第四話

「……また寝ちゃってました」

 客のいない科学喫茶で、夏乃佳かのかは目を覚ました。

 カウンターの中には先ほどまでと変わらない様子で、緋子ひこが座っていた。夏乃佳は、いつもと同じ席の上で、ゆっくりと上体を起こす。そして不安げな表情を、緋子に向けた。

「おはよう、七佳なのか

「おはようございます……」

 夏乃佳の口調から、あまり元気があるようには思えない。普段の幽体離脱とは違い、肉体的なだるさがあるからだろうな、と緋子は思う。強制的に眠らされたのだから、当然だろう。意識とやらの入れ替えが上手く行われたのかは分からないが、睡眠時間の短さから考えても、何らかの変化は発生したものと考えられる。

 緋子が利用したのは一般的に睡眠薬と呼ばれるものだが、実際には利用者は気絶きぜつと似た状態におちいる。睡眠導入剤とは毛色けいろが違うものだ。意識を完全に失わせて、肉体の自由を奪う。本来、一般人が簡単に入手出来る代物しろものではなかったが――緋子にもそれなりのコネクションはあった。処方された風邪薬を家族の一人が使うのと同じように、正規の取引の後で不正な受け渡しを行うことは出来る。あるいは、やろうと思えば直接的に横流しすることも可能だ。職歴しょくれきからして、そういう人脈じんみゃくは作りやすい。

 本来は、迷惑な客を大人しくさせるために常備している薬のひとつだったが、まさか常連客を――それも夏乃佳を眠らせるために使用することになるとは、緋子も思っていなかった。

「あの、緋子先生」

「なに」

「……ごめんなさい」

 夏乃佳は覚醒かくせいしきっていない表情のまま、頭を下げた。

「なにが」

「……緋子先生とお話出来ないの、やっぱり嫌でした」

 夏乃佳は不貞腐ふてくされたように言った。自分では大丈夫だと思っておこなったことが、周りが言う通りの結果をまねいたことに、恥ずかしいような、悔しいような気持ちだったのだろう。緋子にも過去に似たような経験をしたことがある。だから、今回の件で夏乃佳を責めようなどという気にはならなかった。

「それが普通だよ」

「それに、蒼太そうたお兄ちゃんのことも……黙っててごめんなさい」

「七佳は蒼太のこと、ずっと知ってたんだよね」

 緋子が尋ねると、夏乃佳は諦めたように、深くうなずいた。

「別にいいよ。気にしてないから」

「でも……」

「七佳にとっては、大昔に死んだ猫目ねこのめ蒼太っていう人間より、あの化猫ばけねことの方が付き合いが長いわけだもんね。一緒だよ。私と一緒。私が、夏川なつかわ君より七佳を選んだのと、同じこと。だから、七佳は間違ってないし、私に七佳を責める権利もない。そもそも、七佳が蒼太のことを私に言う義務もない」

「でも……ごめんなさい」

「ねえ、もし七佳が他にも、私に言えないことを胸にめているとしても――それを無理して言う必要はないよ。七佳に出来ることだから、やらなきゃいけないっていうのも――ごめん、忘れて。忘れられないかもしれないけど、それでも……忘れて欲しい。そんなの、私が強制することじゃないんだから。あの件は、完全に私が間違ってた」

「私は、緋子先生が正しいと思いました」

「七佳がそういう風に思うなら、それでもいいと思うよ。でも、七佳はまだ小さいから――結論を出すのは、もう少し大人になってからね。誰かを盲信もうしんするのは、危険なことだよ」

「盲信って何ですか?」

 夏乃佳の質問に、緋子は三秒間だけ考えてから、「私が幽霊を信じないようなことかな」と答えた。

「でも、幽霊はいますよ?」と、夏乃佳は不思議そうに問う。

「七佳の言うことは信用したいけど、私は信じたくない。つまり、科学を盲信すると、私みたいになっちゃうってこと。でも、私はもう結構歳を取っちゃったから……なかなか、新しい常識を信じるのは難しいんだよね。り固まるって言うか……まあ、なんだろう。信じるのが下手へたになっちゃうの」

「そうなんですかぁ」夏乃佳は気遣きづかうように言う。「私は、見たもの全部信じちゃいます」

「それでもいいんじゃない、今のうちは」

 緋子は、飲みかけのミルクティーの代わりに、オレンジジュースを夏乃佳に与えた。「もう眠くならないよ」と、緋子は冗談を付け加える。さっきまでの蒼太との会話を、夏乃佳は全て聞いていたはずだ、と、緋子は考えていた。

「緋子先生、蒼太お兄ちゃんは本当にいなくなっちゃったんですか?」

「え? ああ……うん、どうだろうね。七佳が戻ってきたってことは、宣言通り、夏川君とどっかに行っちゃったんじゃない? 七佳にわからなければ、私もわからない」

「そうですかー……」夏乃佳はストローに息を吹いて、オレンジジュースをぶくぶくと泡立てた。

「こら、行儀悪いよ」

「蒼太お兄ちゃんがいないと、寂しくなりますねえ」

 泣くわけでもないし、悲しむ素振りも見せない。ただちょっとだけ、夏乃佳は虚空こくうを見つめて、想いをせるように溜息をついた。ああ、夏乃佳らしい反応だな、と、緋子は思う。一期一会いちごいちえ、というのも変かもしれないけれど、夏乃佳にとって、出会いと別れは日常的なもので、深く悲しむほど、特別なことではないのかもしれない。それが例え、人生の半分の期間付き合いのあった人物だとしても。

 これは、きっと本物だろう、と緋子は思う。

 証拠もないし、根拠もないかもしれない。でも、不思議なことに、本物の夏乃佳だと言える自信があった。

 緋子は思い出したようにスマートフォンを取り出して、連絡先から冬子とうこを呼び出した。ほとんど待たずに、すぐに通話が開始される。

『緋子! どんな状況? 見つかった?』

「見つけました。遠鳴とおなり神社で寝ているところを保護して、ひとまず、店に連れてきました」

『ああ……本当? 良かった……ありがとう。すぐに行くね。夏乃佳は無事なの? 夏川君は? 他には誰もいなかったの?』

「ええ、他には誰も。代わりましょうか?」

『うん、ちょっと、お願いしていい?』

 緋子は「お母さん」と言いながら、夏乃佳にスマートフォンを渡した。夏乃佳は一転して満面の笑みになり、小さな手で端末を持ちながら、「お母さん!」と、通話を始める。そう、これが夏乃佳だ――と、緋子は思う。どんなに悲しいことがあろうが、どんなに楽しいことがあろうが、過去を引きずったりしない。感情の波に逆らったりしない。

 冬子に全てを話すべきだろうか。夏乃佳を見ながら、緋子は考える。冬子なら、今日起こった出来事の全てを、きちんと理解してくれることだろう。頭も良いし、非現実的な世界についても精通せいつうしている。夏乃佳の母親なのだから、知っているべきだろう。でも、自分の娘が他人の――しかも人間ではない誰かのために犠牲ぎせいになろうとしたことを話すべきかは、すぐには判断出来ない。

 それは夏乃佳の判断に任せよう、と思った。

 それに、夏乃佳の行動は、自分の発言に起因きいんしている。そうした失態しったいを口にするのがはばかられる部分もあった。いくら仲が良くても、保護者同然の立ち位置であっても、自分は他人に、意図的に影響を与えるべきではないのだ。

 否、肉親であれ、そうしたことはするべきではない。

 誰だって、自分で考えて行動しなければ。

 考えるだけでなく――行動しなければ。

「ありがとうございました!」言いながら、夏乃佳が端末を緋子に差し出した。「お母さん、すぐに迎えに来てくれるって言ってました」

「良かったね」

「えへへ」

 端末を耳に当て、「では、お待ちしております。休業にしていますけど、そのまま入ってきてくださって構いませんから」と緋子は言った。了承りょうしょうげ、通話が切れる。

 端末を見つめながら、あとで自分の母親にも連絡をしなければならないな――と考えた。今までの母親の態度からして、考えられるパターンとしては、母親も蒼太は生きていると思い込んでいるか、緋子のことを気の狂った娘だと思って接しているか、どちらかだろう。後者の可能性の方が高そうだ、と緋子は考えた。弟の死を受け入れられずに、存在を肯定こうていし続けている姉。まずはその誤解を解かなければならない。実際のところ誤解ではなかったのだけれど――まあ、説明はしなければならない。両親が蒼太が化猫であったことを知っていたのか、人間の姿をした蒼太を見たことがあるのか――色々と、確認しなければならない。その上で、話し合わなければ。

 色々と、気が重い。

 けれど、解決しなければ。

 先延ばしにするのは、もうやめなくちゃいけない。

「ねえ七佳」

「なんですか?」

「もし、私が本物の猫目ねこのめ緋子じゃなかったら――七佳はどうする?」

 特に意味のある質問ではなかった。どういう答えが返ってきても、七佳を責めたりするつもりはなかった。ただ、ふいに気になったから、尋ねていた。

「それは……嫌ですね」

「嫌なんだ」

「すごく嫌です。でも、仕方ないですね」

 夏乃佳は答える。今の緋子との付き合いの方が長いからだろう、と、緋子は結論付ける。多分、夏乃佳の判断基準は、それなのだ。とても人間的な考え方だった。損得そんとくではなく、付き合いの長い人間を大切にするという、ごくごく当たり前のこと。義理や人情に近い考え方だろう。

「じゃあ、もう一個質問。七佳は――本物の七佳?」

 緋子が尋ねると、七佳は答えにくそうにしながら、はにかんで言った。

「さっき、緋子先生のお話聞いちゃいました」

「ああ、そっか。やっぱりこの辺にいたんだ」

「はい。でも、多分、緋子先生が言っていたようなことを答えてたと思います! だって、本物でも偽物でも、別にどっちだって同じですから」

 夏乃佳のその言葉には、諦念ていねんはない。

 あるいは達観たっかんにも似た感情が見え隠れしているように思えた。

 ――――ああ、そういうことなのか。

 緋子は、そこでようやく、夏乃佳の真意に触れた気がした。

 本物でも偽物でも、見分けられないなら同じことだ――緋子は夏乃佳の言葉を、そういう風にとらえていた。夏乃佳以外には見分けられないのだから、どっちだって同じなのだと。

 でも、そうじゃないのかもしれない。

 相手が本物だろうが、偽物だろうが、どうしようもなくそれと付き合っていくしかない。全ての場合で、今回のような結末を迎えられるわけではないだろう。蒼太が既に死んでいるように、取り返しの付かない場合もあれば――夏乃佳がこばめば、この小さな体には、今も夏川少年が入っていたかもしれない。

 否、今もまだ、入っているかもしれない。

 でも緋子は、今の夏乃佳を、本物だと信じている。

 だったら本当に――どっちだっていい。

 我々がどうにか出来ることの方が、きっと少ないのだ。

 だったら、どっちだっていいじゃないか――と、夏乃佳は言っているのだろう。

 しかし、緋子はその真意を、夏乃佳に尋ねることはしなかった。その真意を確かめたところで、何か良いことがあるわけでもない。知的好奇心は満たされるかもしれないが、だからと言って、何かが変わるわけでもない。

 むしろ緋子も、同じようなことを考えていた。

 蒼太が本物でも、化猫でも――今となっては、どっちでも良かった。

 大人になったからそう思うのだろうか。

 昔の蒼太のことを忘れてしまっているから、そう思えるのだろうか。

 分からない。

 もしこのまま蒼太が戻ってこなければ、きっと緋子は寂しいだろう。

 いつか、突然泣き出してしまう日が来るかもしれない。

 でも今は平気だ。

 まだ、傷付いたことにも気付いていない。

 夏川少年は、無事に母親と会えたのだろうか、と考える。

 もし彼が見つからなければ――あるいは母親にとっては、偽物でも、自分の息子が目の前にいた方が、幸せなんだろうか。

 自分がそうだったように。

 どちらが正しいのか、緋子には分からない。

 分からなくなってしまった。

 きっと、目に見えることだけが真実ではない。

 けれど、目に見えるものだけが現実に思える。

「七佳」

 何を信頼して、何を疑えば良いのかも分からない。

 結局、自分勝手な思考の積み重ねだ。

 だから緋子にも、夏乃佳を縛る権利なんてない。

「なんですか?」

 どっちだっていいのかもしれない。夏乃佳の言う通り。

 本物だろうと偽物だろうと――何も変わらない。

 結局は、自分の目に映るかどうか。

 それが自分にとって、好ましいかどうか。

 自分が、信じられるかどうか。

 偽物でもいいから満たされたいなら、それは周りがとやかく言うべきことではないのかもしれない。

「おかえり」

 緋子の言葉に、夏乃佳は満面の笑みを浮かべる。

「ただいまー!」

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