字句の海に沈む

夢月七海

字句の海に沈む




『 外はこそこそ話が聞こえてきそうなほど静かだった。絵の具の匂いに満たされた自室で、友理奈は絵筆を滑らかに動かしていく。

 開けっ放しになった窓から入ってくる夜風が、レースのカーテンをそっと押し上げる。必死に絵を描いていたのにいつの間にか茅ケ崎先輩のことを考えていた。』




 ここも夜のように真っ暗だと、俺はふと思った。

 白い明朝体の縦に羅列された文字の浮かぶ向こうには、どんな海溝の水圧に耐えられるほどの分厚いアクリルガラスがあり、その向こうはライトに照らされていても、果ての無い闇だ。




『 他県の大学に編入することを決めたと言った先輩の言葉を思い出した。その直後に、「そんな顔するなよ」と、寂しそうに微笑んでいた顔も。

 いつの間にか集中力が切れていたことに気付き、友理奈は手を止めた。机の上にパレットと筆を置き、肺の中の空気を全部吐き出した。           』




 俺も、一緒になって息を吐いていた。読書をするのがとても久しぶりだから、妙に体が緊張している。

 目の前の文字の向こう、計器はゆっくりと沈んでいく深度を示している。自動運転には何の問題もないはずだが、代わり映えの無い景色に不安を覚えるのもいつも通りだった。




『 友理奈は立ち上がり、カーテンを少し開けて外を見た。夜の闇は果て無く広がっていて、じっと見ていると恐ろしさを感じるほどだった。        』




 夜と深海はよく似ている。何十回も潜ってきて、そんなことを思うのは初めてだった。

 宇宙と海の深い所が似通っているのは妙な心地だ。すべての物事は繋がっていると、言っていたのは誰だっただろうか。


 頭の片隅で、そんなことを思いながら読み進めていく。

 ずっと同じ体勢だったので、首が疲れてきた。ちょっと顔を上に向けて、視界の中についてきた文字を目線でなぞった。




『 ふと、眺め続けている暗闇が少し明るくなってきたように見えた。息を呑んで動けない友理奈の頭上で、空の色が少しずつ白色へ変化していく。家の左手側、建物が陰になって見えていないが、そこから日の光が町に投げ掛けられている。

 瞬く合間に朝が夜を退けて、空に青色が戻ってきた。しかし、昼間に見るような眩しい原色の青ではなく、柔らかくて淡い色をした青だった。        』




 あ、淡色だ。ここまで何度も登場していたが、再びこの小説のタイトルになっている言葉を見ると、どきりとしてしまう。

 こういう時の嬉しさは何というのだろう。俺が首を傾げると、文字も同じ角度に傾いた。


 丁度、一番最後の文字まで読み終えたので、文章の下の空間を左から右へとスワイプして字を送る。

 俺は、すでに読んだ箇所を視界に入らないまで送ってから、新しい箇所を読み進める方が読みやすいと、この本の中盤くらいで気が付いた。




『 茅ケ崎先輩の絵の色だと、友理奈はその淡い青色を見ながら思った。最初に見せてくれた先輩の絵の美しい青色と、目の前の空の色が重なり合う。

  私は、先輩のことが、                        』




 ガラスの向こうに、何かが動くものがあり、俺はそちらの方へ焦点を合わせた。

 それはチョウチンアンコウだった。額から伸びた触覚の先の灯りをぼんやりと光らせて、潜水艦の白いライトの中を悠々と横切っていく。


 俺は読書を中断して、そのアンコウが泳いでいるのを見えなくなるまで観察していた。

 俺が十五歳まで暮らしていた星では、生物をガラス越しに見たことが無かったので、海底発掘の仕事のキャリアを重ねた今でも深海魚を見ると目で追ってしまう。


 それからまた、目の前の文字に意識を戻す。

 潜水艦の中で浮かんでいる地の文の、途中から読み進めた。




『 私は、先輩のことが、大好きなんだ。

  その気持ちは素直に、透明な水に絵の具を一滴落としたかのように、ゆったりと確実に広がっていった。友理奈の心はもうすでに茅ケ崎先輩に染められていた。

  今日中に絵は完成する予定だった。それを持って、茅ケ崎先輩と別れの挨拶をしよう、友理奈はそう決めた。                      』




 ここで、場面展開を意味する行間が入っていた。左端の数字を確認すると、残り文字数は三百文字ほどだった。

 俺は、手を伸ばせば届きそうな位置で浮遊する文字を消した。そのまま、かけているのを忘れているくらいに軽いゴーグルを外す。


 深く溜め息をつきながら、上を見た。ハッチの少し斜め前に搭載された、スピーカーに目線を向ける。


「スティーブンス」

『はい。何でしょうか』


 俺が声をかけると、この潜水艦に一時的に搭乗させているAIが間髪を入れずに返事をした。

 ちなみに、このAIは普段は旧型のロボットに搭載されていたもので、亡くなった父が好きな小説の主人公が愛称になっている。


「今読んでいた小説、ハッピーエンドになるのかな?」

『わたくしならば、そのデバイスにアクセスして、結末を先にお教えすることが出来ますが』

「いや、そういう事じゃなくて」

『結末が幸福かどうかは、読んだ人の感性によるところです』


 スティーブンスは、はっきりと言い切った。

 こういう融通の効かないことをするところが、こいつの憎たらしい所だ。発売当時は「人間の感情に最も近い人工知能」と言われたらしいが、今では時代遅れになっている。


『しかし、おぼっちゃまが艦内で読書をしているとは、非常に珍しいことですね』

「ん?  ……まあ、そうだな」


 スティーブンスはさらに皮肉を言ってくる。今の持ち主は俺なのに、こいつはいっつも「おぼっちゃま」呼びのままだ。

 ただ、スティーブンスの戸惑いも分かる。普段の俺なら、ARゲームをして潜っている時間を過ごしているからだった。


「この本は特別で……あの、初恋の人が読んでいた本だったんだ」

『そうでしたか!』


 スティーブンスはわざとらしく驚いた声を上げる。耳が一瞬キーンとした。

 初恋の相手と言っても、彼女は一つ年上で、遠くから見ていただけだった。緑化ドームのベンチの上で、その時にはすでに珍しかった紙の本を読んでいたのが印象に残っている。


 十年前に俺たち家族はスティーブンスを連れて、生まれ育った惑星から地球に移ってきたので、とっくに彼女のことも忘れていた。

 ふと思い出したきっかけは、ニュースでその惑星のことを見ていたからという、なんとも味気ないものであった。


『これがきっかけで、本に興味を持っていただくのは、素晴らしいことです。私のアーカイブにも、大量にありますから』

「確かに、悪くなかったな」


 この本ある? とスティーブンスに尋ねると、間髪入れずにありますよと答えられたのには驚いた。

 俺とは正反対に父は読書家で、スティーブンスに古今東西の小説のデータを入れていたからだった。


 単純に端末を使っていると肩が凝りそうだし、スティーブンスの朗読だと気恥しいしで、どんな方法で読もうかと思っていたが、試してみたAR読書のアプリは中々良くて、俺には合っていた。

 暗い海に沈んでいくのは、何か気を紛らわせていないと押し潰されそうなくらいの不安と孤独感があるものだが、ぼんやりと一人きりの空間に浮かぶ文字を読むことは、程よく没頭できるかもしれない。


 俺は座席のドリンクホルダーから、コーヒーの入ったタンブラーを採って、一口飲んだ。

 あまりの苦さに、吐き出しそうになる。人工物は眠気を覚まさせる以外の利点はないが、天然物はこの二十倍ほどの値段で、手が出せない。


「小説の中でさ、主人公たちが喫茶店でコーヒーを飲むシーンがあったんだよ。学生の癖に贅沢だと思っちゃったね」

『当時は日常的な光景でしたから』


 スティーブンスが、ワガママな子供をあやすような口調で言う。


「タイムマシーン使えば、天然ものコーヒー買うより、安く飲めるんじゃないか?」

『確かにそうですが、タイムトラベルには学術的理由がないと許可が取れませんから』

「過去の天然コーヒーと今の人工コーヒーの飲み比べって理由じゃだめか?」


 そんな意味のない話を続けていると、操縦席のランプが赤く点灯した。

 目的地の海底まで、あと十メートルを切ったという合図だ。ここから先は慎重な作業が必要となるので、俺は椅子に座り直し、操縦桿を握る。


「スティーブンス、微調整を頼む」

『かしこまりました』


 いつも憎まれ口をたたくスティーブンスも、仕事中は真剣に受け答えをする。

 小説の続きは、浮上時だな。そんなことを考えながら、操縦桿を手前に倒した。






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