、倒壊した黒焦げの木材などが散乱している。そちらは未だに水浸しだ。

「なんだか暑いよね」

 美凉はそう言ってわたしの手を離し、スクールバッグを足元に置いた。

「変だよ。美凉が暑いだなんて」

 違和感をぬぐいきれず、わたしは美凉をまじまじと見つめた。

「変かなあ?」

 美凉は首を傾げ、襟のリボンを外して胸のポケットに押し入れた。そして、ブラウスのボタンを上から順にゆっくりと外し始める。

「暑い暑い」

 ボタンを三つ外したところで、美凉はブラウスの胸元をつまんで軽く扇いだ。白いブラジャーが垣間見える。

「ところで、わたしをこんな格好で表に出しておいて、いったいなんだっていうの?」

 わたしが問うと、美凉は黙って門のほうを指差した。

 門の外、暗い路上に誰かが立っている。

 パジャマを着た長身瘦軀――。

「おっさんが澪に話があるんだってさ」

 平然とした様子で美凉は告げた。

「うそ。山村さんはもう……」

 わたしは首を横に振った。

「うそじゃないよ」

 にこりともせず、美凉はたたずんでいた。

「美凉、家の中に入ろ――」

 わたしが言い終えないうちに、美凉はわたしの背中を押し始めた。

「ちょっと待ってよ」

 けれど、美凉はわたしの背中を両手でぐいぐいと押し続ける。

「もたもたしない」

 抑揚のない声で美凉はせき立てた。

 逃げようとしても力が入らなかった。美凉に押されるまま、足を前に進めてしまう。

 そうやって門のところまで来ると、美凉はそそくさと門扉を開けた。

「さあ、澪」美凉は横にのいた。「さっさと済ませちゃおう」

「済ませる、って……」

 こんな状況下でも恥じらいがあった。タンクトップの裾を右手で下に引っ張りながら、その長身痩躯を見る。タンクトップの表面に胸の二つの突起が露わになってしまったので、左手で胸元を覆った。

 こちらに正面を向けてうつむいているのは、どう見ても山村さんだった。眼鏡のレンズが両方とも割れており、顔中に赤い切り傷が走っている。

 わたしは腰が引け、タンクトップの裾から右手を離してしまった。

「山村さん、あの……」と声を震わせて見下ろせば、山村さんも裸足だった。

 そして、その傍らには一匹の白い猫がいた。疑うまでもなく、それはユキだった。四本の足でしっかりと大地に立ち、丸い瞳でわたしを見上げている。

 ユキは何かをくわえていた。鼠のように見えるそれは、かなり大きい。

 胸を隠していた手を下に突き出し、わたしはユキを視界から遮ろうとした。無論、片手でユキの姿を見えなくすることは不可能だった。

 震える両手をどうしてよいか判断できずにわたしが右往左往していると、ユキは獲物をその場に置いた。

「困ったものだ」

 山村さんはうつむいたままユキの獲物を右手でつかみ上げた。

「ミルク、もう行っていいよ」と美凉に声をかけられたユキは、自分の獲物など見向きもせず、西側の杉林のほうへと走り去った。

 わたしは玄関に向き直り、美凉を見た。

「ミルク?」

 わたしが眉をひそめると、美凉はかすかに頷いた。

「ユキは、ずっと前にあたしと一緒に暮らしていたミルクなんだよ」

「そんなこと、ありえないよ」

 言葉では否定したけれど、自信はなかった。

「だって、あたしはずっとミルク……いいや、タマと一緒だったし」

 うつろな声がわたしを震えさせた。

「美凉、何を言っているの?」

「いいから、おっさんと話しなよ」

「嫌だよ。話なんてできるわけないじゃない」

 逃げ出したいのに、足が動かなかった。

「お願い。家の中に入ろうよ」

 懇願したけれど、美凉は黙ってわたしを見つめていた。

「美凉、何それ?」

 短いスカートから伸びる太ももに、わたしの目が釘づけになった。何本もの赤い筋が流れているではないか。

「赤ちゃん、死んじゃった」

 美凉の顔に表情が生まれた。悲しみに沈んだ重い色だ。そして、ゆっくりと自分の下腹部を両手でさする。

「赤ちゃんだなんて……そんなはずがない」

 ふと、足に感覚が戻った。わたしは美凉を見つめたままあとずさる。大好きな美凉であるはずなのに、今は、暗い冷たさしか感じられない。

「澪、どうしたの?」

 玄関を背にして、美凉がゆっくりと近づいてきた。

「嫌っ」

 自分の恥ずかしい格好なんて気にしていられない。わたしはとっさに門の外へ逃げ出そうとした。

 振り向くと、すぐ目の前――門の内側に山村さんが立っていた。

「見てくれ」

 山村さんは顔も上げずに、右手につかむものをわたしの目の前に突き出した。

「な、何?」

 突き出された暗い色の塊を、わたしは見た。

 鼠ではなかった。

「ひいいいっ」

 わたしはのけ反った。

 人間の胎児だった。大きさは二十センチ程度で、全身が血まみれだ。へその緒や胎盤までぶら下がっているけれど、どうやらそれが鼠の尾に見えたらしい。閉じたままの左右のまぶたがそれぞれ巨大な眼球を包み込んでいるが、今にも開きそうな気がした。股間をよく見れば、男の子だった。

 そんな胎児の正面が、わたしの目の前で揺れていた。

「どうして逃げようとするの? おっさんの話はまだ済んでいないよ。ちゃんと聞いてあげなよ」

 美凉がわたしの背中に抱きつく。わたしは両腕ごと上半身を拘束されてしまった。美凉の胸が、汗で濡れたタンクトップをわたしの背中に押しつける。

「やめてよ美凉」

 けれど、美凉はわたしの耳元で力なく笑うだけだ。

 この笑い声は本当に美凉のものなのだろうか。何がなんだか、わたしにはわからない。

「困ったものだ。本当に困ったものだ。このおれが世継ぎを死なせてしまうとはなあ。しかし、千代川家の血を絶やすわけにはいかない。何があっても萩原の軍勢の好きにさせてはならない」

 山村さんが小声で告げると、胎児の小さな手足がわずかに動いた。

糞尿のにおいが鼻を突く。

「やめて――」

 わたしは口を塞がれた。胎児を顔に押しつけられたのだ。ぐにゃりとした感触が、わたしの顔から離れない。

「おっさんの話、ちゃんと聞いた?」

 耳元に美凉のなま暖かい息がかかった。

 わたしが顔を左に背けると、ぐにゃりとした感触は右頬に移った。少なくとも口は解放されている。

「いやあああああ!」

 わたしは叫んだ。恥ずかしい姿なんて気にしている場合ではない。両親でも近所の人でもかまわないから気づいてほしい、と願った。

「いやああああああああああ!」

 今度はさらに長く、力の限り叫んだ。

「やめてよ! 誰か助けて! お願いだから誰か来て! いやあああああ!」

 何度も叫んだ。

 けれど、お父さんもお母さんも近所の人も、誰も来てはくれない。

「誰も来ないよ。みんな眠っている」

 と美凉が言った直後に、胎児の感触がなくなった。

 正面を見ると、山村さんの姿がなかった。胎児も跡形もなく消えてしまっている。けれど、心が安まるわけがない。

「どうして誰も起きてくれないの……」

 背後から美凉に抱きつかれたまま、わたしは嘆いた。

「今はあたしたちだけの時間なんだよ」

 美凉はわたしの耳元で囁いた。

「意味がわからない」

 わたしは首を横に振った。

「ねえ、澪。ずっと友達でいてくれるんだよね?」

 問われたけれど、わたしは答えられなかった。

「ミーちゃんコンビはずっと続くんだよね? これからも一緒にいてくれるんだよね?」

 美凉は単調な声で畳みかけた。

「友達なら」わたしはなんとか口を開いた。「こんなひどいことはしないで」

「友達だからこそ、あたしはこうやっているんだよ」

「お願いだから、もうやめて」

 もがいたけれど、美凉の両腕を振り払えない。

「あたしはもう年を取らない。いつかは独りぼっちになってしまう。だから、澪も同じになるんだよ。澪も同じになるんだったら……何も悲しくない」

 そして美凉は、へらへらと笑った。

 不意に、周囲が赤くなる。

 わたしは夜空を見上げた。

 月が赤く輝いていた――いいや、月なんかじゃない。縦長の楕円形のそれは、夜空に浮かぶ肉塊だ。

 どこかで誰かがぶつぶつとつぶやいていた。美凉の声でなければ山村さんの声でもなかった。お父さんやお母さんでもない。複数の女性の声に聞こえる。

 天空の肉塊が徐々に大きくなってきた。こちらに近づいてきているのだ。

「あれが神様……千の仔を孕みし森の黒山羊……母なるもの、つまり女神だよ」美凉は言った。「これからは誰にも気兼ねはいらない。だって、神の子になるんだし」

 巨大な肉塊の表面に無数の嫌らしい口が蠢いていた。それらおのおのの口が、わたしには理解できない言葉でつぶやいている。

 肉塊の下のほうから、四本の足がにょきにょきと生えてきた。よく見れば、四本とも先端が蹄である。

 異臭が漂った。胎児のあのにおいなど比べものにもならないほどの、糞尿と生ゴミとを混ぜ合わせたかのような強烈な悪臭だ。

「ああ……わたしも美凉と同じになるんだね」

 背中から美凉に抱き締められたまま、わたしは体中の力が抜けていくのを感じた。

 神様の口の一つが、大きく開く。

 永遠の世界にわたしは招かれた。

 わたしも神の子になるのだ。

 だからわたしの縄張りは、もう誰も穢せない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

縄張り 岬士郎 @sironoji

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ