拝啓、親愛なる批評家様へ

すごろく

拝啓、親愛なる批評家様へ

「クソクソクソ、今期もクソばっか」

 谷沢は、いつも楽しそうに笑いながらそう言っていた。

「特にあれだよ、何だっけ? リゼロだっけ? 作画はそこそこだけどさあ、まあ上手くもないんだけど、何より主人公のキャラクターがクソだよな。なんだ、あのウザいやつ。あんなやつのどこに好感持てる要素があるんだよ。察しは悪いし、空気も読めない。あんなに魅力のない主人公は久々だな。あと導入な。導入雑過ぎ。タイムリープと異世界転生を組み合わせたら斬新じゃねとか思ったんだろうけどさ、なんつーか二番煎じの貼り合わせっていうかさ、つまんねえよな、単純に。あー、マジで萎えるわ、ああいうの」

 そんな風に捲し立てているときの谷沢は、水を得た魚のように生き生きとしていた。俺は谷沢のそのきらきらと輝く顔を横目で眺めつつ、適当に買った漫画を読んだり携帯ゲーム機のゲームで遊んだりしながら、その何の実りもない話を聞き流していた。

「聞いてんのかよ、渡井。興味なさそうにしやがって」

 たまに谷沢は不服そうに文句を言った。

「実際に興味ないし。俺がアニメ観ないこと知ってるだろ」

 漫画や携帯ゲーム機に目を向けたままそう返すと、谷沢は決まって同じようなセリフを繰り返した。

「お前も観てみろよ。笑えるぜ」

「でもクソなんだろ?」

「クソだから笑えるんだよ。最近のアニメなんてどんだけ観てもクソなやつばっかり。マジでクソ過ぎて笑えてくるぞ。それに世の中そんなクソなやつが覇権アニメだとかなんとかいって人気になるからな。まったく世も末だよ。こりゃ日本の衰退も納得だね」

 まだ高校生の、日本の隆盛期もアニメの隆盛期も知るはずがない尻の青いその男は、間抜けな猿のような面を歪ませて、嬉しそうに日本のアニメを貶した。

 俺はそんな谷沢に対して呆れてはいたけれど、嫌いではなかった。というより、俺にはあの男を嫌いになる理由がなかっただけなのかもしれない。俺はあの頃からアニメというものに何の興味もなかったし、興味を持とうとする気も更々なかった。谷沢から批判ばかり聞いていたものだからそんな気が起きなかったのではないかという考え方もできたが、谷沢という存在がいなかったとしても、私はアニメというものに一切の関心がなかっただろうと思う。むしろ谷沢がいたから、批判という形で私はアニメという媒体に少し触れていたのではないかという気もする。

 谷沢と俺は、良く言えば幼馴染、悪く言えば腐れ縁と呼称される類の関係だった。たぶんきっかけはたまたま一緒に遊んだとかそんな些細なことだったと思うのだけれど、ふと物心がついた頃から谷沢は俺の隣におり、谷沢も何の疑問も持っていない様子で俺と遊んでいた。俺もそうだけれど、谷沢も他に友人はいないようだった。

 それは俺も谷沢も性格に少々難があるせいのようだった。谷沢は先述の通りの男だが、憶えている限り、昔からこんな感じだった。小学生のときまでは特撮ヒーローものやカードゲームのアニメなどを貶していた。「そんなに嫌いなら観なければいいのに」と俺が純粋な疑問を抱いて言うと、決まって谷沢は「クソなのを証明するために観るんだ」と俺にはよくわからない理屈を展開した。だから谷沢のこの貶し癖は、生まれつきのものなのだろうと思う。

 一方俺は俺で、幼い頃から「もっと他人に関心を持ちなさい」と親から呆れた様子で言われるような子どもだった。実際、俺は他人というものに基本的に興味がない。幼稚園児の頃も、皆が外で駆け回り遊んでいる中で、俺はひとり薄暗い建物の中でぼんやり宙を見つめたりしていた。そんな記憶がある。たぶん谷沢に声をかけられていなければ、俺は永遠に友人と呼ばれる存在を作ろうともしなかっただろうと思う。それが良いのか悪いのかはわからないし、わかったところで何もない、どうでもいいことだった。

 谷沢のアニメ生活は中学生、高校生になるに連れて深夜帯の作品へと移行していき、批判する作品数も増え、それにより、俺が谷沢から観たこともないアニメの批判を聞く回数も当然ながら増えた。

「日常系ってクソだわ。特にごちうさだとかけいおんだとかの美少女動物園。あんなの観てて何が楽しいんだ? 絵柄もキャラもロリペド野郎のためのキモオタ仕様。あんな犯罪者予備軍を大量に発生させるようなジャンルのアニメが流行してるだなんて、日本ってほんと終わってるわ」

「ラブコメって暴力女いすぎだろ。あんな風に他人を罵倒したり殴ったりするやつのどこを好きになれって言うんだよ。ツンデレ? 何が可愛いんだ? 殺意しか湧かないだろ。さっさと犯してぶち殺しちまえって思うわ」

「魔法少女ものって多すぎだろ。特にダークファンタジー気取りのやつ。まどマギの焼き回しばっかりじゃねえか。まどマギ自体も信者が過剰に持ち上げただけの駄作だし。ああいう系のやつを好きこのんで観てるやつってほんと色々と薄っぺらそうだな」

「西尾維新だっけ? あいつが原作やってるアニメ大体キモいわ。言い回しとかあれで洒落てるとでも思ってんのか? ただ寒いだけだっつーの。展開も王道を外してしてやったりみたいなのばっか。ワンパターンだわ。しょうもな」

「深夜アニメを観てるだけで、アニメだけじゃなく日本のラノベも漫画もゲームも全部終わってるってことがわかるな。いや、あんなのを好んでる日本人が終わってるのか。どっちにしろ何がクールジャパンだよ。キモキモジャパンにでも改名すればいいのに」

 よくそんなに罵倒が出てくるなと感心してしまいそうな勢いで、谷沢は毎日のようにアニメに対する悪意を撒き散らした。俺はそれを適当に聞き流した。だから谷沢のアニメ批判はおよそ一割もしっかり聞いていないと思う。それでもこれぐらいは憶えていた。

 その頃には、俺はもう「何で貶すためにアニメを観るんだ?」とは訊かなくなっていた。谷沢にとってアニメを批判することは、自らに課せられた義務であり、また何にも代えられない娯楽のようだった。その嬉々とした表情を見ればわかった。

 そんな谷沢と疎遠になったのは、高校を卒業し、俺が都心の方にある大学へと進学し、そこに一人暮らしをするために引っ越したときだった。谷沢も同じ大学を受験していたのだが、見事に落ち、それどころか滑り止めだったはずの地元の大学の受験さえ落ちた。谷沢は地元に残って浪人生となり、来年に備えて勉強することとなった。

「ふざけんじゃねえよ、俺を落とすとか大学の方が見る目ねえわ。マジで日本終わってるわ」

 谷沢は最後までたらたらと文句を垂れ流していた。俺の進学のことについては何も触れていなかったし、別れの挨拶のようなものをした記憶もなかった。ただただ「ふざけんなよ、ふざけんなよ」と何度も何度も、恨みがましそうにぶつぶつと呟きを繰り返していた。

 それからの生活であるが、特筆することがないので大幅に割愛する。まあとりあえず無難に大学を四年で卒業して、就職もあまり苦労せずにできた。仕事は好きではないが、嫌いでもない。生活も好きではないが、嫌いでもない。つまり可もなく不可もない、そんな人生だった。その間、地元には帰っていない。元々両親とはあまり仲が良くなったのも一因だけれど、そもそも普通に働いて住む場所があるのだから、わざわざ帰るという発想がはなからなかった。谷沢のことはたまに思い出したけれど、特に電話をしようという気持ちにもならなかった。谷沢から電話がかかってくることもなかった。だから谷沢が今どんな近況にあるかはまったく知らなかったし、知りたいという想いも湧かなかった。

 ある日、自室の郵便受けに一枚のハガキが届けられていた。それは高校の同窓会の報せだった。あの欠席とか出席とかを確かめるやつである。正直こんなものが本当に来ることがあるのだなと、他人事のような気持ちで思った。

 最初は普通に欠席の個所に印をつけようと考えた。大した思い出もない高校の同窓会に顔を出す道理は私にはなかった。しかし、同時にふと谷沢の顔が浮かんだ。アニメの批判を嬉しそうに目を輝かせながら語る、あの猿みたいな間抜け面。

 会いたくなった、というのとは少し違った。気になった、といった方が適切かもしれない。今でもあいつはアニメの批判をしているのだろうか、そんなことが、少しだけ、ほんの少しだけ気になった。だから出席の個所に印をつけて、ポストに投函した。

 同窓会の当日、俺は帰省というものをした。久々の地元は、思っていた以上に代わり映えがなく、目についたのは文房具屋が一軒潰れているくらいだった。実家は何となく昔より木材が劣化しているように思えたけれど、昔からそうだった気もする。両親は共々憎たらしいほど健在だったが、だからといって何も感じるところはなかった。どちらかが倒れたり急に死んだりしたときはどう対応しようか、とふと考えた。

 午後六時半ごろに実家を出て、同窓会の会場へと向かった。といっても、それは子どもの頃に見慣れた薄汚い公民館の一室に過ぎなかったのだけれど、田舎の同窓会などそんなものだった。

 俺が到着した頃には、だいぶ人が集まっていた。見知った顔などはなかったが。いや、同級生だったのだから全員見知っているはずだったのだが、誰の顔も記憶に残っていなかった。それは関係が希薄だったせいなのか、加齢のせいなのかはわからなかった。

 何人かの参加者が話しかけてきた。なぜか俺のことを憶えているようだった。名前を名乗られても、一向にその顔にはピンと来ない。参加者たちが語らう学生時代の昔話にも、何の懐かしさも感慨もなく、安っぽい学園ドラマのあらすじを聞かされるような気分だった。

 同窓会が本格的に開かれる時間になって、幹事を務めているらしい男が出てきて長々と挨拶を始める。参加者たちの間に早く乾杯をしたいとうずうずしている空気が漂っている中、俺は首を回して谷沢の姿を探した。しかし、俺が認識できる限り、谷沢らしき人物は見当たらなかった。

 幹事がようやく乾杯の合図を取る。あちらこちら中から歓声のような声が上がり、グラスとグラスがぶつかり合う音が響く。よりいっそ参加者たちはやかましく喋り始める。

 俺は飲食と会話に夢中な参加者たちの合間を縫い、幹事の元へ向かった。幹事もなぜだか俺のことをよく憶えているようだった。

「おお、渡井くん! 久しぶり!」

「あ、ひ、久しぶり・・・・・・。ええっと・・・・・・」

「岡村だよ、岡村。学級委員やってた」

「ああ、うん、そうだった。そうだったな」

 やはり何も思い出せなかったが、愛想笑いを浮かべて相槌を打った。

「いやー、いま何してるの?」

「え? 普通に会社員を――」

「どこの会社?」

「中小企業だよ、しょぼい」

「そうか、俺も似たようなもんでなあ――」

 幹事の岡村は、ビールジョッキをちょびちょびと傾けながら、長話をしそうな気配を醸し出し始める。俺は慌てて遮り、訊きたいことをさっさと訊ねる。

「谷沢は知らないか?」

「は? 谷沢?」

 岡村は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに合点がいったような表情をした。

「そういや渡井くん、谷沢くんと仲良かったもんな」

「う、うん。でもなんかいないなあと思って――」

「谷沢くんは欠席だよ。というか連絡とか取り合ってないの?」

「取り合っては・・・・・・うん、取り合ってはいない」

 谷沢の電話番号が登録されていた携帯電話は、一年ほど前に軽い弾みで壊れた。新しい機種を購入したが、谷沢の電話番号を思い出すことはできなかった。

「あー、じゃあ谷沢くんの近況についても知らない?」

「まあ、そんな感じ。谷沢はいまどうしてるんだ?」

「あー・・・・・・聞きたいか?」

 岡村は少しばつが悪そうな表情をした。

「ぶっちゃけあんまり良い状況ではないらしいんだが・・・・・・」

「死んだのか?」

「死んでないよ。昔の友達をそんな簡単に殺すなよ」

 岡村は呆れたように笑った後、また真剣な顔つきに戻った。

「いま無職のひきこもりだよ、谷沢くんは」

「へー、無職」

 初めて聞いた情報だったが、別段驚きのような感情は湧かなかった。

「大学落っこちてから、ずっとだってさ。受験もしないし、資格も取ろうとしないし、働こうともしない。ご両親の脛を齧って、その貯金や年金で食べてるんだと」

「なるほど」

 あいつらしい、と思った。

「一応出欠確認は送ったんだけどな。返事すら返ってこなかった」

 岡村は何か腹が立つのか、飲食のピッチを上げた。

「そういや谷沢くん、アニメの批判ばっか言ってたなあ」

 唐突に岡村から出たその言葉に、俺はようやく驚きの感情を覚えた。

「あ、知ってたんだ」

「知ってるも何も、あんなに大声で喋ってたんだから、教室にいた誰だって聞いてたよ」

 そういえば、俺は谷沢の声量について気にかけたことはなかった。

「毎日毎日、アニメの批判に次ぐ批判。正直みんな谷沢くんのことは避けてたよ。ついでに谷沢くんのそんな話を黙って聞いてる渡井くんのことも」

 まあ知ってたよ、と思ったけれど、口には出さなかった。

 今もなあ、と岡村はもう完全に独り言の調子で言った。

「今も言ってんのかな、アニメの批判」

 その後は特に谷沢のことは話題にしなかった。適当に世間話をして離れた。帰り際に谷沢の家の住所を聞いた。そのまま会場を出た。俺が同窓会に居続ける理由は何もなかった。

 真っ直ぐ帰らず、谷沢の家へと向かった。道中、月は半分も顔を出しておらず、田畑の脇の用水路からは腐ったたんぱく質のような匂いがして、電柱のそばには大きめの石のように冷たく固まった鳩の死骸が打ち捨てられていた。虫の声が微かに聞こえてくる程度で、心許ない古ぼけた街灯と、少ない民家から漏れる生活の灯りだけが田舎の夜を照らしていた。

 谷沢の家は何の変哲もない、おんぼろな平屋建ての一軒家だった。どの部屋にも電気は点いておらず、廃墟みたいに静まり返っていた。錆びた門扉の横に『谷沢』と掠れた文字が掘られた表札がかけられており、その上には指紋だらけのインターホンが設置されていた。

 そういえば、谷沢の家に来たことなど今まで一度もなかったな、と今更になって思い出す。谷沢との記憶は、いつもアニメの批判ばかり。それでも谷沢は友人だった。友人だったのか。

 そっと手を伸ばし、インターホンを押してみようとする。押したら谷沢は出てくるだろうか。それとも谷沢の親が出てくるだろうか。谷沢の親はどんな顔をしているのだろうか。

 インターホンに指が押し込まれる寸前のところまで来たとき、脳裏に映像のようなものが一気に流れ込んできた。それは数年前の低機能のビデオカメラで撮影したような、記録媒体に傷がついてノイズや雑音まみれになったような、そんな映像だった。

 映像は、ある部屋を映し出した。


 第一印象は、とても窮屈な部屋だった。とにかくそうとしか表現のしようがないほどの圧迫感が、その部屋にはあった。電灯は点いておらず、部屋の隅に無造作に置かれたパソコンから放たれる光だけが灯りとなり、室内を薄っすら青白く照らしている。床には丸められたちり紙、空のペットボトル、カビの生えたカップ麺の容器、ささくれた割り箸、しわくちゃの菓子袋、有名通販サイトのロゴが印刷された段ボール、凹んだティッシュの箱などなど、一般的にはゴミと呼称されるような物体が、床に満遍なく敷き詰められている。

 その生活の退廃のみを感じさせるような空間の中に、どかっと座り込む、太った男の背中が見える。脂肪が段々になっている、まるで鏡餅みたいな後ろ姿。

 それが誰か俺は知っている。それが谷沢であると俺は知っていた。

 谷沢は胡坐を掻き、ただパソコンの画面を一心に睨みつけている。視点がゆっくり動く。だんだん谷沢の近くへ。タイピング音。手元が見える。谷沢はキーボードを激しく叩いている。難曲を演奏しているピアニストみたいな無茶苦茶な指捌きで。

 そして画面が見える。どこかの匿名掲示板の書き込み欄。「クソ」という単語の羅列。

 クソクソクソクソクソクソクソクソクソクソ――隙間なく、びっしりと。

 谷沢は険しい顔つきで、延々とキーボードを叩く。「クソ」と入力する。

 何がクソなのか、どうしてクソなのか。そんなものはなく、そこにあるのは、「クソ」とひたすらタイピングする激しい感情だけだ。

 あとはもう、ただただ「クソ」が増え続けるパソコンの画面と、キーボードを叩くかちゃかちゃという音だけ。そのうちノイズが強くなってくる。そして唐突にぷつんと途切れた。


 気づけば俺はインターホンから手を離している。

 今見えたのは、本当の今の谷沢の姿なのか、俺の願望なのか。

 それを考えるよりも先に、俺はくるっと踵を返した。

 怖気づいた、のかもしれない。実際、怖くなったのは事実だ。もしインターホンを鳴らして、出てきた谷沢の姿があんな風でなければ――自分が何か狂ってしまうのではないか。根拠などなく、意味もなく、何となくそんな気がするという恐怖心があった。

 実家に帰り、一目散に布団に潜りこんで目を瞑っても、あのとき浮かんだ部屋の光景と谷沢の後ろ姿、そしてパソコンの画面という一連の映像が頭から離れなかった。

 時間が経てば経つほど、ただでさえ粗だらけだったその映像は、さらにノイズや雑音が多くなって不明瞭になっていくというのに、なぜか記憶にはぴったり貼りついて取れなかった。「クソ」という単語が、脳内をテロリストのように占領していた。

 それは都心に戻っても変わらなかった。普段仕事をしているときなどはあまり気になりはしないが、ふと暇になったとき――休日の朝や睡眠の前――あの部屋の映像が勝手に脳裏に投影された。もうほとんどノイズしか映っていなくて、音声も酷い有り様だったけれど、それは紛れもなく谷沢の部屋の映像であり、その砂嵐の向こう側には谷沢がいた。醜くてどうしようもない、俺の理想の谷沢の姿がそこにあった。

 ある晩、仕事の帰りにレンタルショップに立ち寄ったのは、谷沢とは関係なく、偶然のことだった、と思う。いや、間接的には関係があったのかもしれない。不眠続きで、いっそのこと眠くなるような小難しい映画でも観れば睡眠導入剤になるのではないかと思ったのだ。

 映画が置かれている棚に向かう途中に、アニメが並んでいる棚に通りかかった。それが目についたのも、本当に偶々だったのだけれど――いや、無意識に探していたのかもしれないけれど――俺の足はその棚の前で止まった。

 棚の右側、上から三列目、そこらへんに置かれているDVDの一軍――。

 ――略称はリゼロ、だっただろうか。谷沢が散々貶していたアニメのタイトル。

 考える間はなかった。手は自然と伸び、そこに置かれているDVDをすべて棚から取り出すと、俺はそのまま躊躇なくレジへと向かった。

 帰宅後、すぐに視聴を開始した。一話の長さがおよそ二十四分で、それが全二十五話。合計すると約十時間。さすがに一晩で見終えるのは無理だったが、二日かけて全話の視聴を完了した。特に何も考えずに、ひたすら物語を追い、楽しむなどという思考もなく、ただ義務感のような気持ちを抱えてぶっ通しで全話を見終えた。

 視聴完了後、しばらく茫然自失でテレビの画面に映り込む自分と睨めっこしていたけれど、徐々にある欲求が湧き上がってきた。

 ――感想を伝えなければ。

 誰に伝えるのかは決まっている。

 思い立つと、いてもたってもいられず、俺は乱暴に部屋を漁り、便箋とシャープペンシルを探した。シャーペンはキャップが欠けたものがベッドの下から埃を被って見つかったけれど、便箋は見つけられなかった。普段誰かに手紙なども出さない性分だから当然といえば当然だった。

 すぐに近場のコンビニに足を運び、棚に置かれている便箋の束と封筒を適当に引っ掴むと、切手と一緒に購入した。これでようやく手紙の準備が整った。

 俺はまた自宅に戻ると、考えているのも惜しいという風にシャーペンの芯を便箋の上に走らせた。内容はもちろんアニメの感想だった。いや、感想というよりも、反論に近いのかもしれなかった。

『――あなたが一番に批判していた主人公の性格ですが、確かに初めはテンションが妙に高く痛々しく見えます。しかし、物語が進むにつれその痛々しさというものに意味が出てきて、最終的にはそれが良いアクセントになっていくような印象を受けました。私はとても人間らしい良いキャラだと思います。あとあなたは導入についても言及していましたが――』

 谷沢の批判が今日のことのようにありありと思い出され、また筆も留まることを知らなかった。同時に俺の脳裏に投影される映像は変わっていた。

 そこに映っていたのは、もうあの狭苦しい谷沢の部屋ではない。ノイズや雑音まみれの粗悪なものでもない。教室だ。高校時代、俺と谷沢が過ごした教室。谷沢から知りもしないアニメの批判を延々と聞かされた教室。そこに俺と谷沢が二人だけ。世界が終わっているように余計な物音一つなく、ただ誰かのうるさい声がその閑散とした空間に反響している。谷沢の声ではない。俺の声だ。俺は谷沢に向かって一方的に喋る。谷沢が批判していたアニメの感想――いや、谷沢の感想に対する反論を。批判の批判を。谷沢は黙っている。顔は黒く塗り潰されていて、どんな表情をしているのかはわからない。ただまくし立てる俺の目前で棒立ちしている。

 谷沢の反応などどうでもよかった。伝えることがすべてだった。

 その映像がぷつんと途切れた頃に、俺は手紙を書き終えていた。

 便箋を折りたたみ、封筒に入れ、封をし、谷沢宅の住所を記し、切手を貼り、自宅を出てすぐ先の坂の上に設置されている、ペンキの剥げたポストに、その手紙を投函した。

 ポストの底に投入した手紙がこつんと落ちる音を聞いたとき、俺は言葉にし難い感覚に包まれた。それは近い言葉を強いてあげるなら多幸感などに該当するのだろうけれど、俺は今の自分の感情が、そのようなすでに言葉にされたものとは違うように感じていたし、何よりわざわざ名前をつけてしまうのは野暮なような気がした。

 この手紙が届いたとき、谷沢はどう思うだろう。怒るだろうか。悲しむだろうか。逆に馬鹿なやつだと笑うだろうか。無感情でゴミ箱に放り込むだろうか。なんでもいい。それでいい。谷沢はいつまでも批評家でいいのだ、アニメの批判をするだけの、そんな存在で。

 また手紙を書こう。あの頃の反論の手紙を。ただ自分の安寧のためだけに。

 谷沢は他にはどんなアニメを批判していただろう、それを思い出そうと記憶を漁りながら、俺は自宅まで伸びる緩やかな坂を下っていく。

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