エピローグ

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緋子ひこさんこんにちはー」

 土曜日の午後、ひとりの客が科学喫茶を訪れた。

 世間は既にお盆休みに突入しており、大型連休の初日にも関わらず、科学喫茶には観光客と思われる客もちらほらと来店していた。別段、宣伝に気合いを入れているわけではなかったが、インターネットをかいして情報がひとり歩きしている感は否めず、地方の名物店として認識されている部分があった。それでも、行列が作られるほどの客待ちが発生するわけではないので、緋子は忙しさを感じながらも、普段通りの接客を心掛けていた。

「ああ、こんにちは」

 緋子は顔を上げて、ドアの方を見る。やってきたのは小説家だった。自営業の作家である彼には、全国的な休暇も何も関係ないのだろう。普段通りの目立たない服装で、普段通りにバッグを肩から掛けている。バッグの中には、普段通り、パソコンが入っているのだろう、と緋子は推察した。

「ちょっと待ってて、今テーブル片付けるから」

「ああ、お気遣きづかいなく。手がいた時で大丈夫なので」小説家は軽く会釈えしゃくをしてから、「なんなら僕が片付けましょうか」と言った。

「あー……」

 顔見知りの常連客とは言え、後片付けをやらせるのは悪い、と思ったのだが、パソコンが置けないと仕事にもならないだろうな、と思い直す。お客様が神様だと思っているわけでもないが、臨機応変りんきおうへんな対応も、時には必要だろう。

「ごめん、そのまま持ってきてくれればいいから、お願いしてもいい?」

「いえいえ、緋子さんのお役に立てるなら、お安い御用ごようですよ。じゃあちょっと、台拭き借りますね」

 緋子は手元でサイフォンをあやつっているところだった。夏だというのにコロンビアの注文が入ったので、今はカウンターを離れられない状況にあった。しかし、ストックされている注文は最後なので、これが終わってしまえば、あとは小説家の対応に回れる。既に昼は過ぎているので、客足もしばらくは落ち着くはずだ。

「ねえ緋子、あの人、例の人だよね」

 カウンターに座る冬子とうこが、緋子に小声で尋ねた。緋子は視線をサイフォンに向けたまま、「ええ、いつもこのくらいの時間にいらっしゃいますね」と答える。

「お母さん、あのね、あの人いつもパソコンでお話書いてるんだって」

 冬子の隣に座る夏乃佳かのかが言った。

「お話? 小説とかそういうこと?」

「本業の作家さんだそうです。うちで執筆しっぴつすると集中出来るみたいで、よくいらっしゃるんです」木べらで液体を攪拌かくはんしながら、緋子が言う。「あれ、でも冬子さん、取材受けたんでしたよね?」

「受けたけど、そう言えば職業は聞いてなかったかも……名刺も貰わなかったから、気にはなってたのよね……いや、普通に雑誌記者か何だと思ってたのよ。なんか態度がうやうやしいし、取材道具もきちんとしてたから。へえ、でも、作家なんだ……言われてみれば確かにそんな感じかも」

「へえ、冬子さん、取材なんて受けてたの?」

 夏乃佳の隣に座る真咲まさきが問いかける。

「先週、ちゃんと話したじゃない」

 冬子が言うと、真咲は「そうだっけ……そうだったかもしれないなあ」と、とぼけたような口調で答える。

「お父さんはなんで全部忘れちゃうの?」

「いや、全部を忘れてるわけじゃないよ。多分、その話が印象に残らなかったんじゃないかな」真咲は言い訳がましく言って、「そういうカノは全部覚えてるのか?」と、娘に対していじわるな発言をした。それに対して、夏乃佳は頬を膨らませるだけで何も答えず、冬子は仕方なさそうに笑っている。

「仲が良くて羨ましい限りですね」

 緋子は冷めた口調で言ってから、出来上がった珈琲を革製のスリーブを巻いたビーカーに注ぎ、コーヒーフレッシュと一緒にアルミバットに乗せ、カウンターを出ていく。

 七ツ森ななつもり家は長期休暇を利用して、このまま真咲の実家に向かうようだ。夏乃佳の話していた植物でいっぱいのお祖母ちゃんの家である。結婚した経験がないので緋子には分からないが、冬子には気が重い旅なんじゃないだろうか、という想像をした。もっとも、冬子のように美人な嫁と、夏乃佳のような可愛い孫が来るのだから、真咲の両親も大喜びかもしれない。七ツ森家に一般常識が通用するとも思えなかったので、緋子はそれ以上の思考をシャットアウトすることにした。

「うわっ!」

 緋子がソファ席に珈琲と伝票を置いた直後、大きな叫び声と共に、ガラスの割れる音が店内に響き渡った。ぎょっとして緋子が振り返ると、顔面蒼白そうはくな状態の小説家が、カウンターの中で茫然ぼうぜんと立ち尽くしていた。

「すみません、お騒がせしました」緋子は周囲の客に頭を下げながらカウンターに戻り、「何やってんの。怪我しなかった?」と、状況を確認しながら尋ねる。割れてしまったのはビーカーであるらしく、幸い、ガラス片はカウンター内に散乱しているだけのようだった。

「ごご、ごめんなさい……すみませんでした緋子さん、割っちゃいました……」

「いや、別にいいけど。食器が割れるなんて日常茶飯事だし。何? 手でも滑った?」

「いや……ごめんなさい、あれにびっくりして……」

 小説家が震える手で、緋子が腰掛けるスツールを指差す。

 その上に、黒くて丸い毛玉が鎮座ちんざしていた。毛玉の中には、黄色い円が二つ浮いている。その瞳が小説家をとらえたあと、毛玉は退屈そうに大きな欠伸あくびをした。

「な、なんで猫がいるんですか?」

「あー……昨日突然やってきて、居座ったんだよね」

「それだけの理由で店に置いてるんですか!?」

 言いながら、小説家は大きくくしゃみをした。両手で口元を抑えても、店内に響き渡るほどの大きな音だった。再び店内の視線が小説家に集まるが、すぐに喧騒が戻ってくる。

「ごめんなさい……」

「大丈夫?」

「すみません。僕、お恥ずかしいことに、猫アレルギーなんですよ……」紙ナプキンで口元を抑えながら、小説家は困ったように呟いた。「あの猫、飼うんですか?」

「あー……それであんた、この人がいる時は店にいなかったの」

 緋子は猫を見ながら楽しそうに笑って、数日前の出来事を思い出す。そう言えば、あの日も小説家は、何度かくしゃみをしていたはずだ。

「いや、今まさに目の前にいますよね?」

 緋子は小説家の言葉を無視して、黒猫の首根っこを掴むと、抵抗する黒猫をカウンターから連れ出し、階段上に落下させた。

「ほら、仕事の邪魔だから、部屋で遊んでなさい」

 黒猫は不機嫌そうな鳴き声をひとつ上げたあと、大人しく居住スペースである二階へ上り始める。

「アレルギー、二階なら平気?」

「そんなにひどいやつじゃないので、至近距離じゃなければ、まあ」小説家は目を赤くしながら頭を下げ、紙ナプキンで鼻を抑える。「すびばぜん、食器代は今日の支払いにつけておいてください」

「いや、別にいいよ。いつも売上に貢献こうけんしてもらってるし、私も何個も割ってるから」緋子は言って、手を洗ってから、ほうき塵取ちりとりでガラス片を片付け始める。「しばらく、足元気を付けてね」

「すみません緋子さん……次回からはマスク持参で来ますね」

「今日は私がお願いして連れて来てもらっただけなので、次からは大丈夫ですよ」と、唐突に夏乃佳が言った。「お兄さん、こんにちは!」

「え? あー、お嬢さんだぁ。普段と違うところにいるから気付かなかった。こんにちはこんにちは」小説家は紙ナプキンで鼻をみながら夏乃佳に笑いかける。「今日は珍しいところにいるんですねえ」と、何故か夏乃佳に対しても敬語で語り掛ける。

「はい! これからお母さんとお父さんと一緒におばあちゃんちに行くので、緋子先生にご挨拶しに来たんです」

「あ、これはこれは、親御さんでしたか。すみません、娘さんに馴れ馴れしくお声掛けして──うわ! 本当にお母さんだ!」

 小説家は視線を横にずらし、冬子を見て悲鳴に近い声を上げる。

「どうもー。先日はお世話になりました」と、冬子がよそ行きの声で応じる。

「ああ……その節はどうもお世話になりました……いや、はあ……本当にお嬢さんのお母さんだったんですか……ああ、そうですかそうですか……これはこれは……」小説家はじろじろと冬子を見つめたあと、真咲に視線を移し、「お父さんは普通ですね。良かった……」と言った。

「なんか俺、今、失礼なこと言われてない?」

「気のせいじゃない?」冬子が笑いながら言う。

「気のせいだよ」と、夏乃佳も言った。

「あ、突然失礼しました。すみません。お気になさらないでください。家族水入らずなんていいですね、あこがれちゃいます」小説家は頭を下げながら言って、「すみません、緋子さん、ブレンドをひとつお願いしますね」と言って、カウンターから逃げるように去っていく。

「変わった人だねえ」冬子が言う。

「常連さんの中では、あれで中々、常識人ですよ」緋子は微笑みながら呟いた。「しかし、やっぱりニコさんはお店には出さない方が良いかな。危ないし」

 緋子は天井を見上げながら呟いた。

「可愛いのにねえ」冬子が言う。

「マスコットキャラとして売り出せばいいんじゃない」真咲が興味なさそうに呟いた。「珈琲豆の名前とかつけてさ。ブルーマウンテンとか」

「もうニコさんっていう名前がついてるんだよ」夏乃佳が真咲に言った。

「ニコ? 猫って言ったのかと思った。でも、なんでさんづけなの? 普通、ペットって、ちゃんじゃないの?」

「名前がH2CO3なので、ニコさんです」緋子は恥ずかしそうに言う。

「なんで化学式なんだよ」真咲は笑って言いながら、宙を細い目で見つめて、「なんだっけそれ……炭酸だっけ?」と呟いた。

「ご明察です。よくすぐに出て来ますね真咲さん」

「分解しやすかったからね」真咲は照れ隠しのつもりか、目を閉じて口をとがらせる。「でもそれだとHがないんじゃない」

「Hはまあ……読み辛いので、省略しました」

「Hも無理矢理読むと、緋子と似た発音になっちゃうんだね」と、冬子が笑いながら言った。「H1CO3とかいう化学式、ないの?」

「一個の場合は省略が基本だし、それだとH1C1O3でしょ」真咲はからかうように、冬子に笑いかける。

「そんなことは知ってます」と、冬子はねたように言う。

「全然話についていけない」

 夏乃佳が言うと、大人たち三人は顔を見合わせて笑った。なんとなく、研究室で談笑していた頃を思い出すな、と緋子は感じていた。もう、遠い昔の出来事のように思える。けれど、色褪せない記憶として、緋子の中に根付いているものだ。

 緋子はサイフォンを洗い、再び所定の位置にセットする。電気ケトルのスイッチを入れ、豆を計量し、小説家が使う通常のコーヒーカップを用意した。つい先ほど使ったお湯が残っているはずなので、間もなく沸騰することだろう。一応、大きな鍋にブレンドは用意がしてあったが、せっかくなので、丁寧に作ってやろうかな、という気になった。

「じゃ、常連さんも来たみたいだし、そろそろ行こうか」

 真咲は言って、伝票を手に取った。

「あ、その前にお手洗い借りても良い?」冬子が言う。「このあと、すぐに高速乗るでしょ」

「途中でコンビニとか寄ってもいいけど……まあ別に急がないからどっちでもいいよ。カノは? トイレは大丈夫?」

「うん、私はまだ大丈夫」

「じゃあ、私ちょっと行ってくる。緋子、お手洗い借りるね」

「ええ、どうぞ」

 冬子がトイレに立ったあと、残った夏乃佳と真咲の姿を見て、緋子はふいに、既視感を覚えた。その正体は何だろう、と考えて、夏川少年のことだ、と思い出した。今、夏乃佳の隣に座っているのは真咲だったが、二人の後ろに、夏の景色が見える。窓の外は、今日も晴天だった。つい数日前の出来事なのに、遠い昔のことのように思い起こされる。

「あ、すごい、見てよカノ、ぴったりある」財布をのぞき込みながら、真咲が言う。「ほら、支払いすると綺麗に小銭なくなる。空っぽだよ」

「あとで買い物したらまた増えるでしょ?」

「そうなんだけどさあ。そうじゃないんだよ。この瞬間が嬉しいんだよ」

 緋子は二人の会話を聞きながら、楽しそうだな、と思った。夏乃佳の反応は好意的とは言えないかもしれないが、二人の関係が良好なのは見ていれば分かる。思ったことや、感じたことをすぐに口に出してしまう夏乃佳の自由奔放じゆうほんぽうさは、どうやら父親譲りらしい、と感じた。

 フラスコに湯を入れて、アルコールランプに火をつける。日常が戻ってきたな、という感覚があった。今日から九日間、休みなしで働き続けることになるが、あまり無理をせずに働いているから、それほど心配もしていない。手伝ってくれる弟がいなくなってしまったのが痛手だが、まあなんとかなるだろう。そのうちに、アルバイトの募集でもするべきかもしれない。これからは本当に、ひとりきりになってしまうのだ。

 蒼太のことを考えていて、ふと、緋子の中にひらめきが走った。夏乃佳との会話の中で、妙に引っかかっていた言葉が、突然に落ちた感覚だ。

「ねえ、七佳」

「はい! なんですか?」

「ちょっと前に話したじゃない。りゅー君みたいな人がいたら、七佳が助けてあげなきゃいけないって」

「……はい」夏乃佳は少しだけ、元気をなくしたように頷いた。「思い出すとちょっとお腹が痛くなっちゃいますね」そして、困ったように微笑む。

「おいおい誰だよりゅー君って。俺そんな子知らないぞ」

「真咲さんが考えているような相手ではないので、気にしなくていいですよ」

「誰? 男の子? カノにはまだそういうの早いんじゃない?」

「確かに男の子ですけど……ほら、例の男の子のことですよ」

 真咲は誘拐事件だったということを知っているのだろうか? と思ったけれど、わざわざ口に出すべきではないだろう、と緋子は言葉をにごすことにした。冬子が何らかの情報操作をしているかもしれないし、七ツ森家で上手く調整されているかもしれない。あまり他人に首を突っ込むべきではないということを、緋子は今回の件で思い知っていた。

「え? ああ……そうかそうか、あれだ、柳一りゅういち君ね」真咲は慌てたようにカップに口を付けたが、既に中身は空になっていた。「そうかそうか。お父さんびっくりしたよ」

「それがどうしたんですか?」夏乃佳は父親を無視して続ける。

「あの時、りゅー君みたいな人を助けてあげてって言ったのに、七佳は『誰かが傷ついてもですか?』って言ったでしょ。あれ、どういう意味かなって、ずっと気になってたんだけど」

「あー……はい」夏乃佳は思い出すように、視線を上げる。「言いました。ちゃんと覚えてます」

「カノは記憶力がいいなあ」

「お父さんは口を挟まないで!」夏乃佳は真咲を睨みつけるようにして言う。

「はいはい。部外者は静かにしてますよ」

「はいは一回でしょ」

「はい。……ごめん猫目ねこめ、続けて」

「すみません」緋子は笑いながら応える。「あの時、七佳は誰のことを言っているんだろうって思ってたんだけど、今思うと、あれは蒼太そうたと私のことを気遣ってくれてたんだね。私が言った正しいことっていうのをしたとしても、その結果、誰かが傷付くって思ったから――だから七佳はあんなに、抵抗したのかなって、今急に思って。だから、なんとなく、確認」

「なるほどです」夏乃佳は、少なくとも怒られるような話ではないようだと思い、笑顔を取り戻す。「でもあれは、蒼太お兄ちゃんのことじゃないですよ」

 夏乃佳は言ったあと、「あ、でも蒼太お兄ちゃんのことでもありましたね」と、自問自答するように呟いた。

「ん? そうなんだ。じゃあ、蒼太の他にも、七佳の中では、りゅー君みたいな人が思い浮かんでたってこと?」

 緋子は言いながら、アルコールランプの火を消して、フラスコに珈琲を溜めていく。湯を張って温めていたカップを空にして、布巾で軽く水気を拭き取り、ソーサーの上に乗せる。

「はい! あ、でも、蒼太お兄ちゃんと同じで、緋子先生が傷付くかと思って」

 緋子はとくに思考を働かせずに、作業を続けながら聞いていた。フラスコから珈琲をカップに注ぐ。湯気が立ち上り、夏だというのに、この熱い珈琲を魅力的に感じる。伝票をソーサとカップの間に挟んで、カウンターの上に置いた。

「私が知ってる人なんだ。それ、誰? 聞いてもいい?」

 会話の内容は頭に入っているけれど、特に答えを気にするでもなく、普段と同じように、世間話の延長のように、緋子は尋ねる。

 夏乃佳もまた、いつも通りの表情で、いつも通りの声色こわいろで、世間話をするように、言った。

「えっと、私のお母さんです」

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『科学喫茶と夏の空蝉』 福岡辰弥 @oieueo

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