エピローグ
エピローグ
「
土曜日の午後、ひとりの客が科学喫茶を訪れた。
世間は既にお盆休みに突入しており、大型連休の初日にも関わらず、科学喫茶には観光客と思われる客もちらほらと来店していた。別段、宣伝に気合いを入れているわけではなかったが、インターネットを
「ああ、こんにちは」
緋子は顔を上げて、ドアの方を見る。やってきたのは小説家だった。自営業の作家である彼には、全国的な休暇も何も関係ないのだろう。普段通りの目立たない服装で、普段通りにバッグを肩から掛けている。バッグの中には、普段通り、パソコンが入っているのだろう、と緋子は推察した。
「ちょっと待ってて、今テーブル片付けるから」
「ああ、お
「あー……」
顔見知りの常連客とは言え、後片付けをやらせるのは悪い、と思ったのだが、パソコンが置けないと仕事にもならないだろうな、と思い直す。お客様が神様だと思っているわけでもないが、
「ごめん、そのまま持ってきてくれればいいから、お願いしてもいい?」
「いえいえ、緋子さんのお役に立てるなら、お安い
緋子は手元でサイフォンを
「ねえ緋子、あの人、例の人だよね」
カウンターに座る
「お母さん、あのね、あの人いつもパソコンでお話書いてるんだって」
冬子の隣に座る
「お話? 小説とかそういうこと?」
「本業の作家さんだそうです。うちで
「受けたけど、そう言えば職業は聞いてなかったかも……名刺も貰わなかったから、気にはなってたのよね……いや、普通に雑誌記者か何だと思ってたのよ。なんか態度が
「へえ、冬子さん、取材なんて受けてたの?」
夏乃佳の隣に座る
「先週、ちゃんと話したじゃない」
冬子が言うと、真咲は「そうだっけ……そうだったかもしれないなあ」と、とぼけたような口調で答える。
「お父さんはなんで全部忘れちゃうの?」
「いや、全部を忘れてるわけじゃないよ。多分、その話が印象に残らなかったんじゃないかな」真咲は言い訳がましく言って、「そういうカノは全部覚えてるのか?」と、娘に対していじわるな発言をした。それに対して、夏乃佳は頬を膨らませるだけで何も答えず、冬子は仕方なさそうに笑っている。
「仲が良くて羨ましい限りですね」
緋子は冷めた口調で言ってから、出来上がった珈琲を革製のスリーブを巻いたビーカーに注ぎ、コーヒーフレッシュと一緒にアルミバットに乗せ、カウンターを出ていく。
「うわっ!」
緋子がソファ席に珈琲と伝票を置いた直後、大きな叫び声と共に、ガラスの割れる音が店内に響き渡った。ぎょっとして緋子が振り返ると、顔面
「すみません、お騒がせしました」緋子は周囲の客に頭を下げながらカウンターに戻り、「何やってんの。怪我しなかった?」と、状況を確認しながら尋ねる。割れてしまったのはビーカーであるらしく、幸い、ガラス片はカウンター内に散乱しているだけのようだった。
「ごご、ごめんなさい……すみませんでした緋子さん、割っちゃいました……」
「いや、別にいいけど。食器が割れるなんて日常茶飯事だし。何? 手でも滑った?」
「いや……ごめんなさい、あれにびっくりして……」
小説家が震える手で、緋子が腰掛けるスツールを指差す。
その上に、黒くて丸い毛玉が
「な、なんで猫がいるんですか?」
「あー……昨日突然やってきて、居座ったんだよね」
「それだけの理由で店に置いてるんですか!?」
言いながら、小説家は大きくくしゃみをした。両手で口元を抑えても、店内に響き渡るほどの大きな音だった。再び店内の視線が小説家に集まるが、すぐに喧騒が戻ってくる。
「ごめんなさい……」
「大丈夫?」
「すみません。僕、お恥ずかしいことに、猫アレルギーなんですよ……」紙ナプキンで口元を抑えながら、小説家は困ったように呟いた。「あの猫、飼うんですか?」
「あー……それであんた、この人がいる時は店にいなかったの」
緋子は猫を見ながら楽しそうに笑って、数日前の出来事を思い出す。そう言えば、あの日も小説家は、何度かくしゃみをしていたはずだ。
「いや、今まさに目の前にいますよね?」
緋子は小説家の言葉を無視して、黒猫の首根っこを掴むと、抵抗する黒猫をカウンターから連れ出し、階段上に落下させた。
「ほら、仕事の邪魔だから、部屋で遊んでなさい」
黒猫は不機嫌そうな鳴き声をひとつ上げたあと、大人しく居住スペースである二階へ上り始める。
「アレルギー、二階なら平気?」
「そんなにひどいやつじゃないので、至近距離じゃなければ、まあ」小説家は目を赤くしながら頭を下げ、紙ナプキンで鼻を抑える。「すびばぜん、食器代は今日の支払いにつけておいてください」
「いや、別にいいよ。いつも売上に
「すみません緋子さん……次回からはマスク持参で来ますね」
「今日は私がお願いして連れて来てもらっただけなので、次からは大丈夫ですよ」と、唐突に夏乃佳が言った。「お兄さん、こんにちは!」
「え? あー、お嬢さんだぁ。普段と違うところにいるから気付かなかった。こんにちはこんにちは」小説家は紙ナプキンで鼻を
「はい! これからお母さんとお父さんと一緒におばあちゃんちに行くので、緋子先生にご挨拶しに来たんです」
「あ、これはこれは、親御さんでしたか。すみません、娘さんに馴れ馴れしくお声掛けして──うわ! 本当にお母さんだ!」
小説家は視線を横にずらし、冬子を見て悲鳴に近い声を上げる。
「どうもー。先日はお世話になりました」と、冬子がよそ行きの声で応じる。
「ああ……その節はどうもお世話になりました……いや、はあ……本当にお嬢さんのお母さんだったんですか……ああ、そうですかそうですか……これはこれは……」小説家はじろじろと冬子を見つめたあと、真咲に視線を移し、「お父さんは普通ですね。良かった……」と言った。
「なんか俺、今、失礼なこと言われてない?」
「気のせいじゃない?」冬子が笑いながら言う。
「気のせいだよ」と、夏乃佳も言った。
「あ、突然失礼しました。すみません。お気になさらないでください。家族水入らずなんていいですね、
「変わった人だねえ」冬子が言う。
「常連さんの中では、あれで中々、常識人ですよ」緋子は微笑みながら呟いた。「しかし、やっぱりニコさんはお店には出さない方が良いかな。危ないし」
緋子は天井を見上げながら呟いた。
「可愛いのにねえ」冬子が言う。
「マスコットキャラとして売り出せばいいんじゃない」真咲が興味なさそうに呟いた。「珈琲豆の名前とかつけてさ。ブルーマウンテンとか」
「もうニコさんっていう名前がついてるんだよ」夏乃佳が真咲に言った。
「ニコ? 猫って言ったのかと思った。でも、なんでさんづけなの? 普通、ペットって、ちゃんじゃないの?」
「名前がH2CO3なので、ニコさんです」緋子は恥ずかしそうに言う。
「なんで化学式なんだよ」真咲は笑って言いながら、宙を細い目で見つめて、「なんだっけそれ……炭酸だっけ?」と呟いた。
「ご明察です。よくすぐに出て来ますね真咲さん」
「分解しやすかったからね」真咲は照れ隠しのつもりか、目を閉じて口を
「Hはまあ……読み辛いので、省略しました」
「Hも無理矢理読むと、緋子と似た発音になっちゃうんだね」と、冬子が笑いながら言った。「H1CO3とかいう化学式、ないの?」
「一個の場合は省略が基本だし、それだとH1C1O3でしょ」真咲はからかうように、冬子に笑いかける。
「そんなことは知ってます」と、冬子は
「全然話についていけない」
夏乃佳が言うと、大人たち三人は顔を見合わせて笑った。なんとなく、研究室で談笑していた頃を思い出すな、と緋子は感じていた。もう、遠い昔の出来事のように思える。けれど、色褪せない記憶として、緋子の中に根付いているものだ。
緋子はサイフォンを洗い、再び所定の位置にセットする。電気ケトルのスイッチを入れ、豆を計量し、小説家が使う通常のコーヒーカップを用意した。つい先ほど使ったお湯が残っているはずなので、間もなく沸騰することだろう。一応、大きな鍋にブレンドは用意がしてあったが、せっかくなので、丁寧に作ってやろうかな、という気になった。
「じゃ、常連さんも来たみたいだし、そろそろ行こうか」
真咲は言って、伝票を手に取った。
「あ、その前にお手洗い借りても良い?」冬子が言う。「このあと、すぐに高速乗るでしょ」
「途中でコンビニとか寄ってもいいけど……まあ別に急がないからどっちでもいいよ。カノは? トイレは大丈夫?」
「うん、私はまだ大丈夫」
「じゃあ、私ちょっと行ってくる。緋子、お手洗い借りるね」
「ええ、どうぞ」
冬子がトイレに立ったあと、残った夏乃佳と真咲の姿を見て、緋子はふいに、既視感を覚えた。その正体は何だろう、と考えて、夏川少年のことだ、と思い出した。今、夏乃佳の隣に座っているのは真咲だったが、二人の後ろに、夏の景色が見える。窓の外は、今日も晴天だった。つい数日前の出来事なのに、遠い昔のことのように思い起こされる。
「あ、すごい、見てよカノ、ぴったりある」財布を
「あとで買い物したらまた増えるでしょ?」
「そうなんだけどさあ。そうじゃないんだよ。この瞬間が嬉しいんだよ」
緋子は二人の会話を聞きながら、楽しそうだな、と思った。夏乃佳の反応は好意的とは言えないかもしれないが、二人の関係が良好なのは見ていれば分かる。思ったことや、感じたことをすぐに口に出してしまう夏乃佳の
フラスコに湯を入れて、アルコールランプに火をつける。日常が戻ってきたな、という感覚があった。今日から九日間、休みなしで働き続けることになるが、あまり無理をせずに働いているから、それほど心配もしていない。手伝ってくれる弟がいなくなってしまったのが痛手だが、まあなんとかなるだろう。そのうちに、アルバイトの募集でもするべきかもしれない。これからは本当に、ひとりきりになってしまうのだ。
蒼太のことを考えていて、ふと、緋子の中に
「ねえ、七佳」
「はい! なんですか?」
「ちょっと前に話したじゃない。りゅー君みたいな人がいたら、七佳が助けてあげなきゃいけないって」
「……はい」夏乃佳は少しだけ、元気をなくしたように頷いた。「思い出すとちょっとお腹が痛くなっちゃいますね」そして、困ったように微笑む。
「おいおい誰だよりゅー君って。俺そんな子知らないぞ」
「真咲さんが考えているような相手ではないので、気にしなくていいですよ」
「誰? 男の子? カノにはまだそういうの早いんじゃない?」
「確かに男の子ですけど……ほら、例の男の子のことですよ」
真咲は誘拐事件だったということを知っているのだろうか? と思ったけれど、わざわざ口に出すべきではないだろう、と緋子は言葉を
「え? ああ……そうかそうか、あれだ、
「それがどうしたんですか?」夏乃佳は父親を無視して続ける。
「あの時、りゅー君みたいな人を助けてあげてって言ったのに、七佳は『誰かが傷ついてもですか?』って言ったでしょ。あれ、どういう意味かなって、ずっと気になってたんだけど」
「あー……はい」夏乃佳は思い出すように、視線を上げる。「言いました。ちゃんと覚えてます」
「カノは記憶力がいいなあ」
「お父さんは口を挟まないで!」夏乃佳は真咲を睨みつけるようにして言う。
「はいはい。部外者は静かにしてますよ」
「はいは一回でしょ」
「はい。……ごめん
「すみません」緋子は笑いながら応える。「あの時、七佳は誰のことを言っているんだろうって思ってたんだけど、今思うと、あれは
「なるほどです」夏乃佳は、少なくとも怒られるような話ではないようだと思い、笑顔を取り戻す。「でもあれは、蒼太お兄ちゃんのことじゃないですよ」
夏乃佳は言ったあと、「あ、でも蒼太お兄ちゃんのことでもありましたね」と、自問自答するように呟いた。
「ん? そうなんだ。じゃあ、蒼太の他にも、七佳の中では、りゅー君みたいな人が思い浮かんでたってこと?」
緋子は言いながら、アルコールランプの火を消して、フラスコに珈琲を溜めていく。湯を張って温めていたカップを空にして、布巾で軽く水気を拭き取り、ソーサーの上に乗せる。
「はい! あ、でも、蒼太お兄ちゃんと同じで、緋子先生が傷付くかと思って」
緋子はとくに思考を働かせずに、作業を続けながら聞いていた。フラスコから珈琲をカップに注ぐ。湯気が立ち上り、夏だというのに、この熱い珈琲を魅力的に感じる。伝票をソーサとカップの間に挟んで、カウンターの上に置いた。
「私が知ってる人なんだ。それ、誰? 聞いてもいい?」
会話の内容は頭に入っているけれど、特に答えを気にするでもなく、普段と同じように、世間話の延長のように、緋子は尋ねる。
夏乃佳もまた、いつも通りの表情で、いつも通りの
「えっと、私のお母さんです」
『科学喫茶と夏の空蝉』 福岡辰弥 @oieueo
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